樋口一葉の世界 ―― 赤貧地獄の只中を駆け走った「奇跡の14ヶ月」

 

1  「わがかばね(屍)は野外にすてられて、やせ犬のゑじき(餌食)に成らんを期す」

 

 

 

幼少期から才媛の誉 (ほま) れが高く、猛烈な読書家でもあった。

 

その知的欲求の高さが探求心に繋がり、物事に対する集中力を鍛え上げていく。

 

主体性も育てていくのである。

 

闊達(かったつ)で開放的なキャラに昇華するのだ。

 

然るに、上流の子女が多く集う中島歌子(歌人)の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に通わせていたことで判然とするように、士族であったが故に、娘への教育に熱心だった父・則義と異なり、女子には学問が不要と考え、裁縫などの手仕事を重視する母・多喜の影響で高等教育を受けることがなかった。

 

泣く泣く学業を断念したとも言われる。

 

にも拘らず、一葉の生活は困窮を極めていた。

 

かつて多くの文豪が住んでいた本郷菊坂に旧伊勢屋質店と呼ばれる質屋があった。

 

今は質屋を廃業しているが、うら若き一葉が繰り返し通い続けた質屋として知られている。

 

貧しさ故の質屋通いをした一葉が、借金返済に追われる日々の只中で、着物を質草にする質屋通いのリピーターだった所以である。

 

樋口家唯一の働き手であった長男の兄を肺結核で喪い、維新政府の下級官吏の職を辞して起業に頓挫し負債を残した父を喪い、樋口家の戸主として僅か17歳で家族を支えることになったのだ。

 

母・多喜との折り合いが悪い次男に頼れずに、「萩の舎」に住み込んで下女のように働いた後、家賃の安い本郷菊坂(現在の東京都文京区)に引っ越し、母・妹と共に洗濯と針仕事の内職で身過ぎ世過ぎを繋ぐ一葉。

 

そんな彼女が「東京朝日新聞」の専属作家の半井桃水(なからいとうすい)と出会ったのは19歳の時だった。

 

その桃水を訪ね、師事することになるが、その動機はただ一つ。

 

桃水のように、小説で身を立てること。

 

職業として、自らが得意なフィールドで生計を成り立たせ、自立していくのだ。

 

この時代、女には職業の選択肢など存在しなかったのである。

 

その意を汲み取った桃水も一葉を「東京朝日新聞」に紹介するが、採用されなかった。

 

小説家として身を立てんとする彼女の熱き思いは砕かれるのだ。

 

それでも、一葉は桃水との心理的距離を縮めていく。

 

師匠の桃水に恋慕したのである。

 

日々に、桃水への想いが募るばかり。

 

異性に対してシャイな一葉が熱烈な恋に落ちる。

 

彼女の「青春」が花開いたのである。

 

しかし、相手は女性の噂が絶えない色男だが、心優しき包容力がある男だった。

 

自分に対する一葉の想いの強さを理解したであろう通俗作家が、一葉にどのような感情を持っていたか誰にも分からない。

 

ただ、12歳年上の桃水との関係がプラトニック・ラブであったか否か、今でも論争になっているが、邪推しても何の意味もない。

 

いずれにせよ、叶わぬ恋に終わってしまった。

 

「萩の舎」で、二人の仲を噂する醜聞が広まったためである。

 

「萩の舎」の主宰者の中島歌子が彼女の身を案じてアドバイスし、金銭的援助をも受けていた桃水との関係を断つことになるのだ。

 

いとどしくつらかりぬべき別れ路を あはぬ今よりしのばるるかな

 

「今日からあの人と会えなくなる。辛い人生になる」

 

【中島歌子は江戸の豪商の娘で、嫁入り先は水戸藩士。しかし、夫が幕末動乱下で起こった「水戸天狗党の乱」(1864年)に加担した罪で自害し、歌子自身も連座して投獄されるに至った。維新後、「萩の舎」を主宰し、一葉の師匠として名を残している。また伊藤氏貴は「樋口一葉赤貧日記」の中で、「萩の舎」が、「嫉妬と憎悪の渦巻く世界で、噂話によって他人を失脚させることに暗い喜びを感じる者たちの寄り集まりだった。一葉自身がその罠にはまり、桃水の許を去ることを余儀なくされた」と書いている】

 

その後、「萩の舎」の先輩で、歌塾の二才媛と呼ばれた田辺花圃(かほ/三宅花圃)の紹介で、作品発表の機会には恵まれつつも注目されることがなく、経済的な苦境が一葉の肩に重くのしかかっていく。

 

一家は生活苦を打開するために家族会議を開き、吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町に引っ越して、慣れない商売を始めることになった。

 

家庭と戸外を遮るものがない家に住み、荒物雑貨を営むのである。

 

一葉はこの地で、これまで交わったことがないタイプの人々と出会い、関係を持つこととなる。

 

僅か10ヶ月に満たないが、子供向けの駄菓子の仕入れが中心だったこの「竜泉寺時代」は、店に来る子供たちの観察を通して、「たけくらべ」のような後の作品に影響を与えることを考えれば貴重な時間だった。

 

酌婦らと懇意になり、身の上話を聞いたりすることもあった。

 

「塵の中」(ちりのなか)。

 

この頃の暮らしを、一葉はそう呼んでいる。

 

この「塵の中」で共生する人々に対する観察眼が研ぎ澄まされていく。

 

これが一葉文学の骨格を形成するが、何より重要なのは、桃水との関係を断ったこの引っ越しを機に、彼女の文学観が定着していったこと。

 

