ドラマ特例篇 「この戦は、おのれ一人の戦だと思うている」 ―― 「『麒麟がくる』本能寺の変」・そのクオリティの高さ

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1  寂寥感漂う悲哀を映し出す究極の「盟友殺害」の物語

 

 

 

「『麒麟がくる』・本能寺の変」(第59作・最終回)を観て、涙が止まらなかった。

 

テレビを観ない習慣が根付いていながら、「麒麟がくる」だけは別格だった。

 

理由は、本木雅弘斎藤道三を演じるという情報を得たこと。

 

下剋上の象徴の如き戦国武将・美濃の蝮(まむし)を本木雅弘が演じたら、一体、どのような人物像になるか。

 

それが堪(たま)らなく魅力的だった。

 

期待に違(たが)わず、美濃の蝮の独壇場の世界が、大河序盤で全開するのだ。

 

もう、止められなくなった。

 

正直、主役の明智十兵衛光秀 (以下、「十兵衛」とする)を演じる長谷川博己には、殆ど期待薄だった。

 

映画を通じて観ていたが、特段に惹きつけられることもなかった。

 

まして、上流層からも招かれる博打好きの名医・東庵(とうあん)、その東庵の助手で本篇で最も重要な役割を担い、「麒麟」という理念の象徴的存在となる駒、家康の忍び・菊丸、旅芸人一座の座長で、関白・近衛前久(さきひさ)や朝廷と十兵衛との仲立ちをする、伊呂波太夫(いろはだゆう)といったオリジナルキャラクターが次々に出て来て、当初は、大河ドラマの創作性の高さに馴染めなかったが、馴致するのも早かった。

 

所詮、テレビドラマであると決め込んでいたからだ。

 

ところが、次第に十兵衛の存在に目を離せなくなってくる。

 

特に、道三の壮絶な死後、信長と十兵衛の関係が描かれていくに連れ、見逃せなくなってきた。

 

東京オリ・パラによる5週分の放送休止(全44回に縮小)や、新型コロナウイルス(COVID-19)・パンデミックの怒涛のような激流(実際に、2カ月に及ぶ収録の一時休止)もあり、これまでの「戦国もの」の印象と異なり、定番の合戦シーンと、その行程表現が希薄であった代わりにシフトしたのが、主要登場人物、就中(なかんずく)、十兵衛と信長の関係の心理描写が丹念に描かれていて、「戦国絵巻」の渦中での精緻な人物造形に吸い込まれていくようだった。

 

これが、「『麒麟がくる』・本能寺の変」という、それ以外にない王道の最終篇の中で、埋め草の余情という心像をも超え、決定的に奏功する。

 

想像の範疇を超えた圧巻の最終回に心打たれ、絶句した。

 

「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」と謡って、「敦盛」(幸若舞)を舞うという、あまりに気障(きざ)な「本能寺の変」の定番描写を破壊する演出に、涙腺崩壊の状態だった。

 

ここで描かれた信長像が、従来のイメージを完全に払拭し、「非常にナイーブな信長像」(脚本家の池端俊策)として提示されたこと。

 

まさに、意表を突かれた時の心地よい感覚の充足感 ―― これが観る者を衝いてきたのだ。

 

「信長という人物は、戦国時代のスーパーヒーローです。異端児としても知られていますね。側近の平手政秀は信長の奇行をいさめるために腹を切ったといわれるなど、信長の異端ぶりは『信長公記』をはじめ、いろいろと語り継がれています。でも、僕はいままでのような剛直で独裁者風で、偉大な信長ではなかったのではないかと思っています」

 

池端俊策の言葉である。

 

「母親は弟の信勝ばかりかわいがって、信長のことはむしろ疎ましく思っていた。母親に愛されなかった信長というのが浮かび上がってきます。少なくとも母親から愛されなかった男の子が抱くコンプレックスはなんとなく想像がつく。その裏返しとして異端児、つまり不良少年のようにふるまうようになったのではないか。そういう人ほど、こころは繊細であることが多い」

 

これも、池端俊策の信長論。

 

この「非常にナイーブな信長像」を演じた染谷将太が、出色の演技力を炸裂させ、「麒麟がくる」の面白さが全開していく。

 

そして、この信長に「麒麟」を見た十兵衛が、足利義昭と信長への両属状態の中で、加速的に存在感を可視化し、まさに長谷川博己のドラマと化した。【因みに、「麒麟」とは優れた王が世を治める、中国神話に現れる伝説上の霊獣のこと】

 

明智光秀のイメージが一変するのだ。

 

かくて、以下の池端俊策の言葉に収斂されるように、「『麒麟がくる』・本能寺の変」において、十兵衛と信長の心理の交叉は、寂寥感(せきりょうかん)漂う悲哀を映し出す究極の「盟友殺害」でピークアウトに達したのである。

 

「光秀は信長を殺したくて殺すわけでもなく、憎らしいから殺すわけでもありません。やむを得ず、自分の親友を殺したんです。ここまで一緒に歩いてきて、一緒に夢を語った相手を殺すのはつらいですから、本能寺で信長を殺しても『やった!』という快感ではなく、悲しさがありますし、大きな夢を持った人間は、やはり大きな犠牲を払わなければならない。その心の痛みを描きました」

 

創作性の高さを認知してもなお、「『麒麟がくる』・本能寺の変」が神業級の凄みを見せたのは、撮影カメラが十兵衛の内面の世界に深々と潜り込んで、「盟友殺害」に至る心の振れ具合を描き切ったという一点にある。

 

それが、信長の「是非もなし」という、代用が効かない絶対言辞のうちに極まったのだ。

 

そして、本篇が何より抜きん出ているのは、十兵衛の内面の漂動を精緻に汲み取り、謀反を決意するまでの回想シーンを四つに分断させ、それを駆使した演出のシャープさ ―― これに尽きる。

 

以下、概略をフォローしていきたい。

 

人生論的映画評論・続: ドラマ特例篇 「この戦は、おのれ一人の戦だと思うている」 ―― 「『麒麟がくる』本能寺の変」・そのクオリティの高さ より