「自然災害多発国・日本」 ―― 「降伏と祈念」という、日本人の自然観の本質が揺らぎ始めている

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1  「恨み」を超え、無常観に大きく振れて、諦念する


日本が「自然災害の多い国」という認識を持っていない人は、決して少なくないだろう。

台風・大雨・大雪・洪水・土砂災害・地震津波・火山噴火などに及ぶ自然災害を、繰り返し被弾し続け、時には恨み、怒りを噴き上げるが、多くの場合、「どうしようもない」、「手に負えない」と嘆息(たんそく)し、諦念(ていねん)する。

自然の猛威に太刀打ちできず、無力感にため息をつき、存分に悲しんだ後、諦念してしまう。
諦めなければ、日常生活を繋げないのだ。

だから、忘れる。

上手に忘れる。

「辛いのは、自分だけでない」

そう、言い聞かせて忘れるのだ。

その代わり、年中行事として残す。

全国の神社で執り行われる日本の年中行事の多くが、厄除けの神事(節分祭)を含め、「豊作祈願」(注)と、「宮中祭祀」の「新嘗祭」(にいなめさい)に象徴される「収穫を感謝する祭り」に収斂されるということ ―― これが、何より至要(しよう)たる事実である。

従って、国家と国民の安寧・繁栄を天皇が祈願する「宮中祭祀」もまた、この文脈で理解することが可能である。

日本人が年中行事として残すと行為それ自身が、自然に対する畏敬(いけい)の念の表現であり、罷(まか)り間違っても、欧米のように、「人間が自然を支配する」という発想など、起こりようがない。

このことは、「環境倫理学」の論争テーマになっている、自然環境を保護・管理するという人間中心の「保全主義」よりも、自然環境をそのままの状態で保持するという、自然中心の「保存主義」が、なお、我が国で影響力を有するのは、以上の言及で判然とするだろう。

自然に対する畏敬の念を保持しつつ、年中行事を繋いでいっても、私たちは、「津波が来たら、各自てんでんばらばらに高台へと逃げろ」という「津波てんでんこ」のように、三陸地方で昔から言い伝えられていた自然災害の教訓を、得てして忘れてしまうのである。

「天災は忘れた頃にやってくる」

だから、この名言が、私たちの国に存在する。

この名言は、漱石門下の物理学者・寺田寅彦の言葉とされることが多いが、その真相は不明。

「こういう災害を防ぐには、人間の寿命を十倍か百倍に延ばすか、ただしは地震津浪の週期を十分の一か百分の一に縮めるかすればよい。そうすれば災害はもはや災害でなく五風十雨の亜類となってしまうであろう。しかしそれが出来ない相談であるとすれば、残る唯一の方法は人間がもう少し過去の記録を忘れないように努力するより外はないであろう」(寺田寅彦 「津浪と人間」所収 Wikipedia

とても直截(ちょくさい)なディスクールだが、そこまでしなければ忘却を防げないほどに、私たちの被災記憶は風化していくのか。

―― ここで、否が応でも想起せざるを得ないのは、台風19号(2019・10)による堤防決壊によって、濁流が凄まじい勢いで住宅を襲った、千曲川氾濫の際の住民の避難行動の遅れである。

「大雨特別警報はもっと早く出さなければ意味がない」(冷泉彰彦)という批判もあるが、気象庁が大雨特別警報を発令し、最高レベルの5段階の「警戒レベル」を設定したにも拘らず、逃げ遅れた住民の多くが、「2階に逃げれば大丈夫」などと気楽に考えていたこと。

これは大きかった。

だから、対応が後手後手(ごてごて)に回ってしまった。

事態の異様さを目の当たりにして、「冷静に考えれば早く避難すべきだった」と口を揃えるが、避難しなかった人が続出し、多くの犠牲者を出してしまったのである。

少なくないストレスを感受していながらも、緊急事態に適正に対処できず、「ストレスコービング」(上手にストレスに対処する方法)に頓挫(とんざ)したと言える。

「自分だけは大丈夫」と考える、「正常性バイアス」の心理が独り歩きしてしまったのだ。

例えば、台風19号で氾濫した多摩川

「こんなことは初めて」

常に聞かれるのは、この類(たぐ)いのコメント。

然るに、歴史を遡及(そきゅう)すれば、多摩川は繰り返し氾濫を起こしているのだ。

多摩川決壊の碑」 ―― 1974年9月の多摩川水害の際に、決壊した堤防の跡(狛江市)に建てられた碑である。

1974年9月、台風16号がもたらした激流が堤防を崩壊させ、首都圏の閑静な住宅地に建てたマイホームが、濁流へ無残に飲み込まれていく光景の衝撃の大きさは、日本中に水害の恐ろしさを、まざまざと見せつけたことで充分だった。

幸いにも、地域住民が避難したので死傷者は出なかったが、この「狛江水害」によって、狛江市の民家19戸が流出するに至り、秀逸なテレビドラマ「岸辺のアルバム」のモデルとなったことは、よく知られている。

「ここに、水害の恐ろしさを後世に伝えるとともに、治水の重要性を銘記するものです」

裏面の碑文に刻まれている言葉である。

「暴れ川」の異名を持つ多摩川の氾濫は、2度に及ぶ「関東大水害」に尽きると言っていい。

まず、「明治43年の大水害」(1910年)は、2つの台風が重なったことで河川が氾濫し、死者769人、行方不明者78人、家屋全壊・流出が5000戸、150万人の被災者を記録する大惨事となった。

そして、「大正6年の高潮災害」(大正六年の大津波)。

東京湾接近時に、満潮の時刻と重なった不運もあって、死者・行方不明者数1300人以上、全壊家屋4800戸以上、流出家屋は約2400戸、床上浸水に至っては20万戸に迫る大災害で、日本経済が大打撃を被ることとなった。

