二人で選ぶ外国映画123選(アジア・オーストラリア・南米・ヨーロッパ篇)

 
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アトランダムに選んだランキングなしの、主観的な「秀作」の抜粋である。
一般的に評価されている作品であっても、共に気に入った作品が前提条件なので、漏脱(ろうだつ)されている「秀作」が多くあるが、どこまでも、私たち夫婦の拘泥(こうでい)が強く反映された、寸評を附与した「123選」になっている。【文・ヨシオ・ササキ】
 
黒衣の刺客('15) ホウ・シャオシェン
 
この映画で特徴的なのは、虫の声、野鳥のさえずり、木々のざわめき、渓流のせせらぎ、見通しが利かないほど濃く立ち込めた霧。そして、山水画のごとく幽玄な風景の広がりが、まるで、一幅の絵画を思わせる佳景と化し、私たちの心を洗い流してしまうような構図の連射だった。それは、人間が支配している一切の人工的な仕掛けが、歴史的時間の点景でしかないと思わせる何かだった。
 
 
私の大好きな「珈琲時光」。肩ひじ張らず、ゆったりとした時間が流れる映画が切り取った、「日常性」の静のリズムの心地良さ。上京して来た父のために、アパートの向かいの大家さんの家に、一青窈(ひととよう)が酒とグラスを借りに行くシーンは、ヒロインのおおらかな性格と生活風景が凝縮されていて、最高にいい。「日常性」は、ほんの少し更新されていくことで、自在に変形を遂げていくのだ。ここでも、浅野忠信はいい。
 
 
明らかにその夜、女は、男との濃密な心理的絡みを超えて、肌の触れ合いを求めていた。男もまた、女の情感に寄り添い、肌を合わせることを求めていた。映像が観る者に提示したものは、男と女の深々とした睦みの描写以外の何ものでもなかった。しかし、映像はそれを映し出すことをせず、シンガポールに行く前の男と、逢瀬(おうせ)を重ねられない女の寂しさをフォローするだけだった。置き去りにされた女の哀しい表情を、映像は拾い上げていく。しかし会えない。常に、男と女は擦れ違うだけなのだ。
 
息もできない('08) ヤン・イクチュン
 
インディーズの世界から分娩された、「熱気」と「炸裂」に充ちた「究極の一作」。男の心の闇。押し込んで、押し込んで、押し込んでもなお押し込み切れないで噴き上がってしまう、サンフンの異様に尖り切った攻撃的情念は、虐待親が虐待親を生むという虐待的暴力のチェーン現象を作り出す。「トラウマ」、「愛情」、「尊厳」という「幼児虐待の克服課題」をクリアし得なかった深刻さが、サンフンの人格総体に纏(まと)わり付いていて、それが男の心の闇を広げてしまっているようだった。俳優・ヤン・イクチュンも素晴らしい。
 
冬の小鳥('09) ウニー・ルコント
 

親に捨てられたジニにとって、児童養護施設での「仮の生活」以外に行動の選択肢がないことを、「施設からの自己解放」という艱難(かんなん)な物理的行為の軟着が不可能である現実の経験を通して、残酷なまでに感受せざるを得なかった。開放された門扉の向こうへの遥かなるディスタンス。この現実の重量感が弥増(いやま)して、9歳の少女は、「仮の生活」の強制的機構の世界のうちに、ただ単に物理的なシフトを果たしたのである。

 
薄氷の殺人('14) ディアオ・イーナン
 
「今のうちに自分で話せ。あとで、他の人に話すよりだいぶいい」「どういう意味?」「自分から話すんだ」。女に嘘偽りのない告白を求める元刑事・ジャンには、彼女が犯した犯罪の内実を殆ど察知しているが故に、それを補填する女の告白を受けることで、「弱き者」同士の縁で結ばれた女の救済に向かうのだ。検閲とのせめぎ合いの中で、基幹メッセージを巧みに隠し込み、商業映画としての成功を収めた映像は、見事なまでのラストシーンの提示のうちに、極めて作家性の高い結晶点に収斂されていく。紛れもない傑作である。
 
罪の手ざわり('13) ジャ・ジャンクー
 
鮮烈な冒頭シーン。トマトを運ぶ大型トラックが横転し、路傍に大量のトマトが散乱している。事故を目撃したのか、オートバイに跨(またが)る一人の男が、その無残な現場を眺めている。その幹線道路を、オートバイで疾走する、別の男が映像提示される。そして、その男による殺人事件が、いきなり冒頭から展開されるのだ。
 
 
本作は、「半身山里人(やまざとびと)」が、「全身山里人」との、2泊3日の「公務員としての山の郵便配達」の濃密な共有経験を介して、「全身山里人」としての「職業」を選択することで、山里への「定着」を決意していくまでの物語である。
 
 
「最高に美しく、最高に輝いていなくてはならない」。母の思春期像を浮き彫りにする物語に、「完全無欠な純愛映画」を収斂させたのは、チャン・イーモウ監督の父母への最大級のオマージュである。この映画には、過去の体験を自分の都合のいいように書き換える、監督自身の「再構成的想起」が深々と侵入している。打たれ強い精神を培ってくれた両親の苛酷な人生を、「再構成的想起」によって最高に輝く時間に変換させ、特別の意味づけを与えたのである。
 
芙蓉鎮('87) 謝晋(シエ・チン)
 
文化大革命の政治的混乱の中で、一人の女性・玉音の苛酷な人生を通して、文革の狂気を抉(えぐ)り出した作品の切れ味は鋭く、玉音に「豚になっても生き抜け」と言い残した恋人・書田の言葉には力があり、忘れられない名画になった。
 
殺人の追憶'03) ボン・ジュノ
 
これほどの衝撃と興奮と感動を覚えた映画は、近年、全く記憶にない。「殺人の追憶」は一級のサスペンス映画であるが、カタルシスを手に入れられない作品である。それは、遂に連続殺人鬼を捕まえられなかった男たちの、壮絶にして苛酷な人間ドラマだからである。政局不安な80年代後半の韓国の農村で、実際に起こった10件もの女性連続殺人事件をベースに、遂に、迷宮入りとなった韓国史の「汚点」を、ボン・ジュノ監督が鋭く抉(えぐ)り出す。
 
 
息子のトジュンが真犯人であることを、この世で、母親だけが確信している。それ故、ダウン症の「真犯人」の前で、母は号泣した。この号泣の思いに含まれている感情こそが、ごく普通の母親の情感に符合するもので、そこで切り取られた構図は、容易に感情移入を許さない映像の中で、唯一と言っていい程に、観る者の情感を揺さぶって止まないシーンであった。
 
 
 
 
心の風景  「二人で選ぶ外国映画123選(アジア・オーストラリア・南米・ヨーロッパ篇)」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/08/blog-post.html