1 享楽する町人文化 ―― 浮世絵は我が国特有の絵画文化の結晶である
「大和絵」という、絵画の様式概念がある。
中国風の絵画「空絵」(からえ)の影響を受けた新様式の日本画に対して、「源氏物語絵巻」に代表される、平安文化の時期に発達した伝統的な様式による絵画 ―― これを「大和絵」と呼ぶ。
この「大和絵」の流れを汲み、武家の支持した漢画系の狩野派とは対立するが、様式の創造的な展開のために、その狩野派を筆頭に土佐派、洋画派などの他派の絵画性向を吸収・消化し、当代の風俗を描いて江戸庶民の心を掴み、発展していった絵画のジャンルとして歴史に名を残す、総合的な絵画文化がある。
言うまでもなく、浮世絵である。
この絵画文化には、手描きの「肉筆浮世絵」もあれば、1765年に誕生した、版元、絵師、彫師、摺師という、複雑な工程の分業体制によって完成された浮世絵木版画である「錦絵」もある。
当初は遊里(遊郭・花魁)を主なテーマにしていたが、次第に、美人画、役者絵、風景画、花鳥画、芝居絵、名所絵、春画など、多岐の分野に広がっていった。
手描きの「肉筆浮世絵」は一点ものなので高価であるが、木版画は、多く摺り上げることができるので安価であった。
だから、後者は、当時の江戸庶民の需要を充分に満たし、現在の「クールジャパン」(漫画・ アニメ文化)を彷彿(ほうふつ)させて、爆発的に売れていく。
性的な描写だけでなく、ユーモア(「笑い絵」)も溢れていたので、春画の人気は、18世紀後半以降の江戸時代にピークを迎える。
武士も庶民も大らかに楽しんでいたのだ。
我が国特有の絵画文化の結晶である浮世絵は、19世紀後半、1862年ロンドン万博、67年パリ万博、73年ウィーン万博を起点に、純粋に視覚的な造形を求めていたヨーロッパの画家たちの心を捉え、フランスを中心に欧米諸国で日本美術ブーム、即ち、「ジャポネズリー」(日本趣味)を吸収した「ジャポニスム」(仏語)を興す。
自身の絵画の背景にまで取り入れるほど浮世絵収集で際立ち、クロード・モネが憑かれた「ジャポニスム」は、幕末期に最晩年の歌川広重が制作した、江戸末期の名所図会の集大成「名所江戸百景」(119枚の図絵)をゴッホが模写するなど、印象派やアール・ヌーボーに影響を与えるが、アンリ・マティス、アンドレ・ドランらによって興された20世紀最初の絵画革命、即ち、感覚重視の「フォービズム」(野獣派)などの前衛美術の出現によって、1910年代に終息するに至る。
50年続いたとしても、文化は根付かなければ、単なるブームで終わってしまうのである。
これは、クールジャパンでも同じこと。
単なる「点」でしかない「ブーム」と、「線」として発展的に継承されていく「文化」とは異なるのである。
日本の「浮世絵文化」は多様性を内包しつつ、江戸から幕末・明治にかけて、一つの太い幹を有する「線」として発展を遂げた紛れもない「文化」であった。
それでも、欧米の美術運動に大きな刺激を与えた歴史的事実を否定すべき何ものもない。
浮世絵の確立者・菱川師宣(ひしかわもろのぶ)、錦絵誕生に決定的な役割を果たした浮世絵師・鈴木春信(美人画)、鳥居派の代表的な絵師・鳥居清長(美人画)、喜多川歌麿(美人画)、東洲斎写楽(役者絵)、葛飾北斎、歌川派の天才絵師(広重、国芳)など、錚々(そうそう)たる絵師の名が並ぶが、いずれも絶大な人気を博す個性派である。
中でも、鈴木春信は彫り師との協力の下、菱川師宣が制作した墨一色の「墨摺絵」(すみずりえ)をルーツに、そこに紅・緑などの色版を摺り重ねて到達した「紅摺絵」(べにずりえ)によって、極彩色で摺った「錦絵」を誕生させた革命児であった。
この精緻を極めた美の極致・「錦絵」技法の出現こそ、浮世絵の完成形であると言っていい。
美の極致・多色刷り版画の「錦絵」こそ、西洋人に特に大きなインパクトを与えた技法である。
北斎の師であり、江戸中期の浮世絵師・勝川春章(かつかわしゅんしょう)が晩年に描いた肉筆の美人画は、女性表現の描写の精緻さ・優美さ・純度と、その芸術性の高さにおいて、他の絵師と一線を画すと言える。
「春章の肉筆画がみせる描写の細かさは、(略)女性の毛髪の一本一本、また着物の模様のひとつひとつに執念的ともいえる意欲を注いだ春章の、みずみずしい『生』の表現」
このように、春章の肉筆画を絶賛するのは、出光美術館学芸員の廣海伸彦さん。