諦め、忘れなければ、日常生活を繋げないと言っても、これほどの大水害の破壊力を、私たちは何某(なにがし)かの形で語り継ぐべきではないだろうか。

東京が本質的に水害に対して脆弱であるのは、江戸初期の人工的に造成された低湿地帯の埋め立てに起因するので、「寛保二年江戸洪水」(1742年)の大水害によって、軒まで水没した家屋が続出し、1000名にも及ぶ溺死者を出したと言われるが、以上の水害は、「首都・東京」が歴史的に負う宿命であったと言える。

普段から危機意識を共有することの重要性を、私たちは肝に銘じるべきである。

―― 思うに、豊かになればなるほど、人はその豊かさに馴染(なじ)んでしまうから、被災記憶を自我の底層に押し込んでしまう観念傾向を否定できないのだろう。

恐怖記憶の消去に関係する、扁桃体(へんとうたい/情動反応の処理と記憶)にある「ITCニューロン」の発現によって、非日常の自然災害への過剰な反応を抑え込んでしまうのである。

私たちは、常に、「今、ここにある、自分サイズの普通の日常」の継続性にのみ、心を砕く。

地震や風水の災禍の頻繁でしかも全く予測し難い国土に住むものにとっては天然の無常は遠い祖先からの遺伝的記憶となって五臓六腑に染み渡っている」

これも、寺田寅彦の言葉である。

だから、「忘れた頃にやってくる」天災に対する日本人の観念傾向が「恨み」を超え、無常観に大きく振れて、「諦めの心理」に捕捉されてしまうのは是非もないのか。

この無常観が、「日本人の自然観」の根柢にあるのか。

また、人文地理学者・西川治(にしかわおさむ)によると、「日本観と自然環境-風土ロジーへの道」で、以下のようなディスクールを提示している。

「日本の農民は寒暑の別なく田畑を耕し、風水・干ばつ・氷害・河川の氾濫・海の波浪・火山灰・雑草・鳥獣・病虫害など、自然との苦闘の歴史を通して自然観を身につけた」

「普段は慈母のように優しく、時には厳父のような自然との共生の結果、荒ぶる神を畏怖する姿勢と、和御魂(にきみたま)には甘える心がともに培(つちか)われ、マナイズムとアニミズムとの共存を許す、矛盾にも寛大な精神的風土が生まれた」

ここで言う「マナイズム」とは、「マナ」という超自然的呪力を信仰する宗教的観念で、太平洋の島嶼(とうしょ)で見られる原始的宗教とされる。

この「マナイズム」と、生物・無機物を問わず、全ての「もの」の中に霊が宿る「アニミズム」が共存する「寛大な精神的風土」 ―― これが日本人の自然観であると説く。

柔和な徳を備えた「和御魂」(にきみたま)⇔荒ぶる魂=「荒魂」(あらたま)との矛盾と共生することで、自然に対する「畏怖」と「甘え」の感情が形成されてきたと言うのである。

自然に対する「畏怖」と「甘え」。

これは、日本人の自然観を的確に把握した表現である。

私流の解釈をすれば、「畏怖」とは、「荒ぶる魂」を以ってしても勝てない超自然的呪力への全面降伏であり、「甘え」とは、「和御魂」を以て(もって)年中行事で祈念する、災厄免訴への懇望(こんもう)である。

「降伏と祈念」 ―― これが日本人の自然観の本質であると、私は考えている。

【因みに、「日本人の自然観」と題するサイトには、西川治の他に、寺田寅彦や農業経済学者・福島要一、英文学者・野中涼(のなかりょう)、昆虫学研究者で、石川県立大学名誉教授・上田哲行(うえだてつゆき)、マクロ経済学者・中谷巌(なかたにいわお)などのディスクールが紹介されているが、興味のある方は参照されたし】

(注)「志摩の御田植祭」(おたうえまつり)・「阿蘇の農耕祭事」・「神の田んぼの米作り 伊勢神宮のコメ」・「漁師の守り神 対馬の赤米さま」など。(「豊作祈願! NHK」)より

「時代の風景:「自然災害多発国・日本」 ―― 「降伏と祈念」という、日本人の自然観の本質が揺らぎ始めている より

心身を腑分けされた悲哀を生きた男 ―― モーリス・ユトリロの世界

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1  「私生児」という絶対記号を負って、青春期の渦中に立ち至る、母子関係の脆弱性


アンドレ・ジルという、19世紀に活躍した風刺画家がいる。

波乱の人生を生き、最後は精神病院に収容され、45歳で没したフランス人である。

似顔絵を得意にし、30代の元気横溢(おういつ)な頃、酒場の店主の依頼で、店の看板の絵を描いたという由来で知られる画家だが、この酒場こそ、フランスの近代芸術史に、その名を残す「ラパン・アジル」である。

モンマルトルにある「ラパン・アジル」の名が知られるのは、ボヘミアン的(自由奔放な)な画家・作家、或いは、社会の周辺に生きる人々らが集合し、深夜まで、喧噪(けんそう)のスポットと化していたからだ。

そこに蝟集(いしゅう)した画家の中には、後世に名を残すピカソゴッホロートレックモディリアーニ、エミール・ベルナール、ブラックなどが集(つど)い、熱気が充満する前衛芸術家の、その矜持(きょうじ)が全開する、白熱した議論が沸騰していた。

だから、「ラパン・アジル」のイメージは、「侃侃諤諤」(かんかんがくがく)・「喧喧囂囂」(けんけんごうごう)という四字熟語が相応しい。

その「ラパン・アジル」の絵を何枚も描いた画家がいる。

モーリス・ユトリロである。

ところが、ユトリロが描く「ラパン・アジル」の絵から、先の四字熟語の喧噪感が全く伝わってこない。

それどころか、19世紀末から第一次世界大戦勃発までの、「ベル・エポック」の特殊な時代状況下にあって、ムーラン・ルージュやル・シャ・ノワールといった酒場がが軒(のき)を連ね、頽廃(たいはい)と華麗が共存するような盛り場を懐(ふところ)に抱える、モンマルトルの丘=「芸術家の街」=安アパート「洗濯船」(キュービズム誕生の地)を鮮烈に印象づける空気と無縁な、「静寂」と「孤独」が漂動(ひょうどう)する寂寞(せきばく)に包まれて、思わず、「侵入不可」の記号と思(おぼ)しき、幽微(ゆうび)なる閉鎖系のゾーンから弾かれてしまうのだ。

