「その日」限定の時間を大切に生きる純愛譚の威力 映画「静かな雨」('19)

1  純愛譚の初発点

 

 

 

古い一軒家で、一人暮らしをする行助(ゆきすけ)は、不自由な左足を引き摺りながら、自炊し、バスで勤務先の大学の研究室へ通う。

 

行助の楽しみは、露天の骨董品屋で見つけた気に入った物を買い、たい焼き屋の香ばしいたい焼きを食べること。

 

この日も、大学からの帰り道にたい焼き屋に寄ると、酔っぱらいの客が若い女店主・こよみに話しかけていた。

 

よろけて招き猫の置物を落として割り、尻もちをつく客を、こよみと行助が起き上がらせると、酔っぱらいは自転車を次々に蹴飛ばして倒していった。

 

こよみが叱り飛ばし、酔っぱらいを退散させる。

 

「強いですね」と行助。

 

行助は骨董品屋で招き猫の置物を買い、たい焼き屋へ届けた。

 

「どうしてこんなに美味しいんですか?たい焼き。ちょっと、今までに食べたことないくらい美味しかったから」

「腕によりをかけるの。最初は全然上手くいかなかったんだから…あれこれ試行錯誤して、でも結局は、一生懸命作るだけ。魔法なんてないから」

 

そして、お互いの名前の書き方や、行助の名前の由来の話などをする。

 

「行(ゆき)さんは、いっぱい愛されて育ってきたんだね」

「そうなのかなぁ。母が小学校に上がる頃に死んじゃったから、話は姉に聞いたんだけどね」

 

帰りが遅くなり、たい焼き屋は店を閉めるところだった。

 

焦げて売れ残ったたい焼きを、ベンチに並んで座って食べる二人。

 

翌日、研究室の仕事が早く終わり、こよみの店へ行くと準備中だった。

 

町を歩いていくと、こよみがコンビニの前で、先日の酔っぱらいの男が酒を買っているのを見ていた。

 

一緒に酔っぱらいの後をつけ、公園で休んでいるのを遠くで見て、二人は観察して想像したことなど、他愛の話をする。

 

初めてのささやかなデートである。

 

「何の話?これ」

「…世界の話…あの人のことが知れて良かったって話かな」

 

二人は、石段のところで別れていく。

 

「今日はありがとう。楽しかった」

「じゃあ」

 

石段を上り始めたこよみを呼び止め、行助は電話番号を書いたメモを渡す。

 

こよみは、行助の額にそっとキスをする。

 

こよみの後ろ姿を見送り、しばらく立ち竦む行助は、降り出した静かな雨の中で、一歩一歩石段を上る。

 

ふと空を見ると、満月が輝いていた。

 

その夜、行助が待ち望んでていた携帯が鳴った。

 

こよみの事故を知らせる電話だった。

 

病院へ行くと、医者から「意識が戻ったとしても、何らかの障害が残る可能性があります」と説明を受け、衝撃を隠せない行助。

 

病室には、こよみの母親が来ていた。

 

行助をこよみの彼氏と決めつけ、「ちゃんとしたってな。面倒看たってね」と一方的に言い放ち、何かあったら連絡するようにと、名刺を渡して帰って行く。

 

気持ちが沈むばかりの行助。

 

「僕は毎日、つまらないよ。お腹も空かない。たい焼き屋が閉まっていて、何を食べても味がしない。肩は凝るし、洗濯物は溜まるし、よく眠れない。もう少し、親しければ、色々できたかも知れないのに、目を覚まさないまま、もう2週間が過ぎたんだよ。何かしてあげられることはあるのかな。何か、してもらいたいことはないかい?僕は、こよみさんのことを、何にも知らなかったんだな」(モノローグ)

 

こよみの病室で、その日も黙々と付き添っている行助。

 

「行(ゆき)さん」

 

こよみが目を覚まし、病室から帰ろうとする行助の名を呼んだのだ。

 

「大丈夫?」

「雨、上がったんだね」

 

最後に別れた日のことを言ってるのだ。

 

担当医の言葉。

 

「古い記憶はしっかりしてます。ただ今のところ、残念ながら、新しい記憶は残らない可能性があります。短い時間しか、新しい記憶を留めておけないようです」

 

退院したこよみに付き添い、家まで送る行助。

 

新しい記憶を持ち得ないこよみから電話があり、行助が行くと、石段の途中のベンチに座っていた。

 

「あの日は雨が降っていたのに、月が出てたね」

「そう。それがとっても綺麗だったから、もう一度見に行ったの」

 

短い沈黙の後、行助は自分の思いを表現する。

 

「こよみさん。僕の家に引っ越して来ませんか?」

 

場面展開は早く、テンポがいい。

 

薄暗い家にこよみを上がらせ、コーヒーを沸かす行助。

 

行助は最初から、こよみの部屋を用意していた。

 

こよみはアパートを引き払い、行助の家へ引っ越して来ることになる。

 

ここから、二人の共同生活が開かれるのだ。

 

それは、障害を持つ二人の純愛譚の初発点だった。

 

 

人生論的映画評論・続: 「その日」限定の時間を大切に生きる純愛譚の威力 映画「静かな雨」('19)  中川龍太郎 より

後追い死に最近接する青春を掬い切った燃える赤  映画「走れ、絶望に追いつかれない速さで」('15)

1  赤く染まる大海原と、地平線を昇って輝く朝日

 

 

 

断崖絶壁の先端に立ち、タバコを吸い、真下の海を見て、後ずさりする男の後姿。

 

「さらば!薫君♡」と書かれた寄せ書きが張られ、就職先の大阪へ旅立つ葛西薫(かさいかおる)の送別の飲み会に集う学生たちの様子が、スマホの動画に撮られていく。

 

その後、自殺した薫の一周忌の集まりに参加した大学時代の友人で、薫とルームシェアしていた村上漣(れん)は、今も薫の自死のトラウマを引き摺っている。

 

漣は薫の兄から、薫が最後に描き残したという絵を渡され、そこに描かれた女性が、中学時代に北陸に住んでいた時の同級生、斉木環奈(さいきかんな)であると知らされる。

 

留年して、大学を中退した漣は製鉄工場に勤めているが、休みを取って、斉木環奈に会いに富山へ行くことにした。

 

漣は、薫が大阪に行く前に別れた理沙子と会い、富山行きを誘うが断られる。

 

