「棄老伝説」の本質は反転的な「敬老訓話」である

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1  伝承者が絶えれば、「昔話」のレベルの「物語」は変容する
 
 
近代社会成立以前に形成されていた、成員の農業生産の自給的生産体制による地縁的相互扶助の共同体
 
単位集団の自立性が高く、この閉鎖的・自足的な共同体は、元々、鉄器の普及によって灌漑(かんがい)文化生まれ、稲作の進展が加速的に具現化した所産である。
 
かくて、農業生産を根幹にした、地縁的相互扶助の共同体の中に貧富の差が生じる。
 
支配・被支配の関係が進行するのだ。
 
小規模な共同体が、より大きな集団に統合されていくのは必至だった。
 
この共同体の自己運動は「クニ」という形態のうちに収斂され、我が国の歴史の複雑な遷移を通して、古代国家の形成を促していく。
 
は、弥生時代後期の4世紀頃
 
今や、放射性炭素年代測定(「炭化米」の測定)によって、弥生時代が紀元前10世紀頃に始まったことが明らかにされていて、倭国が成立し、3世紀中頃には古墳時代に遷移したことまで分かってきた。
 
大陸から北九州にもたらされたであろう、水稲耕作技術をコアとした共同体の生活体系が世紀を超え、東部深くにまで浸透した歴史は「大陸系磨製石器」の発見によって裏付けられている。
 
弥生時代のスケールの大きさは、かって、私たちが素朴に考えていたイメージを遥かに超えるものだった。
 
天智天皇(てんじてんのう)となる中大兄皇子蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟・のちに自害)や、どこの馬の骨とも分らない中臣鎌足(「藤原氏」のルーツ)による蘇我氏独裁の権力を打倒した、大化の改新(645年)という大規模なクーデターによって、大和政権での天皇権力が確立され、唐の律令制度を基にした「公地公民制」が採用され、中央集権的な支配体制=古代国家(律令国家)を構築するに至る。
―― 謎が多いから面白い日本古代史のフォローはこの辺にして、ここから、ミクロな視座で、我が国のアンタッチャブルな世界に目を転じてみよう。
 
そのテーマは、「相互扶助」と「ルール」(掟)という関係構造によって営まれる、閉鎖的・自足的な共同体として置き去りにされたような、小規模な村落共同体の「棄老伝説」の民間説話である。
 
「口承文学」(こうしょうぶんがく)に依拠する民間説話の中で、「棄老伝説」に関わる口伝(くでん)が内包するインパクトは半端ではい。
 
固定されることない「物語」は、時代を経て、新しいエピソードが挿入されていくので、どうしても統一性を欠き、テープレコーダーなどでの録音が存在しなかった時代では、僅かでも事実の可能性がある「伝説」と切れ、自己完結性のない単なる「言い伝え」(迷信)「昔話」・「神話」のレベルで終始してまう「物語」が多い。
伝承者が絶えれば、「物語」も変容してしまうからである。
 
 
2  「棄老伝説」の本質は、反転的な「敬老訓話」である
 
 
そんな民間説話の中に、我が国の「棄老伝説」が真(まこと)しやかに伝播(でんぱ)している。
 
それはどこまでも、根拠の希薄な「言い伝え」(迷信)の類(たぐい)に過ぎないということ。 
 
この認識が、私の問題意識のコアにある。 
 
確かに、「棄老伝説」に関わる説話が、信州を中心(今村昌平監督の映画・「楢山節考」の舞台は甲州)に、我が国に残っていることは事実である。 
 
例えば、平安時代前期の貴族歌人・在原業平(ありわらのなりひら)をモデルにした歌物語として名高い、「伊勢物語」(主人公の「昔男」=業平説に異論もあり)の影響下に成立した、「棄老伝説」の初見である「大和物語」(貴族社会の和歌を中心とした作者未詳の歌物語で、950年頃に成立)の156段には、両親を喪った更級(さらしな)に住む男の元に叔母が住み込み、それが男の妻の反感を買い、粗略に扱うが、その叔母をダマし、夫を強要して、山に棄老させたという話がある。 
 
もっとも、棄老した男は後悔し、山に行き、連れて戻って来たという後日談によって、この山を「姨捨山」と呼んだというオチになる。 
 
「今昔物語」においても同様で、棄老した男が自責の念に堪(た)えられず、直ちに山へ戻り、連れ帰るという筋書きである。 
 
―― また、江戸中期の「更科紀行」松尾芭蕉俳諧紀行文)には、「姥捨の月」姨捨は「名月の里」と言われ、多くの和歌にまれてきた)を賞しょう)している。
 
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と伝」(意訳・更科の里、「姥捨の月」を見ることを、秋風が推奨して、吹き騒いでいる。共に、大自然の中へ漂泊の旅に出たいと思う心が炸裂する。そんな者が、また一人やって来た。「更科紀行」の旅に同行した私の弟子の越人である
 
これは、「姥捨の月」の記述がある、「更科紀行」の有名な一節である
また、「更科紀行」には、「もののあはれ」が窺える名句がある。
俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣く月の友
(意訳・月に照らされた姨捨山が心に染みる。昔、その月を眺めながら泣いていた老婆の姿が心に浮かんできて、何とも言えない気持ちになる。せめて、今宵は、その面影を偲んで月見しよう)
 
明らかに、「姨捨伝説」が俳句の基本モチーフになっている。
この「更科紀行」には、善光寺に詣(もう)で、長野から碓氷峠(うすいとうげ)を経て、江戸に帰るまでの紀行作品で、構成は前半に文章、後半に発を置くもの。
―― 次に、日本民俗学創始者柳田国男が遺した重要な一文。
「親棄山とはけしからぬ話、聴くも耳のけがれと思う人もあろうが、これはそういう驚くような話題をだして、まず聴く者の注意をひき寄せようとする手だてであって、じっさいは人に孝行をすすめる話なのである。人によってはまた棄老国(きろうこく)ともいうが、この名称は外国からきている。昔々、いつのころとも知れない遠い昔、そうしてまた何処にあるかもはっきりしない、ある一つの国に、親が六十歳になると、山へ棄ててこなければならぬという、とんでもない習わしがあった。それが一人のよい子ども、もしくは心のやさしい者の行いによって、もう永久にそんな事をする者がないようになったという話、その話し方がまた変っていておもしろいのであった」(青空文庫 
 
これは、柳田国男の「母の手毬歌」の一節である。  
 
ここで注目したいのは、「親棄山とは…(略)人に孝行をすすめる話なのである」という記述である。
柳田国男が言うように、「何処にあるかもはっきりしない、ある一つの国に、親が六十歳になると、山へ棄ててこなければならぬという、とんでもない習わし」があったかも知れないが、この「とんでもない習わし」が歴史の風雪に耐え、淘汰されずに、事実の可能性がある「伝説」として残っているとは、私にはとうてい考えられない。
「棄老伝説」の本質は、反転的な「敬老訓話」であると考えているからだ。
 
前述したように、伝承者が絶えれば、「物語」も変容してしまうのである。
 
だから、どこまでも、「棄老伝説」についての「過去帳」が一級の資料として残っていないのだろう。


時代の風景  「 『棄老伝説』の本質は反転的な『敬老訓話』である 」よりhttp://zilgg.blogspot.jp/2018/04/blog-post.html