モンマルトル、モンパルナスに集合していた画家たち、即ち、「エコール・ド・パリ」の前衛芸術家の誰も描くことがなかった「ラパン・アジル」を、決して短くもない生涯を通して、点景ではなく、その本体を、繰り返し、執拗に描き続けたユトリロとは、一体、何者だったのか。

ゴッホに始まり、フェルメールを経て、最後に辿り着いた私の絵画散策は、このモーリス・ユトリロだった。

昔から好きだったが、余韻の深い「静寂」と、哀しみに満ちた「孤独」の相貌性(そうぼうせい)の底層に、何とも名状(めいじょう)し難い「苦悩」が張り付く、ユトリロ絵画の小宇宙は、年輪を経て、一貫して変わらないドストエフスキーの「実存」と共に、私の脳裏に深く灼(や)きついて離れない。

なぜなのか。

彼の人生遍歴が、あまりにも「悲哀」に満ちているからだ。

実母・シュザンヌ・ヴァラドンによる「我が子」・ユトリロ肖像画が残っているが、肝心の本人の肖像画が一枚もないことで分るように、ユトリロが、「肖像画のモデル」に相応しい、「特定他者」のウオッチャー(観察者)になることを、暗黙裡(あんもくり)に自己否定していたのではないか。

それは、モデル時代の母のような、「美貌の人気モデル」へのアンチテーゼとも考えられるが、仮にそうだとしても、意識的行為ではないだろう。

だから、風景画ばかりを描き続ける。

それも、何の変哲もない、身近な風景を題材にしたものだ。

無口で、人付き合いが苦手なユトリロは、「人間」に関心がなかったのか。

それ故に、人間関係に悩まない。

そういうことなのか。

―― ここで、彼の履歴をフォローしていこう。

モンマルトルで〈生〉を受けた、生粋(きっすい)のフランス人であるユトリロは、1883年12月に、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれたのは、よく知られている事実。

要するに、ユトリロは実父を知らないで育ったのである。

だから、「私生児」という絶対記号を負って、71年の生涯を生きることを余儀なくされる。
因みに、パリのサーカス団で曲芸師を演じていた、シュザンヌ・ヴァラドンもまた私生児だった。

私生児が私生児を生んだのである。

それでもバイタリティー溢れるヴァラドンと異なり、〈生〉の初発点からハンディを負ったユトリロが、発作時に、激しい全身痙攣(けいれん)を惹起する、癲癇(てんかん)という神経疾患に罹患(りかん)したのが、わずか2歳のとき。

憑き物(つきもの)が憑依(ひょうい)したと誤認され、今でも差別の対象になる癲癇を、私もまた、児童期に罹患したから経験的に理解できるが、発作時に見た「悪夢」(夢の中に「悪魔」のような「人物」が出現する)の恐怖に魘(うな)され続け、不眠症になったという、思い出したくない嫌な過去がある。

ユトリロが、癲癇の後遺症に悩ませられたと言われるが、手記の類(たぐ)いをも残さなかったので、詳細は不明である。

絶対記号を負った少年が、学校に馴染めなかったのは不可避だったかも知れない。

ここで、無視できない重要な事実がある。

自らも、洗濯女の私生児として生まれたユトリロの母・シュザンヌ・ヴァラドンは、当時、著名な画家(ルノワールロートレックドガ、シャヴァンヌ、スタンランなど)のモデルだったが、ロートレックの評価を得て、本来の素質を活かして画家に転じ、相応の成功を収めていたので、我が子の養育を実母に任せていた。

と言うよりも、18歳で生んだ我が子の養育に顧慮(こりょ)するなく、「音楽界の異端児」エリック・サティを大失恋させたエピソードに象徴されるように、次々に男を代え、「恋多き女」の人生を存分にトレースしていくのだ。

その状態が続いていたらネグレクト(育児放棄)になるが、シュザンヌ・ヴァラドンは、そこまで堕ち切ってなかった。

実母のマドレーヌに、ユトリロの養育を委ねたのである。

これが、「大誤算」だった。

シュザンヌ・ヴァラドンの母、即ち、ユトリロの祖母マドレーヌは、情緒不安定で、アルコール依存症だったから、孫の自我形成を健全に保障することなど、無理な相談だった。

児童期初期の時から、癲癇の発作を落ち着かせるために、少量のワインを飲ませ続けていた祖母マドレーヌの犯した道徳的罪の重さは、取り返しがつかないほどの破壊力に満ちている。

覆水盆に返らず(ふくすいぼんにかえらず)という諺(ことわざ)は、こういう事態を説明するのに相応しい。

誹議(ひぎ)されて当然のことである。

当時にあっても、弁明不能な、段違いに重い罪深い行為である。

そんな事態にも無頓着(むとんちゃく)だったのか、相変わらず、男関係が緩(ゆる)い状態下で、シュザンヌ・ヴァラドンは、息子・ユトリロの精神状態に不安を持ち、自ら病院に連れて行く。

8歳のときだった。

児童期少年の自我の唯一の絶対基盤であった、母を想う息子の強い気持ちがあっても、本人にその気がなくても、ファム・ファタール的な行動に振れる母にとって、自分を求める息子の思慕に対し、間断なく反応していく心理的・物理的余裕など、持ち合わせていないのだろう。

この母子関係の脆弱性は、ユトリロの青春期の渦中に立ち至るのだ。

心の風景「 心身を腑分けされた悲哀を生きた男 ―― モーリス・ユトリロの世界」より

わたしは、ダニエル・ブレイク('16)  ケン・ローチ

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<「強者VS弱者」という類型的な「ラインの攻防」 ―― その際立つシンプリズム>

