日本の年金制度をやさしく解説する

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1  「人生100年時代」の中で、「人生脚本」を前向きに発想し、自律的に考えていく


【ここでは、批評含みの言及で括りつつも、基本的には批評抜きで解説している】

2019年、厚生労働省が「年金財政」の検証結果を、「社会保障審議会年金部会」(厚労相の諮問機関)に提出した。

今後100年にわたって推計し、若い世代に対し、厚生年金・国民年金の財政健全度の将来像を示す重要な作業である。

結果からは、基礎年金の最低保障機能の強化や、低成長が続く中でも、年金の実質価値を毎年下げるルール(マクロ経済スライド)への改定の制度改革の必要性が読み取れる。

厚労省が年金の定期健診と呼ぶ「財政検証」は、「年金改革法」(2004年)によって、原則5年に1度の実施が義務づけられているが、この3度目に及ぶ検証によって炙(あぶ)り出されたのは、若い世代が求めるに足る年金が確保できない恐れがあること。

この大問題を今、私たち日本国民は認識せねばならない。

ここから、日本の年金制度をやさしく解説していく。

まず、押さえておきたいのは、社会人1年生の給与明細から天引きされた厚生年金保険料は、件(くだん)の1年生の将来の年金額にならないという事実である。

では、誰に支給されるのか。

現在、年金を受け取っている高齢者に支給されるのである。

これは、日本の年金制度の仕組みを理解すれば、すぐ分ること。

日本の年金制度が、現役世代が高齢世代を支える「賦課(ふか)方式」になっているからである。
公的年金の保険料の総額は36兆円で、これに税金を加算した収入総額は53.5兆円。(図示した通り)。そして、給付は総額51.6兆円となっている。

ここで、国民年金に上乗せされて給付される、会社員の厚生年金保険料を示すと、給与×18.3%で、これを、会社負担と自己負担が9.15%の折半になる。

日本の公的年金は「2階建て」になっていると言われる所以である(図示・厚労省)。

現在、「賦課方式」によって、高齢者に支給される年金額の平均が、月額約22万であるのに対して、20歳以上60歳未満の国民全員が必ず加入することになっている国民年金=「基礎年金」が、満額のケースで1人あたり約6万5000円。

年金の受給年齢は原則65歳。

前倒しで60歳から受給したり、先送りで70歳から受給するのも可能だが、前者の場合、最大で30%程度減額する一方、後者の場合は42%増額するので、自身の健康状態が判断の目安になるだろうか。

ただ、医療の驚異的な進化によって、日本国民の平均寿命が伸びている現実を踏まえ、後者に一括するシステムの定着化を目指して、政府は制度の見直しを検討している。

但し、少子高齢化の問題がリアリティを帯びてきて、「減っていく年金額」の深刻度に如何に対処するかというテーマが、我が国の「生き死に」に関わる問題にまで膨れ上がってきた。

現在の受給者と、将来世代の受給者の間の格差が広がっていること。

この辺りは最重要課題なので、後述する。

国民年金=「基礎年金」の話に戻す。

この国民年金の保険料は定額であり、2016年度は月額16260円となっている。

加入期間に応じて決まる国民年金の支給額を、2015年度価格の算定式で言えば、少し複雑だが、780100円×(加入月数÷480)ということになっている。

加入期間が満期の40年間ある場合には、満額がもらえるが、それより少ないと、少しずつ減っていくシステムである事実を押さえておきたい。

ここで、もう一度、「現役世代が払った保険料を高齢者に給付する、『世代間での支え合い』の仕組み」について、長文だが、厚労省の広報から引用する。

公的年金制度は、いま働いている世代(現役世代)が支払った保険料を仕送りのように高齢者などの年金給付に充てるという『世代と世代の支え合い』という考え方(これを賦課方式といいます)を基本とした財政方式で運営されています(保険料収入以外にも、年金積立金や税金が年金給付に充てられています)。  
また、日本の公的年金制度は、『国民皆年金』という特徴を持っており、20歳以上の全ての人が共通して加入する国民年金と、会社員が加入する厚生年金などによる、いわゆる『2階建て』と呼ばれる構造になっています。
具体的には、自営業者など国民年金のみに加入している人(第一号被保険者)は、毎月定額の保険料を自分で納め、会社員や公務員で厚生年金や共済年金に加入している人(第二号被保険者)は、毎月定率の保険料を会社と折半で負担し、保険料は毎月の給料から天引きされます。
専業主婦など扶養されている人(第三号被保険者)は、厚生年金制度などで保険料を負担しているため、個人としては保険料を負担する必要はありません。
老後には、全ての人が老齢基礎年金を、厚生年金などに加入していた人は、それに加えて、老齢厚生年金などを受け取ることができます。このように、公的年金制度は、基本的に日本国内に住む20歳から60歳の全ての人が保険料を納め、その保険料を高齢者などへ年金として給付する仕組みとなっています」(厚労省ホームページ)

以上で述べているように、専業主婦で、夫が会社員や公務員の場合は、原則60歳まで保険料を払わずに、基礎年金を65歳から受け取れる。

これは「第三号被保険者」と呼ばれている。

パートで働いている場合、年収106万円までなら厚生年金に加入せずにすむため、働き過ぎないよう調整する主婦もいるのは、よく知られている。

また、従業員が受け取る「給付額」があらかじめ約束されている企業年金がある。

確定給付企業年金」と「確定拠出年金」という、2つの私的年金である。

最も多く利用されている「確定給付企業年金」は、企業が利回りを事前に決めて運用する企業年金であるのに対し、「確定拠出年金」は自ら運用する私的年金で、安定志向の強い日本人が、運用手段を自分で選ぶ後者よりも、前者を選択するのは必然の理であると言える。

ここで、「減っていく年金額」の問題に言及する。

1945年生まれで厚生年金に加入していた人は、保険料負担1000万円に対し、受給できる年金額が5200万円で、これは保険料の5.2倍にあたる。

ところが、1990年生まれ(Y世代=「氷河期世代」=「ロストジェネレーション」、アメリカではミレニアル世代)の人は3200万円の保険料に対し、受給額は7400万円で、これは保険料の2.3倍と低下する。

