1 伝承者が絶えれば、「昔話」のレベルの「物語」は変容する
近代社会成立以前に形成されていた、成員の農業生産の自給的生産体制による地縁的相互扶助の共同体。
かくて、農業生産を根幹にした、地縁的相互扶助の共同体の中に貧富の差が生じる。
支配・被支配の関係が進行するのだ。
小規模な共同体が、より大きな集団に統合されていくのは必至だった。
天智天皇(てんじてんのう)となる中大兄皇子、蘇我倉山田石川麻呂(蘇我入鹿の従兄弟・のちに自害)や、どこの馬の骨とも分らない中臣鎌足(「藤原氏」のルーツ)による蘇我氏独裁の権力を打倒した、大化の改新(645年)という大規模なクーデターによって、大和政権での天皇権力が確立され、唐の律令制度を基にした「公地公民制」が採用され、中央集権的な支配体制=古代国家(律令国家)を構築するに至る。
固定されることがない「物語」は、時代を経て、新しいエピソードが挿入されていくので、どうしても統一性を欠き、テープレコーダーなどでの録音が存在しなかった時代では、僅かでも事実の可能性がある「伝説」と切れ、自己完結性のない単なる「言い伝え」(迷信)・「昔話」・「神話」のレベルで終始してしまう「物語」が多い。
伝承者が絶えれば、「物語」も変容してしまうからである。
2 「棄老伝説」の本質は、反転的な「敬老訓話」である
そんな民間説話の中に、我が国の「棄老伝説」が真(まこと)しやかに伝播(でんぱ)している。
それはどこまでも、根拠の希薄な「言い伝え」(迷信)の類(たぐい)に過ぎないということ。
この認識が、私の問題意識のコアにある。
例えば、平安時代前期の貴族歌人・在原業平(ありわらのなりひら)をモデルにした歌物語として名高い、「伊勢物語」(主人公の「昔男」=業平説に異論もあり)の影響下に成立した、「棄老伝説」の初見である「大和物語」(貴族社会の和歌を中心とした作者未詳の歌物語で、950年頃に成立)の156段には、両親を喪った更級(さらしな)に住む男の元に叔母が住み込み、それが男の妻の反感を買い、粗略に扱うが、その叔母をダマし、夫を強要して、山に棄老させたという話がある。
もっとも、棄老した男は後悔し、山に行き、連れて戻って来たという後日談によって、この山を「姨捨山」と呼んだというオチになる。
「今昔物語」においても同様で、棄老した男が自責の念に堪(た)えられず、直ちに山へ戻り、連れ帰るという筋書きである。
「さらしなの里、おばすて山の月見ん事、しきりにすゝむる秋風の心に吹さはぎて、ともに風雲の情をくるはすもの、又ひとり越人と伝」(意訳・更科の里、「姥捨の月」を見ることを、秋風が推奨して、吹き騒いでいる。共に、大自然の中へ漂泊の旅に出たいと思う心が炸裂する。そんな者が、また一人やって来た。「更科紀行」の旅に同行した私の弟子の越人である)
これは、「姥捨の月」の記述がある、「更科紀行」の有名な一節である。
また、「更科紀行」には、「もののあはれ」が窺える名句がある。
俤(おもかげ)や姥(うば)ひとり泣く月の友
(意訳・月に照らされた姨捨山が心に染みる。昔、その月を眺めながら泣いていた老婆の姿が心に浮かんできて、何とも言えない気持ちになる。せめて、今宵は、その面影を偲んで月見しよう)
明らかに、「姨捨伝説」が俳句の基本モチーフになっている。
「親棄山とはけしからぬ話、聴くも耳のけがれと思う人もあろうが、これはそういう驚くような話題をだして、まず聴く者の注意をひき寄せようとする手だてであって、じっさいは人に孝行をすすめる話なのである。人によってはまた棄老国(きろうこく)ともいうが、この名称は外国からきている。昔々、いつのころとも知れない遠い昔、そうしてまた何処にあるかもはっきりしない、ある一つの国に、親が六十歳になると、山へ棄ててこなければならぬという、とんでもない習わしがあった。それが一人のよい子ども、もしくは心のやさしい者の行いによって、もう永久にそんな事をする者がないようになったという話、その話し方がまた変っていておもしろいのであった」(青空文庫)
ここで注目したいのは、「親棄山とは…(略)人に孝行をすすめる話なのである」という記述である。
柳田国男が言うように、「何処にあるかもはっきりしない、ある一つの国に、親が六十歳になると、山へ棄ててこなければならぬという、とんでもない習わし」があったかも知れないが、この「とんでもない習わし」が歴史の風雪に耐え、淘汰されずに、事実の可能性がある「伝説」として残っているとは、私にはとうてい考えられない。
前述したように、伝承者が絶えれば、「物語」も変容してしまうのである。