1  「俺には屈辱でしかない。ほぼ拷問だ。求職者手当はやめる」


「病気による“支援手当”の審査です。まず、誰の介助もなしに、50メートル歩けますか?」
「ああ」
「どちらかの腕を上げられますか?」
「ああ」
「帽子をかぶるぐらい、腕は上げられますか?」
「手足は悪くない。カルテを読めよ。悪いのは心臓だ」
「帽子はかぶれるということ?」
「ああ」
「電話のボタンなどは押せますか?」
「悪いのは指じゃない、心臓だって言ってるだろ?」
「簡単な事柄を人に伝えられないことは?」
「ある。心臓が悪いのに伝わらない」
「そういう態度を続けると、審査に影響しますよ。急に我慢できなくなって、大便をもらしたことは?」
「ないけど、こんな質問が続くと漏らすかもな。一つ聞くが、あんた、医療の視覚は?」
「私は労働年金省によって任命された医療専門家で、給付の審査を。弊社は政府の委託事業者です」
「看護師か?医者か?」
「医療専門家です」
「いいか、俺は心臓発作で足場から落ちかけた。早く仕事に戻りたい。心臓の話をしてくれ」

この冒頭の会話で、本作の主人公ダニエル・ブレイクが置かれた状況が透けて見えるだろう。

政府の委託で“支援手当”の給付の審査を担当した、件(くだん)の労働年金省から、「あなたは受給の資格なしと決定しました」と記載された通知を読むダニエル。

この決定に不満を持つダニエルは、2時間近く待たされた挙句、電話で抗議するが、「義務的再審査を申請して下さい。再審査で同じ結果が出たら、不服申し立てができます」という反応。

それを受容したダニエルは、認定人からの電話を待つことになる。

要するに、再度、審査を受けるということなのだ。

そのダニエルについて。

イギリス北東部の町ニューカッスル

この街で、情緒障害の妻を介護しながら、大工として働いてきた一人暮らしのダニエル・ブレイクが、心臓発作で足場から落ちかけたことで、主治医から仕事を止めるように忠告されたことで、疾病による支援手当を受給するために役所を訪れた時の会話が、冒頭のシーン。

「支援手当の受給の資格なし」

翌日、役所から届いた書類には、空疎(くうそ)な文字が踊っていた。

その後、支援手当を受給するために孤軍奮闘するダニエルを、主人公の内面に入り込んだカメラが追っていく。

支援手当の申請書に不可欠なパソコンを役所の職員から習ったり、「履歴書の書き方講座」に参加したりするが、全て強制的な指示で動かされるから、手馴れないダニエルがストレスフルな状態になっていくのは必至だった。

システムが完全にデジタル化されているので、ダニエルには手に負えない代物なのである。
とうとう、ダニエルのストレスが炸裂する。

ロンドンから引っ越してきたばかりのシングルマザーが、バスの乗り間違いで、審査の時間に遅れてしまったことが原因で審査を受けられず、役所の職員と言い争っている現場に遭遇した時だった。

「彼女の話を聞け。税金分の仕事をしろ。恥を知れ!」

職員を怒鳴り飛ばしたダニエルは、そのシングルマザーと共に、役所から追い出されてしまう。

この出会いが契機となって、件のシングルマザーと知り合い、電気も引けない自宅アパートに誘われ、料理を御馳走になったり、大工仕事を請け負ったりする。

難なく修理を熟(こな)すプロのダニエル。

件のシングルマザーの名はケイティ。

父親が異なる2人の子供を育てている。

2年間、ホームレスの施設で暮らしていたが、ロンドンでのこの生活環境に限界を感じ、役所の紹介を介して、老朽化したアパートに引っ越して来たという訳だ。

一方、ダニエルは、週に35時間以上の求職活動をすることが手当受給の条件と言われ、その気のない求職活動をしても、証拠がないと役所に突っぱねられる始末。

「履歴書の書き方講座」に参加したのは、この時だった。

次第に逼迫(ひっぱく)する生活。

フードバンクの長い列に並んだり、大工道具以外の「資産」を売ったりして、糊口(ここう)を凌(しの)ぐのだ。

ケイティも同様だった。

スーパーで万引きに及び、「犯罪」を免除してもらう代わりに、売春婦になっていく。

どうやら、この手口はスーパーの常套手段だった。

ケイティも察しがついていた。

この事実を知ったダニエルは、既に、売春婦で稼いでいるケイティを訪ねる。

「こんなことはするな」とダニエル。

「あなたには関係ないわ。帰って」とケイティ。

激しく動揺し、走って外に出たケイティを追うダニエル。

「こんな所であなたと会えない。帰って」

号泣してしまうケイティを胸に抱き、体全体で優しく包み込むダニエル。

「300ポンド稼いだわ。子供たちに果物を買える。止めるなら会わないわ。あなたとは、これきりよ。やさしくしないで。心が折れるから」

そう言って、売春宿に戻るケイティ。

一貫して悲痛な表情を崩せないダニエルは、置き去りにされる。

ダニエルは追い詰められていた。

「とんだ茶番だな。体を壊した俺は、架空の仕事探し。どうせ働けない。俺も雇い主も時間のムダ。俺には屈辱でしかない。ほぼ拷問だ。求職者手当はやめる。もう、沢山だ」

唯一、理解のあるアンという職員に向かって放たれる男の言辞は、胸中に、自己の尊厳を守らんとする思いで埋められていた。

「求職活動だけは続けて。収入が閉ざされてしまう。義務的再審査には限界がないの」
「俺は限界だ」
「恐らく却下される。お願い。給付のための面談を続けて。そうしないと、何もかも失うわ。私は何人も見てきた。根が良くて、正直な人たちがホームレスに」
「ありがとう。だが、尊厳を失ったら終わりだ」