世代間の格差が顕著であることが判然とする。

以上が、厚労省の試算である。

様々な波紋を呼び、話題となった金融庁・金融審議会の「市場ワーキング・グループ」(座長 神田秀樹 学習院大学大学院法務研究科教授)の報告書によると、95歳まで生きる場合、公的年金に頼った生活設計では2000万円が不足すると指摘し、「資産寿命」(長い老後を暮らすための資産の蓄え)を延ばすことを求めたことで、年金制度への不信感がピークに達し、国民からの不満が炸裂した。(金融庁ホーム・令和元年6月3日)

当然のことである。

今や、人間の「生理的寿命」(限界寿命)が、「資産寿命」を追い抜いてしまったという事実の重さ。

資産が底が突きたら「老後難民」になるということか。

一言で要約すれば、ウェルビーイング(良好な状態)の老後を過ごすためは、自助努力が不可避であると言っているのだ。

「人生100年時代」の中で、「人生脚本」を前向きに発想し、自律的に考えていくことには何の問題もないが、「老後資金2000万円問題」の骨子は、本来的に金融機関サイドの問題であって、国民の自助努力の範疇を超えている事実を軽視していること。

これが問題なのである。

それでも、安定的な資産形成を望み、自助努力を怠らない多くの日本国民にとって、より豊かな老後生活を送るために、「老後資金2000万円問題」を主体的に受け止めていくだろう。

従って、「人生100年時代」を生きるには、例えば、NISA(ニーサ・少額投資非課税制度/注1)・IDECO(イデコ・個人型確定拠出年金/注2)などの私的年金が、資産形成方法の一つの手立てとして活用しやすく、有効であると思われる。

(注1)「2014年1月にスタートした、個人投資家のための税制優遇制度です。通常、株式や投資信託などの金融商品に投資をした場合、これらを売却して得た利益や受け取った配当に対して約20%の税金がかかります。毎年一定金額の範囲内で購入したこれらの金融商品から得られる利益が非課税になる、つまり、税金がかからなくなる制度です」(金融庁ホーム)

(注2)「個人型確定拠出年金(IDECO)は、確定拠出年金法に基づいて実施されている私的年金の制度です。この制度への加入は任意で、ご自分で申し込み、ご自分で掛金を拠出し、自らが運用方法を選び、掛金とその運用益との合計額をもとに給付を受けることができます。また、掛金、運用益、そして給付を受け取る時には、税制上の優遇措置が講じられています。」(IDECO公式サイト)

「時代の風景:日本の年金制度をやさしく解説する」より

https://zilgg.blogspot.com/2019/09/blog-post.html

 

(2019年9月)

セールスマン(’16)  アスガー・ファルハディ

(’17)f:id:zilx2g:20190827104421j:plain

「報復権」を解体できない男の最終的焼尽点 ―― その内的風景の痛ましさ

1  事件の破壊的トラウマが関係を食い潰していく ―― その1


「皆逃げて!」
「アパートが壊れるよ!」

大声が飛んだ。

アパートの倒壊危機の状況下で、「何があったんです?」と尋ねても、埒(らち)が明かなかった。

エマッドは妻のラナを呼び、逃げることを促し、アパートの住民は性急に避難する。

アパート住民が、逃げ場を求めてパニックになっている、この冒頭のシーンの混乱は、ショベルカーの映像提示によって、都市を再開発し、高級化する「ジェントリフィケーション」の様態と切れ、高い経済成長を実現しつつある「中進国」にあって、近代化の急速な膨張による、杜撰(ずさん)な工事の悪しき所産であることが判然とする。

エマッドの怒りは、近代化と、北部中心に進む歪(いびつ)さを見せる都市化が急速に進むイランの現状を炙(あぶ)り出していた。

イランの首都テヘランは、1400万弱の人口を抱える同国最大の都市である。

イスラム教の第4代正統カリフマホメットムハンマド死後の国家指導者)のアリ―(ムハンマドの父方の従弟)の子孫のみが、「ウンマ」(イスラム共同体)の指導者とするシーア派の拠点国家であり、「中進国」イランのテヘランは、このシーア派住民の文化的中心地でもある。(イラン人は、サウジアラビアのようなアラブ民族ではなく、ペルシア人であり、言語も、ユーラシアから西アジア、南アジアに広く分布する、インド・ヨーロッパ語族のペルシア語である)

その文化的中心地として急成長を続けている、イラン北西部・テヘランに、国語教師のエマッドと妻のラナが住み、共に、小劇団に所属して、今、アーサー・ミラーの代表的戯曲「セールスマンの死」の舞台稽古で、老いた主人公夫婦を演じ、精を尽くしている。

そんな渦中で惹起したアパートの倒壊事故によって、居住スポットを奪われた夫婦は、同劇団のババクが紹介してくれたアパートに移住する。

「最低な街だな。全部壊して、やり直した方がいい」とエマッド。

「やり直した結果がこれだ」とババク。

管理人のいない、移住先のアパートでの会話である。

ところが、この移住先がとんでもない代物(しろもの)だった。

そこに住んでいた、前の住人所有の多くの荷物が無造作に残っていたからである。

アパートの住人の話では、前の住人(ラナとの電話のやり取りがあるが、基本的にマクガフィン)は、引きも切らず、異なる男が訪ねて来て、「ふしだらな商売」をしていた女性であると言うから、余計、厄介だった。

そして迎えた、「セールスマンの死」の公演。

事件が起こったのは、その夜だった。

夫より先に帰宅したラナが何者かに襲われ、浴室でレイプの被害に遭ったのだ。

相手の顔を見る余裕すらないパニック状態の只中で意識を失い、事件を知った隣人のサポートを得て、浴室から病院に連れて行かれ、ERで治療を受けていた。

夫の帰宅と誤って、玄関の扉を開けてしまったラナの行為に全く落ち度がない。

だから、事件を知ったエマッドが、ラナを誹議(ひぎ)することはない。

それでも、この理不尽な事件を悲憤慷慨(ひふんこうがい)する、エマッドの怒りの感情は収まらない。

それは、事件の破壊的トラウマによって、「男性恐怖症」(恐怖対象が男性である対人恐怖症)に陥り、身動きが取れないラナと、そのラナを襲った男に対する感情が膨張し、復讐的暴力の忿怒(ふんぬ)を抑えられないエマッド。