回想シーン。

 

二段ベッドの上段で、女性のデッサンを描く薫。

 

【このデッサンが薫の兄から渡された絵であることが、のちに判然とする】

 

帰宅した漣と飲み始めるが、二人で街に繰り出していく。

 

漣に「ヨリを戻せ」と言われた薫は、別れた理沙子に公衆電話で電話をかけることになるが、相手にされなかった。

 

ナンパした女性たちにも店で逃げられ、二人は夜の街を彷徨する。

 

「お前、本当に社会人になれるのかよ?」と漣。

「…その先でしょ…何するよ」と薫。

「ラジオで対談とか…あと、ベタに起業な」

「お前、商売できなさそう」

 

二人で笑い合った後、薫は立ち上り、ふらつく足で歩き出す。

 

「まあさ、絶望に追いつかれない速さで走れってことなんじゃねぇの。お互いにさ」

 

終電に間に合わなかった二人は、辿り着いたビルの屋上で、朝日に照らされながら語り合う。

 

「俺たち、もう22だぜ…」

「いつからだっけ?」

「大阪?研修は3月から」

「お前も、もう一年大学にいればいいんだよ」

「寂しいの?」

「絵とかさ、真剣にやってみりゃいいじゃん」

「一番好きなことは、仕事にすべきじゃないんだ。俺は機械みたいに働きてぇんだよ。将来、何か一緒にできたらいいな」

 

その時、朝日の方を差して、薫が叫ぶ。

 

「ムササビみたいなやつ」を見たと言う薫は、飛ぶ鳥のように両手を広げ、屋上を走り回るのだ。

 

現在。

 

理沙子が漣の家を訪ねて来た。

 

漣は、薫とシェアしていたアパートに未だに住んでいる。

 

理沙子は、薫が使っていた二段ベッドの上段に上がる。

 

「あたし、嫉妬してたんだよ。会ってもいつも、漣の話ばかりだから…」

 

結局、理沙子も一緒に富山へ行くことになった。

 

夜通し、レンタカーで走り抜いて、薫が自殺した日本海の断崖絶壁に二人は座り、それぞれに薫への思いを馳せていた。

 

その時、理沙子が突然泣き出した。

 

「俺はさ、むしろ理沙子に嫉妬してたよ。あいつ、お前と付き合ってから構ってくんないからさ」

「バカじゃないの」

 

理沙子が笑いながら答えた。

 

海岸を歩いていると、凧揚げをしている子供たちがいて、二人も凧揚げをしてみる。

 

声をかけてきた少女の家の旅館に、二人は泊ることになった。

 

その旅館こそ、薫が泊った旅館だった。

 

付き合っている彼から電話を受けた理沙子は、明日の朝の電車で帰ると言う。

 

「やっぱ、今更あいつの初恋の人に会ったって、しょうがないでしょ。これ以上、あいつに振り回されるの、癪(しゃく)だし」

「何で、来たの?」

「…分かんないよ。そんなこと」

「自分が別れたせいでって、思いたくないから」

「自分はどうしたいの?あんな近くにいたのに…自分こそ、会ってどうしたいの?会ったら、何か変わんの?」

「せめて憎んでいてくれたら、俺のこと。自分とはなんも関係なく死なれたって方が、しんどい…本当は、どんな奴だったんだろうな」

 

翌朝、理沙子は東京へ向かう駅のホームから、線路の向かい側で見送る漣に叫ぶ。

 

「死ぬんじゃねえぞ、バカ野郎!」

 

笑顔で手を振って返す漣。

 

漣の「斉木環奈」探しが始まった。

 

環奈がホステスをしている富山のクラブを訪れ、彼女を指名する。

 

席に着いた環奈に、薫の死を伝えた後、薫が環奈を描いた絵を見せる。

 

「あいつが最後に描いた絵だそうです」

「わざわざ、これを?」

「はい」

「期待はずれだったでしょ」

「いや」

「自分の問題は、自分で解決してもらってもいいかな?まあさ、絶望に追いつかれない速さで走れってことじゃないかな」

「走れ、絶望に追いつかれない速さで」

「何、知ってんの?」

「薫が自分に…あなたの言葉だったんですか?」

 

環奈は笑い出し、自分が中学の時にハマっていたビジュアル系バンドの歌詞だと答える。

 

「歌ってあげましょうか」という環奈の言葉を耳にして、無言で金を置いて店を出る漣。

 

漣は再び、薫が自殺した断崖を上り、海を見つめ、煩悶する。

 

携帯で電話を掛けるが、留守電だった。

 

その携帯を崖に叩き、海に投げ捨てるのだ。

 

背後から漣の様子を見ていた旅館の主人に、温かい食事を振舞われた漣は、黙々と食べ続けながら、涙が止まらず嗚咽する。

 

その傍らで、無言で茶を飲む主人。

 

漣は深々と頭を下げ、礼をする。

 

その時だった。

 

食堂に飾ってある一枚の絵が、漣の目に留まった。

 

それは、この旅館に泊まった薫が描いた「朝日」の絵だった。

 

薫が最後に描いたのは、この旅館に残した絵だったのだ。

 

東京に戻り、工場の仕事に精を出す漣には、生気が漲(みなぎ)っていた。

 

仕事で、山道を走るトラックの荷台に寝転んでいた漣は、鳥のように翼を広げて大空を舞う物体を目にする。

 

先輩に車を止めてもらい、物体を追い駆けると、そこはパラグライダーの訓練場だった。

 

薫もムササビのようなパラグライダーを見たに違いない。

 

そう思ったのだろう。

 

旅館の少女からもらった薫の絵を、既に送っていた美沙子に電話をした漣は、その絵を美沙子が見たことを確認する。

 

そして、疎遠だった父にも電話を掛けた。

 

漣は、薫の兄の家を訪ね、生まれたばかりの赤ちゃんを抱いて慈しむ。

 

更に、漣はパラグライダーの練習を始め、薫と暮らしていたアパートの荷物をまとめ、引き払うことにした。

 

再び漣は、薫との記憶と共に、彼が朝日に向かってダイブした断崖絶壁を目指すのだ。

 

赤く染まる大海原と、地平線を昇って輝く朝日。

 

理沙子もまた、大海原の地平線の上に輝く朝日に向かい、両手を広げて飛ぶ自身の姿を描いた薫の絵を見つめている。

 

ラスト。

 