ダニエルとアンとの短い会話は閉じていった。

その直後のダニエルの行動は、通行人の喝采(かっさい)を浴びる一大パフォーマンスだった。

「俺はダニエル・ブレイクだ。飢える前に申し立て日を決めろ。電話のクソなBGMも変えろ」
スプレー塗料で、役所の外壁に書きなぐるダニエル。

器物破損で逮捕されるダニエルの行動に誘発され、一人の中年男が応援する。

「罰則を考えた連中を逮捕しろ。あの偉そうな労働年金大臣。寝室税を考えたバカな金持ち議員も。お前らも生業(なりわい)するぜ。保守党の特異な民営化でな。高級クラブの会員め。イートン校出のブタ!」

【ここで言う「寝室税」とは、英国で、2012年の「福祉改革」で導入された税金のこと。即ち、公営住宅に住んでいながら、使用されていない寝室があれば、それに税金がかかるという制度であり、その本質は、低所得者向けの住宅手当の削減にあったと言われる。また、「イートン校出のブタ」と嘲罵(ちょうば)されたのは、当時、デイヴィッド・キャメロン首相が寮生活を送った、階級社会・英国の頂点に君臨する「パブリック・スクール」のこと。ここに及んで、この映画が殆ど、「反緊縮・正義」という左翼プロパガンダ的な様相を露わにしていく】

かくて、器物破損で逮捕されたダニエルは、初犯だったので、口頭注意(「公共秩序法」第5条)のみで釈放されるに至る。

一大パフォーマンスだけで自己完結できないダニエルの表情に、沈痛で、悄悄(しょうしょう)たる翳(かげ)りが剥(む)き出しになってきた。

そんなダニエルを心配するケイティは、娘を呼びに行かせて、ダニエルと会う。

一時(いっとき)、元気を取り戻すダニエル。

ケイティの積極的なアウトリーチによって、支援手当回復のための弁護士を紹介され、手当の回復が可能になるという力強い言葉を受け、ダニエルは人生にポジティブに向かう姿勢を見せる。
しかし、この復元も一時(いっとき)だった。

心臓発作で倒れてしまうのだ。

回復することなく、逝去するダニエル。

葬儀の日。

ダニエルが、支援手当の申し立てのために用意した言葉が、ケイティによって代読される。

「国の制度が、彼を早い死へと追いやったのです」

静かに怒る、ケイティの情動炸裂である。

【キャメロン政権の「緊縮財政政策」への明瞭な弾劾によって、映画は括られていく】

以下、自己の尊厳を失うことなく人生を全うした、ダニエルの実質的な遺言書。

「私は依頼人でも顧客でもユーザーでもない。怠け者でもタカリ屋でも、物乞いでも泥棒でもない。国民健康番号でもなく、エラー音でもない。きちんと税金を払ってきた。それを誇りに思っている。地位の高い者には媚びないが、隣人には手を貸す。施しは要らない。私は、ダニエル・ブレイク。人間だ。犬ではない。当たり前の権利を要求する。敬意ある態度というものを。私は、ダニエル・ブレイク。1人の市民だ。それ以上でも以下でもない」

ラストシーンである。

人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: わたしは、ダニエル・ブレイク ('16)  ケン・ローチ」('16)より

 

ヒトラーの忘れもの('15)  マーチン・サントフリート

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<「葛藤の行動化」 ―― デンマーク軍曹に張り付く矛盾が炸裂する>


1  空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語


第二次世界大戦後、ナチス・ドイツが崩壊した1945年5月のこと。

「諸君の任務を説明する。諸君は、このデンマークで、戦争の後始末を行う。デンマークは、ドイツの友好国ではない。我々デンマークの国民は、ドイツ兵を歓迎しない。諸君は憎まれている。諸君を動員した目的はただ一つ。ナチスは我が国の海岸に地雷を埋めた。それを除去してもらう。ナチスが西海岸に埋めた地雷は220万になる。他の欧州の諸国の合計を上回る数だ。連合国軍の上陸を阻止する目的だった」

エベ・イェンスン大尉(以下、エベ大尉)の声が、大きく響き渡った。

ここで言う「諸君」とは、戦争捕虜となった、大半が少年の12名のドイツ兵。(のちに2名が参加し、14名に)

当然ながら、彼らには、抵抗すべき能力の何ものもない。

そんな彼らを支配し、管理するデンマーク下士官がラスムスン軍曹。

地雷を扱ったことがないドイツ少年兵には、「はい、軍曹」という返答しか持ち得ない。

「黒い旗と小道の間に、4万5千個の地雷がある。全部、除去しろ。除去が終われば家に帰す。それが終わるまでは帰れないぞ。1時間に6個の除去を行い、爆死しなければ、3ヶ月間後には帰れる」

ラスムスン軍曹の声も、大きく響き渡った。

海岸にある、黒い旗との間に埋められている地雷の除去。

これが、少年兵たちが命じられた、途轍(とてつ)もない任務の内実である。

命を懸けた、危険な作業に身を投じる以外の選択肢がない少年兵たち。
かくて、エベ大尉の指導のもと、本物の地雷の除去の訓練を経て、この任務なしに帰国できない状況に置かれた少年兵たちの、絶望と苦闘の物語が開かれていく。

横一列になって、砂浜を匍匐(ほふく)しながら、一本の棒を砂浜に突き刺しながら地雷を捜す。

地雷を発見したら、それを知らせ、衝撃を与えないように、地雷の信管を慎重に抜き取る。

弾薬を発火させる起爆装置=信管を抜き取ったら、それを地図に記入していく。

信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので、この危険物も慎重に扱わねばならない。

対人地雷には、ワイヤーによって、ピンが抜かれて爆発する「引張式」もあるから要注意なのだ。

加えて言えば、第二次世界大戦中に独軍が開発した箱型の対人地雷・「S-マイン」は、信管を踏むや否や、爆発によって高く飛び上がるので、地雷を踏んだ人物以外にも被害を与えると言われている。