まさに、瞋恚之炎(しんいのほむら)である。

そんな二人の会話。

「一人は怖いの」とラナ。
「警察に行こう。告発すれば、犯人が見つかる」とエマッド。
「どういう風に?」
「奴のトラックがあるから。携帯もあったが解約されていた」
「誰なの?」
「前の住民は、ふしだらな女だったそうだ。犯人は彼女の客らしい」
顔に傷を受け、記憶を失っているラナの内側では、極度に「男」を怖れる感情だけが漂動(ひょうどう)していた。
「髪を触られ…あなただと思って、あとは何も覚えていない…」

嗚咽しながら、必死に、それだけを話すラナ。
セールスマンの死」を演じるラナは、もう、リアルな演技を演じ切れない。
だから、代役を立てられる。

「一人が怖いの」
「しばらく実家に帰るか?」
「この顔で?」
「今朝、決心した。警察に行くか、忘れるか、どっちかに」
「すべて忘れて引っ越しを」
「分った。だが、その前に。君がしっかりしてくれ」
「私のせい?」
「きちんと薬を飲んで、夜はちゃんと寝てくれ」

一貫して、自室の浴室でシャワーを浴びることを拒むラナに対して、苛立(いらだ)つエマッド。

「君が分らない。夜は、そばに寄るな。昼は、そばを離れるな。どうすればいい?」
「死ねばよかった…」

一人で仕事に向かおうとするエマッドは、部屋の隅で項垂(うなだ)れているラナに気づき、傍(かたわ)らに座り、「よせ」と一言。

エマッドにとって、強姦された妻への復讐の情動を抑え、事態の収束を警察に委ねようとするが、その合法的選択肢をも拒絶するラナを目の当たりにして、もう、何も言えなかった。

責めているのではない。

気持ちも分らなくない。

それでも、内側に累加されたストレスを処理できず、思わず、不満を洩(も)らしてしまうのだ。

思うに、エマッドの行動原理のうちに、被害者遺族の「報復権」という、暴力的な観念が張り付いていて、これが彼の復讐的暴力の忿怒の心理的推進力になっていた。

教師でありながら、授業中に居眠りをしてしまうほど疲弊し切っていくエマッドの心身は、妻ラナと異なる次元で、ウエルビーイングの状態から完全に乖離(かいり)していた。

まるで、事件の破壊的トラウマが、二人の関係を食い潰していくようだった。

人生論的映画評論・続「セールスマン」(’16)より

https://zilgz.blogspot.com/2019/08/blog-post_27.html

ハッピーエンド(’17)   ミヒャエル・ハネケ

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<「疑似リアル」の世界で、「生身の日常空間」を異化する少女の「見捨てられ不安」の重さ>

1  「ディスコミュニケーション」の空疎な風景が漂動する


いつも書いていることだが、家族とは、分娩と育児による世代間継承という役割を除けば、「パンと心の共同体」である、と私は考えている。

近代化され、一定の生活水準の高さを確保した社会の中で、家族の役割の中枢は、今や、「心=情緒の共同体」にシフトしてきている。

「情緒の共同体」は、現代家族の生命線なのである。

家族とは、大いなる「安らぎ共同体」であると言っていい。

この辺りの崩れが顕在化したとき、家族は、忽(たちま)ちのうちに幻想=「物語」を剥(は)ぎ取られ、そこに家族成員の確信的で、継続的な努力が傾注されていかない限り、その崩壊を防ぐのは難しいと言わざるを得ない。

―― ここで、「家族とは社会の核であり、家族を語ることは同時にその集約である社会を描くこと」と語る、ミヒャエル・ハネケ監督の「ハッピーエンド」の中で描かれた、三世帯家族の実相に言及したい。

以下、ホームページから、本篇のストーリーの概略。

「カレーに住むブルジョワジーのロラン家は、瀟洒(しょうしゃ)な邸宅に3世帯が暮らす。その家長は、建築業を営んでいたジョルジュ(ジャン=ルイ・トランティニャン)だが、高齢の彼はすでに引退している。娘アンヌ(イザベル・ユペール)が家業を継ぎ、取引先銀行の顧問弁護士を恋人にビジネスで辣腕(らつわん)を振るっている。専務職を任されたアンヌの息子ピエールはビジネスマンに徹しきれない。使用人や移民労働者の扱いに関しても、祖父や母の世代への反撥(はんぱつ)があるものの、子供染みた反抗しかできないナイーブな青年だ。また、アンヌの弟トマは家業を継がず、再婚した若い妻アナイスとの間に幼い息子ポールがいる。その他、幼い娘のいるモロッコ人のラシッドと妻ジャミラが住み込みで一家に仕えている」

簡単に説明すれば、これが、三世帯家族のアクチュアリティー(現実性)の様態である。

だから、物語の序盤で透けて見えてくるロラン家には、「家族共同体」の自壊現象によって、家族内部の意思疎通(いしそつう)が顕著に剥(は)がされ、殆ど修復の余地がないような心象を、観る者に与えてしまう。

老いた父の建築業を継いだ辣腕家の姉・アンヌや、リールにある病院の外科部長の任にある弟・トマが、ただ形式的に「情緒的結合力」の表層を装おう努力を繋ぐが、二人がその行動に振れれば振れるほど、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の内実が露わにされていくという、トラジコメディ(悲喜劇)の空疎感が漂動(ひょうどう)する。

典型例として映像提示されたのは、アンヌとピエールの母子関係。

食卓を囲む限定スポットで、アルコール依存症とも思しきピエールを、母のアンヌが注意するシーンがあった。

「親子ゲンカは、食後にやってもらうとありがたい」

この老父のジョルジュの一言で、言い訳をしながら、「親子ゲンカ」が中断されるという些細(ささい)なシーンだが、この母子関係の歪(ゆが)みは、本篇の最後まで延長されるので、看過できない問題を抱えていたと言える。