漣は薫と同じように、朝日に向かってパラグライダーで飛んで行くのである。

 

  

人生論的映画評論・続: 後追い死に最近接する青春を掬い切った燃える赤  映画「走れ、絶望に追いつかれない速さで」('15)  中川龍太郎 より

蒼然たる暮色に閉ざされながらも、〈今〉を生きる母と子の物語 映画「梅切らぬバカ」('21)  

1  「このまま、共倒れになっちゃうのかね…やっぱり、母ちゃんと一緒の方がいいよね?」

 

 

 

庭で母・山田珠子(たまこ)に髪を切ってもらっている、息子の忠男(愛称・チュウさん)。

 

ハサミを入れる度に怯(おび)えて反応する忠男だが、隣の家に荷物を運ぶ引っ越し業者に気を取られている。

 

その業者は、珠子の敷地から通路に伸びた梅の木の枝が邪魔で、転倒して荷物を散乱させてしまう。

 

「あれ、どうにかして欲しいよな」

 

梅の木を指差して、隣に引っ越して来た里村茂(以下、茂)が妻・英子(えいこ)に文句を言う。

 

目覚まし時計が鳴り、「6時45分」と言いながら飛び起きる忠男。

 

数分単位の時間を気にしながら、朝の支度をするのだ。

 

珠子に言われ、30回数えながらを朝ご飯を食べ、電動カミソリで髭を剃ってもらい、歯磨きをする。

 

全て決まった時刻通り、規則正しく事を運んでいく忠男は、もうすぐ50歳になる自閉症者である。

 

一方、隣家の茂は、登校初日の草太(そうた)と共に家を出ると、家から出て来た忠男に挨拶をするが、目を合わせることなくスルーされる。

 

「なんだ、あいつ」

 

不審がる茂だったが、英子に頼まれたゴミを出すので、草太に言われ、忠男のゴミ出しに後からついて行く。

 

ゴミ捨て場で、茂が捨てたゴミ袋を忠男が取り出し、中身を確かめようとする。

 

すると、自治会長がやって来て、中に燃えないゴミがあることを指摘された茂。

 

「お隣さんでしょ?うまくやっていけそう?」

 

自治会長に訊ねられた茂は、「特に付き合うつもりもないし」と答えるのみ。

 

忠男は道すがらの乗馬クラブで、いつものように「ヒヒヒヒ~ン」と声をかけ、ポニー(小形の馬)を驚かしてしまう。

 

そのポニーを「怖かったね」と言って撫でながら、忠男を牽制するオーナーの今井。

 

忠男が向かった先は福祉作業所で、そこで箱作りの作業をしているのだ。

 

英子が珠子に引っ越しの挨拶に訪れると、外に女性たちが順番待ちをしていた。

 

珠子はカリスマ占い師。

 

仕方なく英子も順番を待ち、初めて燐家に上がり、珠子に挨拶を終えると、帰り際に梅の木が危ないと伝え、了解する珠子。

 

英子は亭主関白な夫の指示に愚痴をこぼしながら、英子は燐家を訪ねたのである。

 

一方、作業所を訪ねた珠子は、忠男の入所先のグループホームを紹介されるが、踏ん切りがつかないでいた。

 

忠男の誕生日のお祝いに、福祉作業所からケーキをプレゼントされ、家でハッピーバースデーの歌を一緒に歌い、祝う。

 

歌の途中で、立ち上がり、ろうそくを吹き消してしまう忠男。

 

電気をつけると、忠男は呻き、ぎっくり腰で動けなくなってしまった。

 

珠子が巨体の忠男を抱えて歩こうとするが、二人で畳の上に倒れ込んでしまう。

 

「このまま、共倒れになっちゃうのかね…チュウさん、ここ離れて、暮らせる?…やっぱり、母ちゃんと一緒の方がいいよね?チュウさん、どうしたいの?」

「お嫁さん…」

「お嫁さん、もらう?」

「もらいます」

「チュウさん、前からお嫁さんもらうって言ってたね。母ちゃんが一緒にいたんじゃ邪魔だね」

「はい」

 

呆気なかった。

 

ぎっくり腰が治り切らない忠男と珠子は、互いに杖をついて、入所するグループホームの部屋を見にやって来た。

 

前の入所者は地域でのトラブルで退居したと聞いた珠子は、地域の説明会に出席することにした。

 

赤ん坊を叩かれたという住人は、叩いた退居者が泣き声を聞くとパニックになるからと説明を受けるが、納得できない。

 

その入所者が既に退去したと聞き、「当然だ」と言う乗馬クラブのオーナーの今井。

 

他にも、土地の価値が下がるのを心配だと言う隣人もいる。

 

「何も、こんな住宅街で運営しなくても。もっと離れたとこに行けば、いくらだって…」

 

今井の意見を聞いた珠子は、そこで口を挟む。

 

「あんた、通いづらいところに移転できる?あたしだってさ、通いやすいこのホームがいいわけさ」

 

この物言いに反発する今井は、監視を徹底するように求めただけで、何も解決し得ないまま、時を浪費するばかりだった。

 

珠子が帰って来ると、茂が大声で叱りつけながら、忠男を家から追い出すのだ。

 

「不法侵入だよ!次、入ったら警察呼ぶからな!」

 

ひたすら謝る珠子。

 

茂の怒りの矛先(ほこさき)は、忠男のみ。

 

英子が夫を諫(いさ)め、家に戻ると、草太は引っ越しの際に失くしたボールを見つけた。

 

「(隣の人=忠男が)届けてくれたのかな?」

 

草太の言葉である。

 

その草太は梅の実を拾い集め、それを珠子に届け、家に上がり込む。

 

ボールの一件もあって、忠男に対する草太の気持ちには、父のような拒絶的感情が入り込むことがなく、却って親近感が湧いてくるようだった。

 

  

人生論的映画評論・続: 蒼然たる暮色に閉ざされながらも、〈今〉を生きる母と子の物語 映画「梅切らぬバカ」('21)  和島香太郎 より

アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発(‘15)     ハンネス・ホルム

<「権力関係」・「権威と服従の関係」が自我を支配するとき、その自我の自律性はシステムが作った物語の内に従属し、融合する>

 

 

 

1  「その頃、東欧では同胞がナチスの収容所で殺されていた。私が服従実験を行うのは、そのことが頭から離れないからです」

 

 

 