この脅威の危険物・4万5千個の地雷の除去が終わるまで、この作業が続くのだ。

訓練中に、既に爆死する現場に立ち会い、地雷の恐怖を知っている少年兵たちには、「その日」の命の保持だけが全てだった。

作業を終えるや、少年兵の唯一の塒(ねぐら)となっている小屋が、ラスムスン軍曹によって鍵(閂=かんぬき)をかけられ、物理的に封印される。

そして、命を繋ぐ食糧が滞る事態もまた、少年兵たちにとって、何より厄介な問題だった。

少年兵たちの中に、セバスチャンという、寡黙で思慮深い少年がいる。

そのセバスチャンは、2日間滞っている食糧が、いつ届くかと軍曹に尋ねた。

「どうなろうと関係ない。勝手に餓死しろ。ドイツ人は後回しだ」

この一言で、あっさり片付けられてしまう。

「はい、軍曹」

相手の眼を見て、はっきりと返事をすることが義務付けられている少年兵には、返答すべき言辞は一つしかないのだ。

そんな少年兵たちは飢えを凌ぐために、ドイツ軍の少壮(しょうそう)将校だったヘルムートが家畜の餌を盗み、それを食べた少年たちが食中毒を起こしてしまう。

その結果、双子(ヴェルナー・レスナーとエルンスト・レスナー)の弟が、食中毒によって体調を崩し、1時間の休憩を求めても、軍曹に拒否され、作業に戻るように言われるだけ。

飢えに苦しむ少年兵たちの中で、事件・事故が起こるのは不可避だったのだ。

最初の犠牲者を出してしまうのである。

食中毒を起こしたヴィルヘルムが、地雷除去の只中で、両腕立を吹っ飛ばされてしまったのである。

この「予約」された悲劇を知り、救助を求められ、迷った末に、ラスムスン軍曹はヴィルヘルムを救護センターに預けるが、少年の様子が気になった軍曹がセンターに訪ねて行ったとき、既に死亡したことを知らされる。

ラスムスン軍曹が少年たちに食糧を分け与えたのは、この一件を知った直後だった。

センターのパンを手に持ち、帰っていくラスムスン軍曹。

その現場を視認するエベ大尉。

軍曹が率いる少年兵たちによる地雷除去の作業を介して、その関係構造の変化を読み取るデンマーク将校と、デンマーク軍曹との間に、亀裂が生じていくシーンとして映像提示される。

食糧を得た少年たちに待っていたのは、地雷除去の作業の負担増だった。

エベ大尉によって、軍曹に与えられた任務の遅れを取り戻すためである。

それでも、食糧を得たことで元気を取り戻す少年たちは、帰国後の希望を語り合う時間を共有する。

ラスムスン軍曹の報告で、ヴィルヘルムが帰国を果たしたことを聞いたこと ―― それが、このような時間を可能にしたのである。

この報告が事実でないことは、観る者だけが知っている。

しかし、このヴィルヘルムの一件以降、ラスムスン軍曹の内面に変化が現れてきたことも、観る者だけが知っている。

その契機に、仲間を思う強い思いで、自分に話しかけてくるセバスチャンの存在があった。

そんな軍曹が、エベ大尉から睨(にら)まれていくのは必至だった。

セバスチャンと軍曹との関係が、まるで、親子のような関係に昇華していけばいくほど、英軍将校との対立は深刻になっていく。

そんな状況下で、二人目の犠牲者が出た。

作業中、セバスチャンが2個重なった地雷に気付いた時だった。

大声を上げたセバスチャンの注意に気づくことなく、双子の兄のヴェルナーが爆死するに至る。

信管を抜き取った後、地雷のワイヤーを引っ張ったことで、爆破してしまったのである。

敵を油断させて仕掛けた「ブービートラップ」である。

この結果、残された弟のエルンストは、その衝撃を受け止められず、一切の拠り所を失い、喪失感を深めていく。

祖国での会社経営を語リ合っていた双子の夢が、瞬時に崩壊するに至ったのである。

この事故は、ラスムスン軍曹が変化していく決定的なモチーフになっていく。

地雷除去の作業に休日を設け、少年たちと共にサッカーに興じるのだ。

映像は、少年たちの笑顔を初めて見せる。

しかし、それは束の間(つかのま)の休日だった。

愛犬が地雷の犠牲になってしまったのだ。

この一件は、ラスムスンを「鬼の軍曹」に戻してしまう。

本作の中で最も重要なエピソードなので、後述する。

少年たちを震撼(しんかん)させる事故が起こった。

海岸沿いに住む農家の幼女が地雷原に入り込み、その母親が軍曹に救助を求めるが、不在だったので、セバスチャンが危険なエリアに入り、幼女の救出に向かう。

しかし、今や、兄を喪ったトラウマで自我が半懐しているエルンストが、危険を顧(かえり)みることなく、砂浜を歩いて幼女に辿り着く。

セバスチャンが幼女を救出した後、エルンストだけが戻らず、海岸に向かっていくのだ。

エルンストに戻るように促す少年たちの声を無視した結果、エルンストの爆死が出来(しゅったい)する。

本質的に、この事故死は、最も信頼する兄を喪い、心的外傷を負ったエルンストの自殺であると言っていい。

悲劇が終わらない。

空をも焦(こ)がす爆裂があった。

信管を抜き取り、地雷をトラックに運んでいた複数の少年兵が、一瞬にして爆死してしまうのである。

先述したように、信管を抜き取った地雷であっても、大量の弾薬を含むので危険極まりないのだ。誘爆し、大爆発を引き起こしてしまったのである。

もう、限界だった。

今や、生き残った少年兵は4人のみ。

セバスチャンとヘルムートも、生き残った少年兵の中にいた。

ラスムスンは、少年兵をドイツに帰国させようとする。

生き残った4人を救うのは、それ以外の選択肢がなかった。

しかし、生き残った4人ばかりか、ラスムスンも騙される。

エベ大尉は、7万2千個の地雷があるスカリンゲンという、「デンマーク最後の地雷原地帯」と言われる危険地帯に、4人を送るのだ。

地雷除去の経験者が必要だったからである。

エベ大尉に抗し、ラスムスンは「国に帰してやってくれ。頼む、死なせたくない」と強く申し入れるが、「命令だ」の一言で全く取り合わない将校。

「エベ」と呼び捨てしてまで迫るラスムスンが、最後に選択したアクションは、セバスチャンら4人をトラックから下ろし、「国境は500メートル先だ。走れ」と言って、解放する行動だった。