建設現場での事故を機に、責任者であるピエールの振舞いの不味(まず)さが、かえって事態の収拾を拗(こじ)れさせ、有能な母から駄目出しされるエピソードの挿入は重要である。
ピエールが事故の被害者宅を訪ね、逆に殴られてしまう始末の悪さは、これで、もう何もできなくなり、〈状況逃避〉するこの男の、融通無碍(ゆうずうむげ)とは全く無縁な、捩(ねじ)れ切った人格像を提示することで了解可能である。

「能なしだ、僕は能なしだ」
「バカ言って」
「思ってるくせに。会社を継ぐ気がないと分ってるだろ」
「それで、何するの?」
「何かしないと、まずい?」
「自分が可哀そう?殴られて、いじけるなんて、ただのガキよ!」
「いつものママに戻ったね。早く帰って仕事しなよ」
「お手上げだわ」
「その通り」

この会話は、〈状況逃避〉する息子と、建前と本音を分ける母との関係の歪みの本質が、二つの矛盾したメッセージ(メッセージ+メタメッセージ)を送波するダブルバインドの、コミュニケーション状況にある現象を示唆するものだ。

「やればできる。頑張って」と言いながら(建前のメッセージ)、頑張ろうと努力しても頓挫(とんざ)した息子を、「お手上げだわ」という本音を吐露する母。

普段はその本音(メタメッセージ)を隠し込み、「あなたが会社を継ぐのよ」と言いつつも、「能なしで、会社を継ぐ気がないと分ってる」母が、再婚予定の弁護士と共に、建築会社の再興と発展を考えているだろう物語の予想展開は、アンヌとピエールの母子関係が、既に、ピエールの子供時代に淵源(えんげん)することをサゼッションしている。

だから、ラストでのアンヌの婚約発表のパーティーで、アフリカ移民を連れて乗り込み、母の婚約者を突き飛ばそうとし、パーティーを壊そうとするピエールの稚拙な行動にまで振れてしまうのだ。

どこかで、「見捨てられ不安」とも共存していたに違いない、ピエールの自我の底層に深く張り付く「母の呪縛」という、解決困難な根源的テーマの重さ。

この重さによるストレス解消のために、行きつけのカラオケステージで、精一杯のパフォーマンスを見せるピエール。

この若者には、カラオケステージで暴れ捲(まく)ることで、辛うじて、自己同一性を保持しているのだろう。

少なくとも、この母子関係の家庭が、「安らぎ共同体」とは無縁だったことは充分に理解可能である。

―― 次に、アンヌの弟・トマの生活風景について。

父の家業を継ぐことなく、再婚相手である、若く心優しい妻・アナイスとの間に幼い息子・ポールを儲け、病院の外科部長の任にあり、何不自由なく暮らしている。

社会人として、有能な姉弟を強く印象づけるが、外科部長の任にあるためか、毎日、帰りが遅い。

このような人物によくあることだが、帰宅の遅さの原因は愛人を抱えているからである。

この映画で印象的に映し出されるのは、愛人とのチャットで「変態プレー」を愉悦するシーン。

シーンと言っても、次々に、パソコンに打ち込まれる文字の氾濫(はんらん)のみ。

例えば、こんな調子。

「何が起ころうと、いつか、あなたが忘れようと、私は永遠に、あなたのものよ。あなたを想い過ぎて、涙が出てきたから」
「君の涙は飲みたいが、泣かないでくれ。僕は苦しみの放尿で、君を慰めよう。君を傷つけたい。君の中に完全には入れないから」
「変態セックスの好みがあるなら、私に隠さず、すべて話していいのよ。私の体を利用して」

これは、愛人からのチャットだが、チャットでの卑猥(ひわい)な会話がエスカレートし、変態セックスの妄想のみで性的興奮を高め、満足する様子が手に取るように分る。

後述するが、トマの父・ジョルジュが、自家用車を運転し、自殺未遂と思われる追突事故を起こし、車椅子の生活を余儀なくされる重傷を負った現実の只中でも、トマは、このようなチャットを楽しんでいるのだ。

SNSを介して、特定他者と閉鎖系の時間を愉悦する行為に、倫理的なジャッジを下しても、何の意味もない。

他人のプライバシーに侵入し、倫理的なジャッジを加えるほど、私たちは気高くないのである。

むしろ、父・ジョルジュの追突事故に関わり、疲弊し切った感情が、愛人からのチャットに性的興奮を搔(か)き立てるような行為に振れたとも考えられる。

恐らく、人間とは、こういう生き物なのだろう。

そして、利便性が高く、瞬時に空間をワープするSNSの閉鎖系の時間を占有し、存分に愉悦する。

現代社会は、ここまで、人間の欲望を解放し、自在な移動を可能にしたのである。

トマの話に戻すが、無論、この時点で、心優しい妻・アナイスは、この事実を知る由もない。

その意味で、トマの家庭が「安らぎ共同体」を保持していると言える。

トマとの間で儲けた可愛い赤子がいて、日々、夫の帰りを待つアナイス。

経済的不安もなく、特段に、マタニティーブルーもなかったように思えるので、このまま、夫の不倫に気づくことさえなければ、夫婦の心理的共存は強化されていく可能性は高いだろう。

ところが、呆気なく、この事実が知られてしまう。

この事実を知ったのは、アナイスではない。

これも後述するが、母が入院したことで、実父のトマに引き取られ、ロラン家に厄介になる13歳のエヴである。

その方法は、スマホで動画投稿するほど、文明の利器に馴致(じゅんち)しているエヴが、父のパソコンでチャットの事実を知ったのだが、それだけでなく、愛人からの電話の素振りの不自然さで、エッジの効いた鋭利な感覚を有する少女は察知していたのである。

「恐ろしい事態になった。娘がパソコンを開け、このチャットを見た。自殺未遂を起こした。幸いなことに未遂で済んだが、僕たちの会話はすべて消さなければならない。それに、これからは何も保存できなくなる。この先、娘がどんなことを考えるのか、まるで見当もつかない。これからは時間を決めて…」