「人 常(つね)の産なければ常のこゝろなし。手をふところにして月花(つきはな/風雅な物事)に憧(あくが)れぬとも、塩噌(えんそ/日常の食べ物)なくして天寿を終らるべきものならず。 かつや文学は糊口(ここう/生計)の為になすべき物ならず。おもひ(思い)の馳するまゝ、こゝろの趣くまゝにこそ筆は取らめ。 いでや(さて)是れより糊口的文学の道をかへて、 うきよ(浮世)を十露盤(算盤=そろばん)の玉の汗に商ひといふ事始めばや。もとより桜かざして遊びたる大宮人(おおみやびと/宮廷人)のまどゐ(まどい/団欒)などは、昨日のはる(春)の夢と忘れて、志賀の都のふりにし事を言はず、 さざなみならぬ波銭小銭、厘が毛(厘毛/僅かな金)なる利をもとめんとす」(「塵の中」日記)

 

【常(つね)の産とは、安定した職や財産のこと。また、志賀の都とは、平忠度が詠(よ)んだ「さざなみや志賀の都は荒れにし」という歌に由来し、滋賀県にあった天智天皇大津京のことを指す】

 

「塵の中」日記のこの一文は、一葉の力強いマニフェストである。

 

文学は単なる娯楽ではないと考え、売るために読者に迎合することを否定したのである。

 

「藝術として1000年のちにも残るようなもの」(「樋口一葉赤貧日記」)を標榜するのだ。

 

生きるために書くことを求める母の反発があっても、書くために生きるという内的宇宙が彼女を駆動させていく。

 

当然、母との軋轢が生まれる。

 

それでも書かない。

 

生きるためだけの小説を書かない。

 

だから、筆も進まなくなる。

 

実際、この時期、小説は殆ど書いていない。

 

商売相手が出現したことで商売も軌道に乗らず、借金人生に拍車がかかるのだ。

 

本郷区丸山福山町に引っ越ししても、同様。樋口家の借金地獄は壮絶だった。

 

「貧乏は一葉という作家とその作品の中核を成すものなのだ」(前掲書)

 

【「一葉」というペンネームは、インドの達磨(だるま)大師が一枚の葉に乗って中国に渡ったという伝説を引き合いにして、「私にもお足(銭)がない」とジョーク交じりで友人に語ったことに由来する。ペンネームそれ自身、彼女の赤貧洗うが如く窮している生活様態を物語っている。因みに、「一葉」というペンネームは桃水の勧めだった】

 

「道徳すたれて人情かみの如くうすく、朝野(ちょうや/天下)の人士、私利をこれ事として国是の道を講ずるものなく、世はいかさまにならんとすらん、かひなき女子をなご(おなご)の、何事を思ひ立たりとも及ぶまじきをしれど、われは一日の安きをむさぼりて、百世(ひゃくせい/長い年月)の憂を念(憂える心)とせざるものならず、かすか成(なり)といへども人の一心を備へたるものが、我身一代の諸欲を残りなくこれになげ入れて、死生いとはず、天地の法にしたがひて働かんとする時、大丈夫(賢人)も愚人も、男も女も、何のけじめか有るべき、笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成なりぬ、わがこゝろざしは国家の大本にあり、わがかばね(屍)は野外にすてられて、やせ犬のゑじき(餌食)に成らんを期す(望むところである)、われつとむるといへども賞をまたず、労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし、いでさらば(だから)分厘(僅か)のあらそひにこの一身をつながるゝべからず、去就(進退)は風の前の塵にひとし、心をいたむる事かはと、此あきなひ(商い)のみせ(店)をとぢんとす」

 

凄い表現である。

 

「笑ふものは笑へ、そしるものはそしれ、わが心はすでに天地とひとつに成なりぬ」

「わがかばね(屍)は野外にすてられて、やせ犬のゑじき(餌食)に成らんを期す」

 

その気概、青春の眩(まばゆ)さ、ひしと伝わってくる。

 

努力しても報酬を求めていないので、私の道は前後左右に広々としている。

 

だから僅かの利益を求めて争う商いの道に身を束縛しておくべきではない。

 

進退は風の前の塵のように変わるので、心配することはないと考えて、この商売の店を閉じようと決めたのだ。

 

これが後半の文意である。

 

家族会議をリードして立ち上げた荒物雑貨(実質的に駄菓子屋)を閉じることになった時の一葉の決意の表現だが、作家の久保田万太郎が「大見得」と揶揄したのも分かる。

 

ただ、先の見えない自らの〈生〉を奮い立たせるには、このような言辞を表現せずにはいられない苛酷な心境下にあって、自己を激しく鼓舞する必要があった。

 

そういうことだろう。

 

ここから、彼女の文学世界が開かれていく。

 

かくて引っ越し先の本郷区丸山福山町の家で、一葉は背水の陣で執筆を続けていくことになる。

 

タイトロープの日々だったが、彼女の文学世界が一気に炸裂するようだった。

 

『大つごもり』で世に出た一葉が、その短い〈生〉を閉じていくまで、怒涛のように作品を発表した1年と2ヶ月。

 

「大つごもり」から「うらむらさき」(裏紫)を発表するまでに、「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる時間を駆け抜けていくのである。

 

【「奇跡の14ヶ月」という言葉は、樋口一葉研究で知られる小説家・和田芳恵命名

 

 

樋口一葉の世界 ―― 赤貧地獄の只中を駆け走った「奇跡の14ヶ月」