自らを犠牲にしてまで逃がしてくれるラスムスンに、声をかけられず、後方を振り返りながら走っていくセバスチャン。

いつまでも、少年兵を見つめ続けるラスムスン。

ラストカットである。

空をも焦がす爆裂の恐怖の中で、地雷を除去するドイツ少年兵たちの物語が終焉する。

「2000人を超えるドイツ軍捕虜が除去した地雷は、150万を上回る。半数近くが死亡、または重傷を負った。彼らの多くは少年兵だった」(キャプション)

伏線描写や音楽の多用、「スーパー少年」(セバスチャン)に象徴されるシンプルなキャラクター設定、等々、相当にハリウッド的だが、それでも感銘深い映像だった。

人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: ヒトラーの忘れもの('15)  マーチン・サントフリート」(’15)より 

ティエリー・トグルドーの憂鬱('15)  ステファヌ・ブリゼ

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セルフネグレクトすることで削られてしまう「自己尊厳」だけは手放せなかった男の物語>

1  物言わぬラストシーンの先に待つ、ネガティブな状況を引き受けていく覚悟


頑固だが、仕事熱心なエンジニアのティエリーが、人件費の削減のためにリストラする会社の経営方針の犠牲となり、集団解雇される。

進路で迷う発達障害の一人息子と、心優しい妻を持ち、失業の憂(う)き目に遭(あ)ったティエリーの再就職探しが開かれるが、この国の若者たちの失業率の異様な高さと切れていても、中高年の再就職も決して楽ではなかった。

職安に斡旋されたクレーン技師の資格を取得しても、未経験者だから雇えないと断られる始末。

面接は頓挫(とんざ)し、必死で職を得ようとする寡黙(かもく)なティエリーが、その性格を反映する就活セミナーでの模擬面接のシーンが面白かった。

「猫背に見えて、覇気が感じません」
「胸元が開いていました。浜辺にいる気楽な人みたい」
「笑顔がなく、冷たい感じが」
「考え込み、心、ここにあらずという感じ」
「おどおどして、心を閉ざしてるように見えます。答え方もおざなりで、面接に集中していない様子。主張がない」
「活気がない」等々。

ティエリーの模擬面接での様々な態度を、明らかに、年少の若者たちから、率直に吐露されるのだ。

そして、就活セミナーの講師による、面接での守るべき態度を教示される。

「面接では、愛想の良さが、とても有利な要因となります。面接官に、いい雰囲気を感じさせること。彼らは、あなたの働く姿を想像します。面接での態度や表情から、職場での姿を思い描くのです。ですから、面接での社交性は重要な決め手となります」

それを真摯に受け止めるティエリー。

模擬面接でのティエリーの態度こそ、トレーラーハウスの売却交渉で見せた頑固さや、愛想の悪さ、「冷たい感じ」などが、この直後に、彼が得た職にフィットするように印象づけるものだった。

彼が得た職 ―― それは、スーパーの監視人という、常に目を光らせて店内を見回る、「万引きGメン」のような職務。

ティエリーは、スタッフと協力し、店内の見回りや監視カメラをチェックして、万引き犯を摘発したら、常習犯でない限り、報告書を書かせ、できる限り、その場で金銭的に解決するという職務を遂行するが、どこのスーパーでも常態化しているように、当然ながら、万引きの対象にレジ係などの従業員も含まれていた。

それは、防衛的で、家族思いの誠実な性格と些(いささ)かマッチングしないような仕事だったが、真面目な性格が功を奏して、忠実に職務を遂行するティエリー。

そんな彼が意想外の事件に遭遇する。

仕事熱心な女性従業員がクーポンの割引券を、常習的に万引きしている現場に立ち会って、即日解雇されたその夜、店内で自殺するという衝撃的な事件だった。

数日後、ティエリーは黒人女性のレジ係が、自分のポイントカードをスキャンさせた不正行為を監視カメラで目撃し、別室へ連れて行く。

「これは犯罪よ」と女性監視人。

「たかがポイントよ?万引きとは違うわ」とレジ係。

その現場に立ち会ったティエリーは、レジ係から、「あなたでも、上司に報告する?」と問われ、「分らない」と一言、反応するのみだった。

その直後のティエリーの行動は、意を決したように部屋を出ていくシーン。

自ら選択した再就職先を退職し、スーパーの監視人という職務と訣別(けつべつ)するのだ。

物言わぬラストシーンの先に待つ、ネガティブな状況を引き受けていくティエリーの覚悟を問うかのように、観る者に暗示させて、ドキュメンタリーの如きリアリズムで貫流させた物語が閉じていく。

 

人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: ティエリー・トグルドーの憂鬱('15)  ステファヌ・ブリゼ」('15)より

同性愛者を許さない ―― 究極の残酷刑・石打ち刑で罰する

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1  感情が憎悪に変換され、集合化した人々の憎悪が、石を手にする者の「正義」に収斂されていく