1961年8月 イェール大学

 

二人の実験参加者、フレッドとジェームズが実験室に入って来た。

 

謝礼を受け取り、実験者から説明を受ける。

 

「心理学者による学習プロセスの研究で、報酬や罰の効果について調査します…今回の実験では、“学習者”は誤答すると軽い罰を受けます。罰を与えるのは“先生”です」

 

くじ引きの結果、フレッドが先生で、ジェームズは学習者の役割が与えられた。

 

その様子をマジックミラー越しに観察する人物がいる。

 

スタンレー・ミルグラム博士である。

 

フレッドが単語を言い、ペアとなる単語をジェームスが4択の中から答え、不正解の場合、フレッドが電撃発生器のスイッチを押して電気ショックを与えるという手順の実験が、これから始まろうとしている。

 

ジェームズは、重症ではないが心臓の病気を持っていることを告げ、危険性について質問した。

 

「かなり痛いでしょうが、後に残る器官損傷はない」

 

かくて、二人は相手の姿が見えない隣の部屋に別れ、実験が始まった。

 

その前に、電気ショックのサンプルとして、フレッドにも体験してもらった。

 

かなりの痛みで、それをフレッドは195ボルトだと質問に答えたが、実験者は45ボルトであると説明する。

 

フレッドの背後に座る実験者からルールを指示され、テストがスタートした。

 

「学習者が誤答するたび、電撃レベルを1つ上げます。正確に実行してください」

 

不正解で、90ボルトのスイッチが押された。

 

そこで、ジェームズの小さな呻き声が上がった。

 

それを聞いたジェームズは後ろを振り返るが、実験者は無反応だった。

 

次にまた不正解となり、120ボルトのスイッチを押すと、またジェームズの呻き声。

 

更に不正解で135ボルトのスイッチを押し、呻き声を聞くと、再び後ろを振り返るが、特に反応はない。

 

またも不正解で150ボルトを押すと、「痛い!」という声が発せられた。

 

そして、165ボルトまで上げた時、「出してくれ!心臓病なんだから。もう実験には協力しない」とジェームズが叫んだ。

 

フレッドの顔色も変わり、実験者を振り返ったが、続けるように促された。

 

「彼はイヤだと言ってる」

「それでも、すべて正解するまで続けなければなりません。続けてください」

 

戸惑いを見せたが、「落ち着いて、集中しなさい」とジェームズに声をかけ、実験を続けるフレッド。

 

「不正解です。180ボルト」

「耐えられない!」

 

ここで、観察していたミルグラムの独白。

 

「彼も最後まで続けた」

 

また別の被験者は、375ボルトのスイッチを拳で叩き、思わず笑みを零す。

 

「ここから出してくれ!」と呻き声を上げているのは、フレッドの時の学習者役だったジェームズ。

 

ここで、先生役だけが被験者であることが判然とする。

 

ジェームズはスイッチを押される度に、テープレコーダーの声を流すだけなのだった。

 

最高値の450ボルトを押した別の被検者は、「同じスイッチで続けて」と実験者に指示されるが、相手が無反応なので不安になり、死んでいるかも知れないと、隣の様子を見て来るように訴える。

 

しかし、実験者の強い指示で、再び450ボルトのスイッチを押し続ける。

 

実験が終了し、ミルグラムが部屋に入り、被験者に質問する。

 

「学習者に電撃を与えたのは、なぜですか?」

「俺は途中でやめたかった。彼が叫んでたからね」

「痛そうだった?」

「ああ」

「やめてほしいと?」

「そうだ」

「彼には中止する権利が?」

「どうかな」

「その時点で、やめなかった理由は?」

「続けろと言われたからだ」

「苦しむ人の頼みは聞かずに?」

「実験を続ける責任があるし、誰も止めなかった」

「彼は頼んでいた」

「確かにそうだが、彼は被験者だからさ」

「それでは誰が…彼が電撃を受けた責任は誰に?」

「さあね」

 

そこで、隣の部屋からジェームズがやって来た。

 

「ちょっと怖くなって、ご心配をかけた」

 

そして、実験者が説明する。

 

「この電撃発生器は、マウスやラッドなど小動物の実験用です。ボルトの数の表示は偽物です。実際には、あなたが体験した電撃より、少しだけ強い程度です」

 

ジェームズに向かって被験者が声をかけた。

 

「大丈夫か?」

「ああ、元気だよ。恨みはない。私でも同じことをする」

 

また別の被験者に、ミルグラムが説明する。

 

「他人に苦痛を与える際の反応を研究しています。命令に従う心理の実験です…どうか、ご理解ください。自然な反応を見たかったのです。報告書を受け取るまで、誰かに話さないように。その人が被験者になる可能性がある」

 

ここでミルグラムは、観る者に向かって、1933年にユダヤ人の移民の子としてブルックリンに生まれたと語りかける。

 

「その頃、東欧では同胞がナチスの収容所で殺されていた。私が服従実験を行うのは、そのことが頭から離れないからです。文明化した人間が、どうして残虐行為に走るのか。組織的な大虐殺は、どのように起きたか。加害者たちの良心は働かないのか」(独白)

 

その頃、パーティーで知り合ったサシャと結ばれ、彼女もミルグラムの実験室にやって来て、共に実験内容を観察し、生涯、彼の研究の良き理解者となっていく。

 

更に実験は続くが、一人だけ明確に拒否する被験者がいた。

 

彼はオランダ人の電気技師で、高電圧の苦痛をよく知っているからだった。

 

彼は極めて例外的だとミルグラムは言う。

 

「どの精神科医も心理学者も、最後までやる人などいないと言った…どんな職業の人も、最後まで電撃を加える」

 

その後も被検者が学習者に直接電撃を与えり、女性を被験者にしたりなどパターンを変えて実験したが、結果は殆ど同じで、被検者は最後の450ボルトまで実行した。

 

「悪意ある権力の命令に服従して、市民に残虐行為を加えるような人間性は、アメリカ社会と無縁ではないのです…最後の2日間は実験を録画した。1962年5月26日と27日です。4日後、エルサレムで、アイヒマンが絞首刑に。ホロコーストの責任者、アイヒマンは、ユダヤ人の国外追放や、大虐殺に関与。戦後、アルゼンチンに逃亡した…モサドによって、1960年に拘束された」(独白)

 

その裁判をテレビで見るミルグラムとサシャ。

 