このトマの言辞の意味も、本作の要諦(ようてい)なので、後述するが、アナイスに知られることを怖れるトマの驚愕(きょうがく)の心情が、透けて見えるのだ。

愛人とのチャットに象徴されるように、この男の存在自身が、ロラン家の「ディスコミュニケーション」の、その空疎な風景の重要な因子になっている事実を炙(あぶ)り出していた。

以下、人生論的映画評論・続「ハッピーエンド」(’17)より

https://zilgz.blogspot.com/2019/08/17.html

現代社会に残存する「野生環境」の「感情システム」

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1  「獲得経済」の時代から、僅か1万年のスパンでは、人間の感情は簡単に変わらない


私たちが自然を恣意的(しいてき)に加工し、破壊することで作り上げた、近代文明社会の中に呼吸を繋ぐ私たち人間が手に入れた、過剰な快楽装置と圧倒的な利便性。

そして、超絶的な合理主義の達成点とは裏腹に、どうしても、そこだけは進化が遅れる精神世界の陥穽(かんせい) ―― これはもう、為す術(すべ)がない。

「諸科学的達成の速度」に追いつけない、私たちの精神の「理性的能力の不具合感」。

全く手に負えないのだ。

思うに、「恐怖」・「逃走」・「威嚇」・「攻撃」といった「状況対処行動」が、私たちの「感情」のルーツとなったと想定されるので、「状況対処行動」という、この神業(かみわざ)の如く抜きん出た「システム」は、何億年という、膨大(ぼうだい)な時の波を潜(くぐ)って、動物の種の進化と共に進化してきた。

元より、感情の進化は、約500万~700万年前に共通祖先から分岐し、樹上生活をしていた人類のルーツが、アフリカのジャングルから草原に出たことが契機になっている。

人類が約200万年前から1万年前まで、100人規模の共同集団を営み、狩猟採集生活(「獲得経済」)を送るようになる頃には、DNAの塩基配列の約99%が等しいチンパンジーにはないような、感情や行動を形成させてきた。

人間的な「感情システム」を、私たちの祖先は構築していくのだ。

共同集団を営む行程で、「感謝」・「恩や義理」・「罪悪感」・「名誉」・「公平感」・「嫉妬」・「道徳的怒り」などの複雑な感情系が、「獲得経済」の時代の中で作り上げていたのである。

この時期は、地質時代の年代区分で言えば、最も新しい時代である「現世」=「完新世」(かんしんせい)と切れ、人類が出現し、活動した「更新世」(こうしんせい/大半が氷河時代)の期間と重なるが、しかし、野生環境に適応的だった1万年前の「感情システム」を、現代社会に適合させるのは難しい。

野生環境に適応的だった「感情システム」は、人類が「定住社会」を構築する「生産経済」という、農耕開始以前の期間の大部分を占める行程の中で作り上げ、鍛え上げられていったのである。
ところが、200万年の時間を要して、私たちが作り上げていった「感情システム」は、私たちの精神の「理性的能力の不具合感」を生んでしまっている。

このギャップは、一体、どこからくるのか。

人間の感情は、野生環境に適合すべく、200万年の時間を要して作り上げた文化的結晶だから、充分に、「適応行動選択システム」としての高度な機能を具有している。

この「適応行動選択システム」を、心理学者・戸田正直は「野生合理性」と定義する。

この概念は、感情が進化の結果によって獲得したものであり、本来、環境に適応したものであったにも拘らず、進化が追いつかないほど、環境を激変させてしまったことで、200万年の時間を要して作り上げた人類の「感情システム」が、現代のあらゆる文化フィールドで不合理になっていったという深い意味を持つ。

これが「野生合理性」である。

それ故、現代社会において、この「感情システム」が、必ずしも、人類の「生き延び」に有利に働いていないと、戸田正直は指摘するのだ。

それは、「野生環境」⇒「文明環境」という劇的な遷移(せんい)を一気に経由して、環境の基本条件をグレート・リセットさせてしまった歴史的現象に対応する。

ましてや、「獲得経済」の時代から、「生産経済」の時代に遷移したのが、僅か、1万年前のこと。
驚いたことに、この1万年の間に、人類は「文明」を構築してしまった。

そして、この「文明」が、「近代社会」を作り上げた。

すべてのフィールドに及んで、極めて利便性の高い「高度大衆消費社会」を構築してしまったのである。

巨大な台風の「急速強化」の現象をトレースするように、デジタル化への進化は、フィルムカメラデジタルカメラに取って代わったように、破壊的な技術を有する後発の事業に関心を持たず、自ら革新していかないと、後発の事業に呆気(あっけ)なく抜かれてしまうという、米国の経済学者・クレイトン・クリステンセンが言う、「イノベーション(技術革新)のジレンマ」が出来(しゅったい)した。

180万円程度で、アルゼンチンの最南端から出港し、約2日を要しただけで可能な「南極観光ツアー」は理解に及んでも、100億前後のツアー料金で、「月面旅行」を可能にした「現代社会」のスケールの大きな展開に、貴方はついていけるか。

私もついていけるか。

完全に未知のゾーンに踏み込んでしまった、終わりの見えない時代の変移に、私たちはついていけるか。

「獲得経済」の時代の終焉から、僅か、1万年の時間の経緯で構築してしまった「近代文明社会」の、眩(まばゆ)いほどの相貌(そうぼう)の際立(きわだ)つ総体。

これについていけるか。

残念ながらと言うべきか、僅か、1万年のスパンでは、人間の感情は簡単に変わるわけがない。
「獲得経済」の時代から、僅か、1万年の時間で、「近代文明社会」を作り上げてしまった人類の超高速の革命的遷移。

驚きを禁じ得ない。

多くのリンクを持つノード(ネットの接点)がネットを占有する現象・「スケールフリー・ネットワーク」や、「80:20の法則」で知られる「パレートの法則」(全体の数値の8割を一部の要素が生み出す)、多品種・少量の販売で収益を確保する「ロングテール現象」、或いは、GAFA(ガーファ/グーグル・アマゾン・フェースブック・アップル)に象徴されるように、それに身を預けて成功を収める一部の者と、それ以外の大多数の者たちとの落差は、いよいよ、人類社会に広がり、浸透している。