予(あらかじ)め、身動き取れないようにされる。
体中を縛られるのだ。
声を出せないように、布などを口に押し込められる。
猿轡(さるぐつわ)である。
白い布で全身を包まれる。
破壊された身体の一部が飛散しないためだ。
刑場となる広場に運び込まれ、下半身を土に埋められる。
全く動きが取れなくなる。
ここから石打ち刑が爆裂する。
激しい痛みが音声になっても、四方八方から握り拳程度の大きさの石が飛んでくるから、音声を掻(か)き消してしまうのだ。
まもなく、その音声が消えていく。
膝下(ひざもと)が骨折する。
それでも、即死させない。
簡単に即死させるわけにはいかないのだ。
罪人の苦痛を最大限にするためである。
だから、石打ち刑の執行を停止させる。
翌日、刑の執行を再び開くためだ。
昼食時に休みを入れ、午後から再開し、夕方まで続けられる。
顔が血だらけになった罪人が、ここで絶命しなかったら、その翌日も続くのだ。
この「悪魔の連鎖」を、人は「究極の残酷刑」として受け止める。
―― さすがに、現在は、何日もかけて処刑するような石打ち刑は行われていない。
それでも、一部のイスラム教国では、未だに、この「究極の残酷刑」を採用している地域も存在している。
それをネット画像でも見られるという現実自体、異常極まりないと言える。
究極の残酷刑・石打ち刑が、人権擁護団体の槍玉に挙げられているのは言うまでもない。
同性愛者を許さない。
この感情が憎悪に変換され、集合化した人々の憎悪が、石を手にする者の「正義」に収斂されていく。
「正義」に収斂された感情が、無敵の稜線を駆け登っていく。
無敵の稜線を駆け登っていく歩程(ほてい)が積み上げられるほど、感情が昂(たか)ぶり、その昂揚(こうよう)が「正義」を捨てていく。
捨てられた「正義」は土塊(つちくれ)と化し、真砂土(まさど)に風化していく。
もう、そこには、射程に捕捉される何ものもない。
憎悪が継続力を持ち、同性愛者を許さないという、集合化した人々のラインだけが崩れずに、どこまでも連なっていくのだ。

 

以下、時代の風景: 同性愛者を許さない ―― 究極の残酷刑・石打ち刑で罰する

 

香港の若者たちを見殺しにしてはならない

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1  「我々にとっては、生きるか死ぬかの状況だ」


海外での仕事を辞めて、香港に戻って来た青年がいる。

目的は、ただ一つ。

香港の抗議活動に参加するためである。

「香港の将来のための、生きるか死ぬかの闘いだ」

そう言い切ったのだ。

黄之鋒(こうしほう)・周庭ら、10代の学生が指導した「学民思潮」(香港の学生運動組織)(のちに「香港衆志=デモシスト」に参加)の初心(うぶ)な学生運動が、「香港に、今ない民主主義」=「普通選挙の実施」を求めた「2014雨傘運動」の頓挫(とんざ)と切れ、これに対して今回のデモは、「今、あるものが失われようとしていることを食い止める」ための闘争の様相を呈している。

「今、あるもの」とは、「港人治港」(こうじんちこう/香港人による香港の統治)という、香港市民に与えられた絶対的特権である。(因みに、反意語は「京人治港」(「北京の人間が香港を統治する」)

これが壊される恐怖。

即ち、香港の書店関係者が、中国当局によって拘束された「書店員失踪事件」(「銅鑼湾書店事件」)によって沸点に達したが、「香港で国家分裂や反逆などを禁じる条文」として、常に問題化される「香港基本法23条」によって「逃亡犯条例」改正案が、「港人治港」を疑うことがない、ごく普通の香港市民に突き付けられたのだ。

刑事犯罪者(思想犯)を「反送中」(中国への強制送致)を可能にする、「逃亡犯条例」の改正案こそ、2019年6月から開かれた「2019雨傘運動」のコアにある。

「今、あるもの」さえ奪われる香港市民の怒りが、200万デモ、170万デモという、想像の域を遥かに超えた動員力のうちに爆轟(ばくごう)したのである。

冒頭の青年の話に戻す。

彼は、デモ隊の要求は受け入れられないと、改めて表明したキャリー・ラム行政長官の攻撃的姿勢や、香港の新界に隣接する深圳市(しんせんし)に中国の武装警察を駐留させている現状を知って、決断する。

「今しかない。だから香港に帰って来た。今回成功しなければ、香港は言論の自由、人権、全てを失う。抵抗しなくちゃいけない」

「『自分は役立たず』と言って、デモに参加でずに罪悪感に苦しむ香港人留学生」(ニューズウィーク日本版 2019年9月4日)が多く存在する中で、件(くだん)の青年を動かした香港の現実の大きな変容。

それは、実弾まで使用するに至った、香港警察の圧力による抗議活動の衰勢と過激化の風景だった。

また、ある教師は匿名を条件に訴えた。

「闘い続ける必要がある。一番恐ろしいのは中国政府だ。我々にとっては、生きるか死ぬかの状況だ」

逮捕者は、既に1000人以上。

それでも、香港の若者たちは怯(ひる)まない。

参加者の多くは、アパートの狭い部屋で、家族と暮らす生活を繋いでいる。(ニューズウィーク日本版 2019年8月31日「『生きるか死ぬか』香港デモ参加者、背水の陣」参照)

日経ビジネス」によると、香港市民の生活は決して豊かではない。

この事実は、所得分配の不平等さの指標である「ジニ係数」で現れている。

香港の「ジニ係数」をみると、返還直前の1997年では0.483、2006年には0.5、2011年には0.537までに達している。

0. 4が警戒ラインで、0.6以上が危険ラインとも言われる「ジニ係数」の数値のリアリティ。
 
「香港政府による土地供給に入札できるのは、実質的には財閥と呼ばれる巨大資本のみ。彼ら「持てる者」は土地高騰によって利を得るが、大多数の香港人にはその恩恵が届かない。持てる者と持たざる者の格差はますます広がっていく」

この「日経ビジネス」の記事は、香港デモの背景にある由々しき事実の一端を説明していると言える。

そんな状況下で、「立ち上がって政府を倒すか、政府のいいようにされるかだ。選択の余地はない」と言い切る若者がいる。

彼らの危機意識の根柢に、「中英共同宣言」(1984年)によって、返還から50年後の2047年に、香港の「高度の自治」が失効するという観念が覆(おお)っているのだ。

「時間はなくなりつつある」

この危機意識が、香港の若者たちを動かしているのである。

以下、「時代の風景:香港の若者たちを見殺しにしてはならない」より

https://zilgg.blogspot.com/2019/09/blog-post_9.html