アイヒマンは罪悪感も後悔の念も示さなかった。ユダヤ人の移送は任務で、上官の命令がなければ、何も行わなかったと述べた」(独白)

 

是を以て(これをもって)、「服従実験」は完了するに至る。

 

 

人生論的映画評論・続: アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発(‘15)     ハンネス・ホルム より

最も苛酷な時代に真実の報道の姿勢を貫き、散っていった勇敢なジャーナリスト、その生きざま 映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」('19) 

1  憤怒を炸裂し、ウクライナで見た現実を突きつける男

 

 

 

1933年。

 

英国のロイド・ジョージ首相の外交顧問を務めるガレス・ジョーンズ(以下、ジョーンズ)は、ヒトラー専用機に乗り込み、本人にインタビューした際に鮮烈なインプレッションを受け、「次の世界大戦は始まってます」と熱弁を振るうが、政府の閣僚たちは、国内問題だと相手にしない。

 

世界恐慌の予算削減を口実にジョーンズは解雇され、今はフリーランスの記者となっている。

 

彼の関心は、大恐慌の中で繁栄を維持するソ連スターリン体制の資金源を突き止めること。

 

ジョーンズは、スターリンへのインタビューの実現を目指してモスクワ行きを決行する。

 

出発前にモスクワにいる友人の記者、ポール・クレブ(以下、ポール)に電話をかけ、スターリンに会いたい旨を伝えると、ニューヨーク・タイムズのモスクワ支局長、ウォルター・デュランティ(以下、デュランティ)を紹介された。

 

「私は今、好ましくない人物でね。それより大きな情報をつかんだんだ。想像以上に厄介な状況だぞ」

 

ポールがそう話した途端、回線が切れてしまった。

 

モスクワに到着したジョーンズは、早速、デュランティに面会するが、ジョーンズの問題意識を歯牙(しが)にもかけず、スルーする。

 

そこで、ポールが強盗に襲われ、死んだことを聞かされるのだ。

 

デュランティの自宅での記者たちの乱痴気パーティーに出席したジョーンズは、アヘン窟と化した宴の退廃ぶりにウンザリし、帰宅するところで原稿を届けに来た同支局の女性記者、エイダと話し、ポールの知り合いであることを知る。

 

翌朝、二泊三日限定のモスクワ滞在の監視付きのジョーンズはエイダの家を訪ね、ポールについての重要な情報を聞き出す。

 

「ポールは恐れていたの…ウクライナ

スターリンの金脈?記者たちは行けないんじゃ」

「行こうとして撃たれたの」

 

エイダに帰国を促されたジョーンズだったが、肩書を外交顧問と偽り、ハリコフの兵器工場の見学のために、ウクライナ行きの手筈(てはず)を当局から引き出し、整えるに至る。

 

出発前に、エイダからポールから預かった、ウクライナの予定訪問先のメモを受け取った。

 

「父は外交官で、私はベルリンで育った。あの自由と文化が溢れる街をナチスが壊したの。それも一瞬でね。だから怖い…友人たちが心配で仕方ない。共産党員が逮捕されてる。やるしかない」

「まるでスターリンの手下だ」

「私は、この大きな動きに賭けたいの」

「正しいことか?」

「他に選択肢はない…今こそ世界を、再建するチャンスなの。ソ連は人々にための未来を築こうとしている」

「友達を背後から撃った国だぞ」

「それは…この運動は個人を超越する」

「ポールの死は仕方ないと?」

 

エイダは何も答えられず、項垂(うなだ)れ、押し黙るのみ。

 

身を案じるエイダの反対を押し切って、ジョーンズは、昔、母が住んでいたウクライナへ向かった。

 

知的好奇心を持ったら、止められない性向のようである。

 

ジョーンズは、列車に同行した共産党員の目を盗み、別の古寂びた列車に乗り換えた。

 

その列車には、ジョーンズが食べる果物を凝視する飢えた人々が、押し込められたように、所狭しと座っていた。

 

スターリノ(現在のドンバスの中心都市・ドネツク)で降りたジョーンズは、早々に、雪道に俯(ふ)せた死体を目撃するが、そのまま当局に穀物を運ぶ作業に追い遣られてしまう。

 

穀物の行き先がモスクワだと聞くと、外国人のスパイだと密告され、軍人に銃を撃たれながら追い駆けられるが、ジョーンズは何とか逃げ延びた。

 

辿り着いた村で、一軒の家を訪ねるが反応はなく、中に入っていくと、老夫婦がベッドで息絶えていた。

 

村を彷徨していると、子供たちが寄って来て、映画的メッセージ含みの歌を披露するが、その隙を突くや、矢庭にジョーンズのリュックを盗み、食料を奪って逃げ去っていくのだ。

 

更に歩いて行くと、馬を曳(ひ)いて、雪の道端に横たわる死体を荷車に拾い集めている現場を目撃し、それをカメラで捉えていく。

 

食料を失ったジョーンズもまた飢えに苦しみ、樹皮を剥(は)いで、一時(いっとき)、飢えを凌(しの)ぐ。

 

一晩、体を休めた納屋に、幼い二人の子供がやって来た。

 

家に行くと姉が肉を振舞ってくれたが、それは何と、餓死した兄のものだった。

 

それを知ったジョーンズは激しく嘔吐し、再び、雪の中を歩いて進んでいく。

 

街に辿り着くと、飢えた人々が、パンの配給場所に群がり、順番を争っている。

 

「この状況は、いつから続いているんだ?」

「あなたは?」

「記者だ。ここは“黒い大地”と母が言ってた。何でも育つ肥沃な土地なはず。一体、何があったんだ?」

「私たちは彼らに…殺されてるの。数百万人が死んだ」

「そんなに?どうして?」

「男たちが来て、自然の法則を変えると言い出したの」

 

順番待ちの女性に話を聞いていたジョーンズは、突然、頭から布を被され、当局に連行されてしまう。

 

逮捕されたジョーンズは、当局のトップから、ロンドンに帰還させる代わりに、同じホテルにいた6人の英国人技師たちについては、スパイなので釈放しないと脅されるのだ。

 

ロイド・ジョージに、君が見た真実を伝えれば、技師たちは助かる…誇らしげな農民を見たかね?集団農場の効率性も感じたはず。飢饉があるというのは、単なるウワサだ。どう思う?」