今や、ドイツに始まった、工業のデジタル化によって製造業を根本的に変換させるという、「インダストリー4.0」の時代の幕が開いて、各国も追随する流れが、引きも切らない現象に終わりが見えないのだ。

私たちは、200万年の時間を要して作り上げた人類の「感情システム」を内包しながら、「現代社会」の衝撃を集中的に浴び続け、呼吸を繋いでいるのだ。

この事態が意味するものの怖さに、私たちは、あまりに鈍感すぎる。

「野生環境」で進化させた「感情システム」を内包しつつ、「近代文明社会」の只中を生きるのだ。

私は、このことを考える時、必ず思い出す一本の映画がある。

北野武の監督デビュー作として知られる「その男、凶暴につき」である。

以下、「野生合理性」という、「感情システム」を内蔵する男の内面世界をテーマにして、本稿の中枢に肉薄(にくはく)し、掘り下げてみたい。

 

以下、「心の風景:現代社会に残存する『野生環境』の『感情システム』」より

https://www.freezilx2g.com/2019/08/blog-post.html

香港、燃ゆ

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1  「日本政府は、自分の国民の人権と身の安全、自由と命のために何か言うべきだと思います」


一人の女性がいる。

22歳の大学生である。

彼女の名は、周庭(しゅうてい/以下、全て敬称略)。

自らを「オタク」と自称し、アニメ好きで、独学で日本語を習得したほどの日本贔屓(びいき)の周庭は、「2014雨傘運動」で「ミューズ(女神)」と称された、英国領香港生まれの香港人である。

但し、「香港基本法」(香港特別行政区基本法)の「第18条及び付属文書3」により、彼女の国籍は、二重国籍が認められていない中国の国籍法の適用によって、外国国籍に「変更」することを「香港政府」(香港特別行政地区政府)の入管当局に登録し、許可が下りない限り、中国ということになる。

従って、「香港政府」の元首は、習近平中国国家主席である。

2016年時点で、734万人が居住する香港の民族の91%が中国系で、言語も中国語、広東語と英語が公用語基本法第9条)、そして、仏教、キリスト教イスラム教、ヒンドゥー教ユダヤ教道教という風に、宗教は多様である。(参考記事・「外務省・香港基礎データ」)

さて、周庭のこと。

2016年に、香港の自決権を掲げる政党として立ち上げられた「香港衆志」(ホンコンしゅうし=「デモシスト」)の常務委員を務め、「非暴力の民主化」という理念の下に活動するが、残念ながら、香港独自の選挙制度・「選挙委員会」(定数は1200名)により選出された、「香港行政長官」をトップとする「立法会」(議会)での議席を持っていない。

正確に言うと、「デモシスト」の若き初代主席・羅冠聡(らかんそう/現在26歳)が参加した「2014雨傘運動」において、10代学生が結成する「学民思潮」(香港の学生運動組織)の創立者・黄之鋒(こうしほう/現在22歳)らと共に主導し、扇動した罪で禁錮刑を言い渡されたことで、虎の子の1議席を失ったという顛末(てんまつ)がある。

「立法会」(議会)での議席を失う主因となった、「雨傘革命」と呼ばれる学生蜂起・「2014雨傘運動」において、黄之鋒と共に、学生ストライキを断行した周庭は、なお燃える香港の現在を見据(みす)え、当時の活動を語っている。

ここから、周庭のインタビューを「ニューズウィーク日本版」(2019年6月17日/「『香港は本当にヤバいです』 逃亡犯条例の延期を女神は『予言』していた」)の記事から一部引用する。

その前に、インタビューの背景にある、日々、過激化していく、出口の見えない「騒乱」の状況を惹起した大デモンストレーションの連射について、正確に整理しておく必要がある。
この大デモンストレーションの連射は、「普通選挙の実施」=「香港に、今ない民主主義」を求めた「2014雨傘運動」と異なって、2019年6月から開かれた「香港騒乱」の様相を呈し、今や、「2019雨傘運動」の範疇を超え、「香港暴動」の風景さえ露わにしているのだ。

後述するが、香港で身柄を拘束した学生活動家らの、中国本土移送を可能にする「逃亡犯条例」の改正に反対する活動家らは、改正案の「完全撤回」を求めて、敢(あ)えて中心部から離れたエリアで大デモンストレーションに打って出た。

そのデモ隊の一部が、ゴム弾用の銃や催涙スプレーを、確信犯的に使う警官隊と衝突したことで、混乱が香港の広い範囲に拡大する事態にまで進展していく。

香港政府トップの林鄭月娥(りんていげつが=キャリー・ラム)行政長官は、改正案審議の再開の予定がないことを表明したが、反対派は納得しなかった。

この辺りから、多くの香港住民をインボルブした「香港騒乱」の様相を呈するに至る。(参考記事・「時事ドットコムニュース」2019年7月14日)

以下、周庭のインタビュー。

――6月9日(2019年)のデモに103万人が参加し、更に、続いて起きたデモを香港警察が激しい暴力で鎮圧しようとする、という急な展開になっている。予想できたか?

「予想できなかったです。昔から催涙弾催涙スプレー、警棒は使われていたが、今回は『ルール』が守られていない。催涙弾を撃つときは一定の距離を空ける決まりのはずだが、今回はデモ隊の目の前で撃っている。(ゴム弾の)銃は雨傘運動の時には使っていない。デモ隊の頭に向けて撃っているが理由がない。警察官が命の危険を感じるレベルではないのに、なぜ、デモ隊に対して銃を撃つのか。しかも頭を打たれた1人はメディア関係者です。香港人として暴力を許せない。警察は(デモ参加者を)殺す気ではないでしょうか」

――現地の映像を見ていると、ただ、立っている人に催涙スプレーを掛けたり、引きずり倒して警棒で殴ったりしている。

「反抗する力を失った人に暴力をふるうのはルール違反です」

――香港警察がデモを激しい暴力で鎮圧するのは意外だ。

「警棒は雨傘運動の後半から、よく使われるようになりました。1人のデモ参加者が、5、6人の警察官に囲まれて暴力を振るわれることがあった。それでも(ゴム弾用の)銃を使ったことはない」

――デモにあれほどの参加者が来るとは予想していなかった?