勝川春章もまた、その画業の全盛期において、肉筆の美人画を極めた「浮世絵美人画」の極北であった。
写楽と共にプロデュースし、その歌麿の浮世絵の出版で知られる、吉原生れの江戸時代の版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう=「蔦重」)。
江戸幕府10代将軍・徳川家治の側用人・田沼意次(おきつぐ)が断行した積極経済政策(重商主義政策)によって、「賄賂政治」が横行しつつも(それを否定する論考もある)、前代の緊縮財政策(吉宗による「享保の改革」)の閉塞感を払拭したの開放的な世情(せじょう)の中で、蔦重が担った出版業隆盛の時代の波動が、曲亭馬琴(きょくていばきん)、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)という無名の読本作者・戯作者ばかりか、写楽・歌麿・北斎らの浮世絵師の逸材を世に出した、当代髄一の版元だった。
しかし、出版界の天下を取った蔦重の開放的な気風は、田沼意次の失脚後に断行された、老中首座・松平定信による幕政改革(「寛政の改革」)の緊縮財政策のターゲットになる。
浮世絵師でもあった山東京伝(さんとうきょうでん)の洒落本が禁令に触れ、手鎖(てぐさり/両手に手錠をかけられ謹慎処分)50日の処罰を受け、それを出版した蔦重も、風俗矯正政策に抵触した罪で財産半減の処分を受ける。
この時代の変動は、喜多川歌麿をも襲っていく。
美人画の大家と称されながら、生年、出生地など出自が不明な歌麿は、蔦重の強力なサポートを得て抜きん出た才能を発揮し、独自な画風を確立させていく。
女性の肌の質感・微妙な心理・感情をも描き出す歌麿の精緻な画風は、全身を描かず、慣例打破とも言える、上半身をクローズアップさせる「大首絵」(おおくびえ)の手法を生み出し、一時代を画すに至る。
しかし、「浮世絵美人画」を極めた感のある歌麿芸術の影響力の強さが、質素・倹約を江戸町人に求める幕府の風紀取締りの禁令に抵触し、歌麿・蔦重に対する権力の圧力が強化されていく。
それは、「浮世絵」という、我が国独自の文化が、体制に対峙する一つのメディアとして立ち上げられた現象を意味する。
いよいよ強化する幕府の圧力に対し、江戸町人の遊び心の代表格のような、なぞなぞ絵解きの「判じ絵」(絵を読み解く遊び)などで対抗していたが、それでも、美人画を描き続ける歌麿が幕府権力に狙い打ちにされるのだ。
秀吉の晩年に催した花見の宴・「醍醐の花見」を題材にした、浮世絵(「太閤五妻洛東遊観之図」)を描いたこと。
秀吉の遊興が、時の将軍への揶揄と見做(みな)されたのである。
極端な思想統制令によって、定信が課したペナルティは、浮世絵黄金時代を構築した蔦重と同様に、手鎖50日の処罰。
1804年5月のことである。
当然、経済・文化の停滞が顕在化するのだ。
しかし、歌麿が被弾した処罰は、ほぼ過半の財産没収と手鎖処罰を受けても挫けず、次代を担う作家の養成に取り組み、不屈の町人魂を生き切った蔦重と切れ、心身ともに憔悴(しょうすい)し切り、罹患する。
48年の決して長くない人生を生きた蔦重と、遂に再起できなかった歌麿の54年の人生に、いかほどの差異があるのか。
それは、誰も分らない。
ただ、写楽らと共に、浮世絵黄金時代の渦中で、極限的な芸術表現を具現した歌麿の54年の後半生において、勝川春章の肉筆の美人画の芸術性と比肩し得るに足る、作画の表現力の高さは認めざるを得ないだろう。
そして、蔦重がプロデュースした謎の絵師・東洲斎写楽。
1年にも満たない期間に、役者絵などの作品を版行したのち、忽然(こつぜん)と画業を絶った男については、今でも侃侃諤諤(かんかんがくがく)の議論が絶えないほどだが、版木に膠(にかわ)をつけて紙に摺り、雲母(うんも)の粉をかけ、画面に輝きを与える技法・雲母(きら)摺り(YouTube参照)の手法による、「役者大首絵」をリアルに描出した写楽の画業の凄みは時代を超えていく革命性を有する。
しかし、残念ながら、私の心奥に鏤刻(るこく)する何ものもない。
それにしても、葛飾北斎。
この絵師だけは別格だ。
あらゆる意味で、「全身・画業」で生き切った、寄せ付ける何ものもない独立峰なのだ。
稿を代えて、「画狂人」北斎に言及したい。