「ウワサです。飢饉はない…飢饉など起きてない」

 

こうして、ジョーンズは手錠を外され、解放された。

 

そこに、デュランティが現れた。

 

「私が君を釈放させた」

「知ってたんですね?スターリンに買収された?彼らのためにウソを広める理由は?」

「君は知らんのだ。今、モスクワで記者をすることの難しさを…他者を糾弾するのが記者の仕事ではない。スターリンと会えれば、状況を変えられると信じてたんだろ?」

 

そこで怒りを抑えられないジョーンズは、ポケットから樹皮を取り出し、デュランティに突き付けた。

 

「皆、これを食べてる。メダルの横に飾れ!」

 

憤怒を炸裂し、ウクライナで見た現実を突きつけるのだ。

 

連行されるジョーンズに、デュランティは言い放つ。

 

大義を選ばざるを得ないときは、誰にでも訪れるものだ。その前では1人の人間の野望など霞むのだよ」

 

この欺瞞言辞のうちに、一切が収束されてしまうのである。

 

  

人生論的映画評論・続: 最も苛酷な時代に真実の報道の姿勢を貫き、散っていった勇敢なジャーナリスト、その生きざま 映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」('19)   アグニェシュカ・ホランド より

3人の男のボクシング人生の振れ具合を描き切った傑作 映画「BLUE/ブルー」('21) 

1  腹を括っていた男の中で、何かが壊れていく 

 

 

 

大牧ボクシングジムに所属する二人のボクサー。

 

一人は成果が出ずとも、ボクシングを愛する気持ちは変わらず、誰にでも優しく、面倒見が良い瓜田(うりた)。

 

もう一人は、才能があり、本気でチャンピオンを目指す、瓜田の後輩で親友の小川。

 

その小川の恋人で、瓜田の幼馴染でもあり、美容室に勤める千佳(ちか)は、小川のパンチドランカーの兆候を疑い、検査に行くことを勧めるよう瓜田に頼む。

 

MRIの結果、普通の人より脳の白い部分が多く、慢性的な場合、認知症のような症状になると医者に言われてしまう。

 

「その場合、ボクシング続けるのは、ちょっと難しいかな」と担当医

 

病院から出た小川は、千佳に「俺、辞めないよ」と一言。

 

再計量で、何とかパスした小川の試合の前座試合でリングに上がった瓜田は、呆気なく負けてしまう。

 

期待通り小川は勝つが、その映像は提示されない。

 

提示されたのは、又候(またぞろ)、惨めにリングに沈んでも明るく振舞う瓜田への、千佳の優しい励まし。

 

「私、格好悪くても好きだよ。瓜ちゃんが戦ってる姿」

 

負けても気落ちせず、練習に励む瓜田。

 

そんな瓜田は、勤務先の女の子の気を引くためだけに、「ボクシングやっている風」を目指す気弱な男・楢崎(ならざき)の相手となって指導している。

 

しかし、楢崎の〈現在性〉は極めてハード。

 

両親を喪い、認知症の初発点にある祖母を世話し、ゲーセンで働く彼の青春の景色は苛酷さを印象づける。

 

その楢崎に対して、ごく普通に、瓜田は穏健な態度で接する。

 

「だいぶ、上手くなりましたね。楢崎君、体力もあるし、練習量も多いから、伸びるの早いですよ」

「本当っすか」

 

満面の笑みを浮かべる楢崎。

 

本人が望まない初めてのスパーリングでボコボコにされ、ソファに横たわって泣きじゃくる楢崎に励ます瓜田。

 

「もう、二度とやりたくないです」

「良かったですよ。モーション少ないし、手応えあったんじゃないですか?」

 

その言葉を耳にして、満更でもない表情に変化した楢崎は、その後は練習に励み、スパーリングもこなしていく。

 

小川は少しずつ物忘れの症状が出たり、突然、頭痛に襲われたりするようになってきた。

 

プロテストに受かった楢崎は、職場で好きな女子店員にそれを誇示する。

 

一方、いつもバカにする楢崎と共にテストを受けて落ちた洞口(どうぐち)は、瓜田のスパーリング指導を途中で放棄する。

 

「基本身に付けたら、強くなるんですか?そういう瓜田さん、全然勝てないじゃないですか」

「まあ、俺は勝てないけど…」

「俺、勝てないボクシングとか、教わりたくないんすよね」

 

言葉を返せない瓜田。

 

洞口がスパーリングで、瓜田を圧倒したあとの会話が興味深い。

 

「瓜田さんて、一応プロじゃないですか。そのプロにこれだけパンチ当たるんだから、自分のスタイルって間違ってないと思わないですか」

「洞口はセンスあると思うし、実際、強いよ。でも、基本がないからプロテストに落ちたわけでしょ?」

「それ、おかしいっすよね。基本があれば弱くてもプロって。瓜田さん、基本しっかりしてるけど、めっちゃ弱いじゃないですか。それがプロっていうことですか?」

 

更に洞口は、二人の会話を聞いている楢崎へ指を差して、言い放つのだ。

 

あいつだって、テストの時、ビビりながら、ちょこちょこ手出してただけじゃないですか。あんなんでプロになれるなら、誰でもなれますよ」

 

その嫌味を耳にした楢崎は、洞口にスパーリングを求めたことで、早速、実現する。

 

楢崎は、的確なパンチを繰り出し、洞口をKO寸前まで追い詰めた。

 

ガードを下げて、振り回すだけの洞口に対し、楢崎は瓜田に教わった通り、あくまで基本に忠実なボクシングに徹した成果だった。

 

「いいじゃん。これだったら、いつでも試合できるよ。自信持っていいよ。俺なんかより、ずっとセンスあるし」

 

ここでも、嫌味にならない、楢崎を励ます瓜田の褒め言葉。

 

その直後、ソファに横たわっていた洞口の身体に異変が起き、救急搬送され、応急処置が取られた。

 

頭部にダメージを受けた洞口は、入院することになる。

 

瓜田に伴われ見舞いに行った楢崎は、ボクシングが出来なくなった洞口を前に何も言えず、逆に励まされるばかり。

 

病院から帰る楢崎は、自らが犯した行為に煩悶し、嗚咽を漏らすのだ。

 

片や、症状が悪化し、運輸会社の仕事で配送ミスをして謝罪することになっても、チャンピオンを目指す小川の意志は変わらない。

 