「元々の予想は30万人でした。100万人は誰も想像しなかったと思う」

――そのうち10~20%は2014年の雨傘運動に参加したが、その後、デモに来なかった人、30~40%は全くデモに参加するのは初めての人、と周さんは分析している。雨傘運動の失敗以降、無力感が広がっていたにも拘らず、これだけたくさんの人が集まったのはなぜか。

「この運動は特別だと思う。なぜかというと、逃亡犯条例の改正案が可決されたら、香港人はデモの権利や中国政府に反対する権利も失う。この条例案が可決されたら絶望だ、終わりだという感情を持ってみんなデモに参加したと思う」

――危機感が共有されている、と。

「危機感というより恐怖感、恐怖感よりも絶望感だと思います。今回だけは阻止しないとダメ、という意思がすごく強かった。今までの運動とは全然違う」

――逃亡犯条例は、香港人台北で殺人事件を起こしたことをきっかけに改正の動きが始まった。もし事件がなければ、香港政府は改正しなかったのか。

「そうではないと思う。この事件は政府の『言い訳』」

――元々、こういう条例を作りたいと思っていた、と。

「この事件はきっかけの1つと思います。台湾は中国の一部という前提に納得できないので、今、(改正案が)可決されても台湾は(香港人容疑者を)引き渡さない、とはっきり言った。可決されても、台湾からの殺人犯引き渡しは実現されない。本当の理由は殺人犯の引き渡しではない、と皆が思っている。
(略)私たちのような活動家だけではなく、中国の官僚と深い関係のある、中国で商売をやっている香港人や外国人をターゲットにするのでは、と思います。今回、財界やビジネス界が強く反対するのはその証しじゃないかと」

――自分の身にいつか危害が加えられるのでは、という恐怖感はないか。

「恐怖感はあります。この改正案が可決されたら、中国はやり放題になる」

――今月20日に、犯人引き渡し条例の改正案が審議され、このまま押し切られると可決されてしまう。

「でも、立法会の審議は(デモの影響で)キャンセルされた。審議をするための会議が開けるのか、私は疑問です」

――万一、そうなった時、次にどうするのか。

「今はこの運動に集中したい。これが可決されてしまうとヤバいです」

――香港から逃げ出す人たちが増えている。

ドイツ政府も、香港からの政治難民を2人受け入れました。

――周さんも万一、身の危険が迫ったら同じような行動を?

「今はない。今は戦いたい。その時になったら、どういう気持ちになるのか予想できない。残りたいです。香港に対する責任感があるから。法案が可決されたら、香港イコール中国です。香港のメリット、香港の良さがなくなってしまう。今回の改正を心から支持している人はあまりいない。普段、ビジネス界の人たちは自分の意見を言わないし、親中派が多い。今回は自分たちが一番危ないので反対している」

――確かに、今回のデモは若者だけじゃなくて年を取った人も参加している。

「世代に関わらず、参加しています。100万人は本当に歴史的。私も初めて100万人のデモに参加しました」(筆者、段落等、再構成)

以上、周庭のインタビューの骨子の部分を引用したが、本音を隠すことなく、心情を率直に表現する彼女の真摯(しんし)さに、正直、深い感銘を受けた。

敢えて引用しなかったが、このインタビューで、我が国の対応の物足りなさを批判する、周庭の章々(しょうしょう)たる言辞を受け、忸怩(じくじ)たる思いが込み上げてきて、二の句が継げなかった。

彼女は、ここまで言い切ったのだ。

「日本政府は、自分の国民の人権と身の安全、自由と命のために何か言うべきだと思います。中国は法治社会ではない。ルールを守らない政権で、勝手に罪を作りあげるのがとてもうまい。中国で収監され、不可解な形で死んだ人もいる。自由や政治的な権利だけでなく、命の問題。捕まって中国に送られたら帰れるかどうか分らない。だからこそ、香港人だけではなく、欧米政府やEUが反対の声を上げている。日本企業や日本人がたくさん香港にいるのだから、日本政府も反応しないとだめだと思う」

その通りだと思う。

それができない我が国の政権本体に、私は慚愧(ざんき)に堪えない思いで一杯である。

以下、「時代の風景:香港、燃ゆ」よりhttps://zilgg.blogspot.com/2019/08/blog-post.html

 

 

スポーツの風景 「スポーツ科学のエビデンスを根源的に失った『昭和の野球』の欺瞞性」より

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1  極端な体育会系精神主義に収斂される「御意見番」張本勲 ―― 「壊れても当然」と言い放つ男の愚昧の極致
 
 
「確証バイアス」・「サンプリング バイアス」等々の複数の理由で、TBSの「サンデーモーニング」には、どうしても馴染(なじ)めないが、言論の自由だから見なければいいだけの話。
 
しかし、Yahooニュースで入ってくる「張本勲の喝!」のコーナーだけは、どうしても看過できなかった。
 
この男は、「ジャイアンツの独走」と言い切った翌週に、それと真逆の情報を、恬(てん)として恥じない口調で発信する
 
DNAと広島の連勝という結果を見てから発信するから、かてて加えて、性質(たち)が悪いのだ。
 
一週間のゲームの結果を見て発信する「御意見番」とは、一体、何者なのか。
 
このレベルの矛盾なら、いつもの調子なので、聞き流せばいいのだが、しかし、2019年7月28日での「解説」には、開いた口が塞(ふさ)がらない。
 
人口に膾炙(かいしゃ)しているので詳細は省略するが、大船渡の国保陽平(こくぼようへい)監督が佐々木朗希(ろうき)投手を温存したことで、その起用の是非を巡って世論が沸騰した。
 
以下、「御意見番」持論。
 
「私は残念で仕方ありませんよ!夏は一回勝負だから99%投げさせなきゃダメでしょう。
一生に一回の勝負でね。色々、言い訳はありますけど、投げさせなきゃ。その前の(準決勝で)129球?それがどうした。歴史の大投手たちは皆、投げてますよ。勝負は勝たなきゃダメなんだから。投げさせなきゃいいという人は野球を知らない人だし、自分はよく思われようと言っている人なんだよ。壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの。痛くても投げさせるくらいの監督じゃないとダメだよ。将来、将来って、将来は誰が保障するの?球界のって誰が決めたの?」
 