かくて、小川のタイトルマッチの日程が決まり、楢崎のデビュー戦も決まった。

 

小川は、勝ったら千佳と結婚すると瓜田に伝え、家主とのトラブルでアパートも引っ越すことになる。

 

しかし、またも小川の身体に異変が起きてしまう。

 

自転車で転倒し、意識が朦朧として、焦点が合わないのだ。

 

そんな渦中で迎えた、小川のタイトルマッチの当日。

 

前座戦で瓜田が戦った相手は、この試合がデビュー戦ではあるが、キックボクサーとしてのキャリアがあった。

 

その相手に苦戦する瓜田は、試合を弄(もてあそ)ばれた挙句、KOされてしまう。

 

担架を用意された瓜田だが、自分の足でリングから降り、次の試合の順番を待つ楢崎の肩に手を置き、左手を挙げながら消えて行った。

 

デビュー戦の楢崎は、呆気なくKOされて試合にならなかった。

 

そして、始まった小川のタイトルマッチ。

 

リング下から、瓜田が「アッパーを出せ!」と何度も声を掛ける。

 

その後ろ姿を見る千佳の目から涙が零れる。

 

小川は瓜田との練習の際に強調していた、左フックを決め、相手のダウンを誘った。

 

その左フックは、基本に拘泥する瓜田が異議を唱えていた戦略だった。

 

「お前、やっぱ凄いわ」

 

客席から瓜田は、そう呟いた。

 

腹を括っていた男の中で、何かが壊れていく。

 

小川のTKO勝ちだった。

 

大牧ボクシングジムで30年ぶりとなる、新チャンピオン(日本スーパーウェルター級)が誕生した瞬間である。

 

  

人生論的映画評論・続: 3人の男のボクシング人生の振れ具合を描き切った傑作 映画「BLUE/ブルー」('21)  𠮷田恵輔 より

護られなかった者たちへ('20)   瀬々敬久

<「歪んだ復讐劇」に「殺意の揺らぎ」を見せない者の意志の強靭さ>

 

                                                                  

【ほぼ映画の提示する時系列に沿って書いていきます。】

 

 

1  「俺もカンちゃんも、あんたに死なれたくないんだよ!生きてて欲しいんだよ!」

 

 

 

3.11から9年後、仙台市

 

それは残忍さを極める事件だった。

 

老朽化した誰も住んでいないアパートの一室で発見された男の死体は、手足を拘束され、口に粘着テープを貼られたまま、脱水状態で餓死させられていた。

 

被害者の名は三雲忠勝(みくもただかつ)。

 

三雲は健康福祉センターに勤務し、生活保護課の課長の職務を担っていた。

 

早速、県警捜査一課の笘篠(とましの)と相棒の所轄署の刑事・蓮田(はすだ)が、三雲の勤務先へ聞き取りに行く。

 

応対した所長は、三雲は「お人好しで、誰も妬まず、恨みもせず、そんな得難い管理職だった」と言い、直属の部下である丸山幹子からも、三雲が「善人」だったとの証言を引き出した。

 

笘篠は3.11で妻子を喪い、「変わり者で出世できない」と噂される中年刑事である。

 

一方、当時、笘篠が行方不明の妻子を探しに来た避難所にいた利根泰久(とねかつひさ)という男が、その後、放火事件で服役した後、仮釈で出所したところだった。

 

乳児の時に親に捨てられ、施設で育った利根は、保護司の世話で鉄工所に勤め始めた。

 

利根は今、3.11の避難所にいた頃の出来事を回想している。

 

パンの配給の順番に強引に入ろうとして殴られ、水たまりに顔を押し付けられた後、濡れたまま階段に座っていると、遠島けい(とおしまけい/以下、読みやすくするため「ケイ」と表記する)がそっとタオルを渡す。

 

「ふてくされた顔しないで」

 

いつもケイの傍にいて、震災で母を亡くした黄色いジャケットを着た女の子・カンちゃんと共に、3人は寄り添うように並んで座っていた。

 

その遺体安置所で、妻の遺体を発見した笘篠。

 

「この、腕時計を握ってました。発見場所から言って、一度沖まで流され、岸に辿り着いたんだと思います」

「腕時計は、息子のです」

 

表に出ると、妻子の幻影を見る。

 

傍らにカンちゃんがいた。

 

現在。

 

生活保護に纏(まつ)わる怨恨説で事件を追う笘篠と蓮田は、その実態を知るために、幹子に頼んで、スーパーで働いて不正受給が疑われる女のアパートの訪問に同行した。

 

「働けるなら、病気の方、治ったって診断されたりしますよ」と幹子。

「ダメですか?うつ病で、生活保護の母親の娘は、塾に行ったら!…学校で調べたらしくて、娘は虐めに…生活保護受けたら、全部、我慢しろって言うんですか!」

 

次の訪問では、高級車を所持するヤクザ風の男に対し、幹子は傍らの刑事を利して、強気の態度で捲(まく)し立てていく。

 

「求職活動して、生活保護から一日も早く卒業できるようにしてください…はっきり言いますが、あなたのように遊んで暮らしている人に、受給していた分を、そっくり他の対象者に渡してあげたいんです」

 

笘篠に止められた幹子は、きっぱりと言い切った。

 

「震災が起こってから、仙台市には県内から多くの生活困窮者が入って来ました。不正受給を放置している場合じゃないんです。本当に困っている人たちがいるんです。あの震災が、すべてを変えてしまったんです」

「そんなことは分かってる」

「分かるはずありません」

 

そう言うや、足早に去って行く幹子。

 

二人目の被害者が発見された。

 

その手口は三雲と酷似していた。

 

被害者の名は城之内猛(じょうのうちたける)。

 

仙台福祉連絡会の副理事で、清廉潔白な人格者として通っていた。

 

そして、三雲と城之内は、かつて生活支援課で、同僚として働いていたことが判明し、明確に怨恨の線で捜査を進める方針が決定される。

 

かくて、二人が生活支援を担当していた期間に、生活保護申請を却下した案件を徹底的に調べ、当時の申請者の家を訪問することになった。

 

三雲が担当窓口だったという老人の話。

 

「善人なのか、悪人なのか、のらりくらり話はぐらかすんだ。親身に聞いてる振りして」

「結局、もらえなかった?」と刑事。

「ああ、だから、こんなんだ」

 

一方、幹子は生活困窮者の老女を訪ね、生活保護の申請の説得をする。

 

「でも、世間様に迷惑をかけてるようで、申し訳なかよ」

「そんなの、間違ってます…二言目には世間に迷惑って言うけど、それは違うんだからね。これは権利なんだって。健康で文化的な最低限度の生活。それを国が援助するのは当たり前の話なの。もっと、声を上げていいんです。声を上げなくちゃダメなんです」

 

幹子は上司に報告すると、あっさりと却下された。

 

「ダメだよ、勝手にこんなことしちゃ。申請はあくまでも本人の意思なんだから。こっちから勧めてどうすんだ」

 

利根の回想シーン。

 

いつしか、避難所からカンちゃんはケイの家で泊まるようになり、そこに利根も連れていく。

 

3人は共に親類縁者がいないので、避難所でも孤立している。

 

夜、眠りに就けないカンちゃんとケイの話を聞きながら、堪(たま)らなくなり外に出た利根は、咽(むせ)び泣きながら、振り絞るように漏らした。

 

「俺も、生きててよかったのか…」

「あったりまえじゃないか」

 

後ろから抱き締めるケイの優しさが、男の中枢を溶かしていく。

 

まもなく3人は一緒に暮らし、やがて、利根は就活のために栃木へ出て行った。

 

「いってらっしゃい!」

「行ってきます」

 

照れくさそうに、笑って応える利根。

 

現在。

 

利根がカンちゃんの里子として育った家を訪ねて行くと、そこにカンちゃんは住んでいなかった。

 

郵便受けから封筒を持ち出し、印刷された児童園に電話をして、カンちゃんの所在を訊ねる利根。

 

一方、事件の捜査は遅滞なく進行していた。

 

申請却下の書類の捜査から、福祉事務所長の指示で隠蔽された案件が見つかり、その書類の提出を笘篠が迫っていく。

 

その申請者の名前にケイがあり、一緒に付き添っていた利根の名を聞き出したのである。

 

ここから、本件容疑者として利根泰久を手配することが決定し、所在確認が始まった。

 

程なくして、通報から利根を発見した笘篠と蓮田が、弾丸の雨の中、逃走する利根を追い駆けるが、見失ってしまう。

 

利根は仕事を終えて、事務所から出て来た幹子を待っていた。

 

この幹子こそが、カンちゃんだったことが明らかになる。

 

「どうして?あと2年は服役しているって」

「模範囚だったんだ」

「今は、私には私の生活がある」

「何で、あんな職場入った?そこまでして」

「救いたい。今更だって、思うかもしれないけど。だから、やってる」

「無駄だ。誰も救えない」

「利根さんこそ、止めた方がいいと思います」

 

そう言うや、幹子は去って行った。

 

回想シーン。

 

久々に、ケイたちのいる家に戻った利根。

 

道すがら、自転車に制服姿の女子学生に声を掛けられた。

 

カンちゃんだった。

 

「おかえり」

「ただいま」

 

利根は、カンちゃんを自転車の後ろに乗せ、二人は楽しそうにケイの家へ向かった。

 

すると、ケイは布団を敷いたまま横たわり、反応がない。

 

利根は、預金通帳を調べるなどして、ろくに食事も摂れていないケイの暮らしぶりを心配し、生活保護を受けることを勧める。

 

「いくら自分の生活が苦しくなったからと言って、国に面倒見てもらいだくねぇ」

「何言ってんだ。飢え死にするぞ」

「そういうことは、他人が口出しすることでねぇ」

 

ここで、利根は声を荒げる。

 

「何が他人だよ。ふざけんなよ!俺もカンちゃんも、あんたに死なれたくないんだよ!生きてて欲しいんだよ!本当の母親のように思ってるから。そんなことも分かんないのかよ」

 

二人の顔を見つめ、ケイは意を決して言った。

 

「分かったよ。行ってみる」

 

早速、利根とカンちゃんが付き添い、福祉事務所を訊ね、交渉する。

 

最初に窓口で取り次いだのは上崎岳大(かみさきたけひろ)。

 

その次に対応したのが三雲だった。

 

三雲にケイとの関係を聞かれた利根は、知り合いだと答えた。

 

「だったら、お祖母ちゃん、助けて上げられないですか…地域や社会の助け合いっていうのは、貧困解決するには一番で、生活保護なんか、そういうのに比べたら力ないんですよ」

 

それでもカンちゃんは、「申請書類を下さい」と頼むと、「本人の意思じゃないといけないんです」と言われ、三雲に返される。

 

二人に促されたケイは、明言する。

 

生活保護、申請します」

 

現在。

 

利根がケイの生活保護の申請をしたときの窓口担当が、現国会議員の上崎であることが判明した。

 

結局、生活保護の申請は通っていたが、支給されることなく、ケイは餓死してしまう。

 

それを知ったカンちゃんは、駆けつけた利根の胸に泣き崩れる。

 

二人は福祉事務所に走り、担当の三雲に怒りをぶつける。

 

三雲は、ケイが自分で取り下げたと言い張り、利根はそれを否定して、三雲の胸倉を掴むしかなかった。

 

生活保護はあくまで、本人の申請です。こちらから押し売りすることはできません。対応は問題ありませんでした」

 

そこに、城之内所長が割って入って来た。

 

「平成13年、生活保護法改正案が国会を通過し、翌年から施行されました。この改正案の主な目的は、申請の厳格化と扶養義務者への支援強化です。生活保護利用率が日本では1%台なのに対し、アメリカ、ヨーロッパでは、5から10%。そうした現状に対し、国連は日本政府へ貧困問題に関して勧告まで出してきた。そういう国に住んでるんです、我々は。君に言っても分からないだろうけど…震災では多くの人が理不尽に命を奪われた。それに比べれば、君たちの境遇には理由がある。そういうことを、よく考えてみたらどうですか?他人のせいばかりにせず!」

 

吐き捨てるように言うや、車に乗り込む城之内。

 

「死ぬ時ぐらい、人間らしく死にたい。誰かに看取(みと)られて。そういうの、もう難しいんですよ。死ぬ時は独りだから」

 

三雲もまた、利根の目を見据えて言い放ち、車を発進させていく。

 

置き去りにされた利根の眼光だけが、役所の人間を炯々(けいけい)と射ていた。

 

 

人生論的映画評論・続: 護られなかった者たちへ('20)   瀬々敬久 より