更に、畳み掛けていく「御意見番」。
 
「あの苦しいところで投げさせたら、将来、本人のプラスになるんですよ。選手はそれを乗り越えて、人並み優れたピッチャーにならなきゃ。彼が投げても負けたかもしれないよ。それでも彼に試練を与えることが、野球を辞めても、彼の人生のプラスになるじゃないの。人生の90%は苦しいことのほうが多いじゃない。あのときの苦しみを考えれば、こんな苦しみ、屁でもないというような気持にもなるんですよ。どんなであっても、彼には出してほしかった」(参考記事・「週刊文春」)
 
以上、「御意見番」張本勲の持論が、極端な体育会系精神主義の一語に収斂されるもので、この男に、プロ野球の指導者のオファーがなかったこと(?)を、大いに欣喜(きんき)せねばならないだろう。
 
それにしても、「壊れても当然、ケガをするのはスポーツ選手の宿命だもの」と言い放った、この愚昧(ぐまい)な男の暴言に、絶句した。
 
「壊れても当然」と言い放つ男の、その人格総体を貫流する極端な体育会系精神主義
 
そのアナクロな発想の風景に張り付く、「昔は良かった」という文脈の表層に、検証困難な情報が群れを成し、そこから、「歴史の大投手たちは皆、投げてますよ」という言辞が暴走する。
 
「だから、歴史の大投手たちは短命だった」
 
「権藤・権藤・雨・権藤」と称された、「地獄の連投」の惨鼻(さんび)に象徴されるように、この類(たぐい)の重要な事実が、この男の脳から、そっくり剥落(はくらく)しているのだ。
 
以下、愚昧なこの男の、「昔は良かった」論や、極端な体育会系精神主義異論を呈したい。
 


スポーツの風景 「スポーツ科学エビデンスを根源的に失った『昭和の野球』の欺瞞性」よりhttps://zilgs.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

人生論的映画評論・続あの夏、いちばん静かな海。('91) 北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>より


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<「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>
 
 
1  「台詞なき世界」について
 
 
この映画のキーワードは3つある。
 
「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」である。
 
まず、「台詞なき世界」について。
 
「障害者は庇護されるべき特別な存在である」
 
この命題に異論を唱える勇気ある御仁は少ないだろう。
 
それ故、この命題から様々なテーマを汲み取って、ヒューマンドラマにする商業戦略の流れが途絶えることはない。
 
即ち、「障害者をサポートする献身的な介護者」とか、「自力で障害の難題を乗り越えて能動的に生きる障害者」などのテーマで製作されるヒューマンドラマである。
 
障害者はドラマになりやすいのだ。
 
厄介なことだが、この国で障害者の問題をテーマにするとき、ヒューマンドラマの「感動譚」に収斂されるような作品が作られやすいという空気がある。
 
 実話をベースにした「名もなく貧しく美しく」(1967年製作)などは、その典型である。 

ところが、本作の場合は、些(いささ)か風景が違う。
 
障害者差別の問題とは無縁な物語構成になっているのだ。
 
確かに、主人公の聾唖者(ろうあしゃ)は清掃業の助手を務め、年上の従業員に職務怠慢で叱責を受けたり、或いは、彼の友人から揶揄(やゆ)されたり、投石を受ける描写が挿入されていたが、それらは障害者差別の問題に帰趨(きすう)させる種類とは全く異なっている。 

それらはどこまでも、抱えるハンディと共存しながら普通に働き、普通に恋愛をし、そして普通に趣味を見つけ、その趣味を自分の生き甲斐(いきがい)にまでしていくという、普通の物語のカテゴリーを逸脱することがないのだ。
 
因みに、WHO(世界保健機関)が発表した国際障害分類による、障害の3つのレベルとは、「機能・形態障害」、「能力低下」、「社会的不利」(ハンディキャップ)。
 
本作の主人公が、物語の中で(こうむ)った障害のレベルは、サーフィン大会の際、聾唖のためアナウンス音が聞きとれず、あえなく失格となってしまったエピソードに象徴されるように、「社会的不利」のレベルの範疇に収斂される何かであって、それ以外ではなかった。
 
本作の主人公の名は、茂。
 
その茂が確保した趣味とは、ゴミ集積所で見つけたサーフボードを少し手直しして、「素人サーファー」を立ち上げていくことだった。
 
その茂を支える恋人の名は、貴子。
 
映像では、一度も名前を呼ばれたことはない。
 
二人とも聾唖者であるが故に、ここでは、「台詞なき世界」が紺碧(こんぺき)の海の風景の只中で開かれていくのだ。
 
茂と貴子の関係が、濃密な恋人同士の関係であるということは、観る者に容易に想像できる。 長尺のサーフボードのため、バスに乗車できなかった茂が、乗車できた貴子との物理的距離を縮めるために、次のバス停で降りた彼女と、その彼女を追い駆ける茂との全き接触のためのランニングシーン。
 
些か物語的な臭さが気になるが、印象深いシーンだった。
 
夜の路上で、ようやく物理的距離を縮めた二人は、じっと見つめ合った後、肩を組んで仲良く帰路に就く。
 
このシーンに象徴されるように、二人の間には、「性愛」の関係にまで踏み入っていることが容易に想像できるが、一貫して北野武監督は、性愛描写を削り落していた。
 
「そんなことは想像すれば分るだろう」
 
そう言うに違いない、作り手の作家精神が伝わってくるようだ。
 
普通に生き、普通に恋愛し、普通に趣味に興じる二人の聾唖者の物語に、差別の問題が媒介する余地がないとは到底思えないが、それもまた、「想像すれば分るだろう」という一言で片づけられそうだ。
 
北野武監督は、確信的に、それらの意味のない描写を切り捨てて、物語として成立するギリギリの辺りで、二人の聾唖者の世界の中枢に肉薄していったのである。
 
まさに、「台詞なき世界」の映像の立ち上げこそが、その本来的目的であったかのように。
 


人生論的映画評論・続あの夏、いちばん静かな海。('91) 北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>よりhttps://zilgz.blogspot.com/2019/07/91.html