ワン・フルムーン('92) エンダヴ・エムリン <「悲劇の連鎖」が「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味>

 物語を簡単に要約すると、以下の2行で足りるだろう。

 刑務所帰りの一人の男が、少年時代に犯した犯罪、或いは、倫理的に悖(もと)ると信じる行為に対する贖罪の故に、自死に流れていく暗鬱な話である。

 その救いのなさに、僅かでも、予定調和のハッピーエンドを期待した観客は置き去りにされるかも知れない。

 しかし、一貫してサスペンスの筆致で描く物語の構成力は抜きん出ていて、且つ、ウェールズの牧歌的な風景描写の印象度は決して悪くはない。

 物語の暗鬱さにフィットさせたかのような色彩感のくすみは、陽光が柔和に差し込むシーンを削り切った描写の内に溶け込んでしまっていた。

 重苦しい曇天の続く、ウェールズ北部の小村で出来する陰惨な事件や事故を、途切れることのない伏線描写の効果を狙って巧妙に繋ぎつつ、天使が自在に羽撃(はばた)くような幻想的カットを挿入させていく映像構成の技巧は、回想シーンによって構築された本作の強みであると言えるだろう。

 本作は、刑務所帰りの男の、少年期の回想によって説明される映画であるからだ。

 従って、ここで描かれる少年時代の回想は、男にとって最も印象深い出来事であるということである。

 それ故、貧しく閉塞的な共同体社会の臭気を嗅いで生きていた少年期の内に、男の人生を決定付けた事件や振舞いに絡む出来事が様々な心象風景を描き出し、それらが時系列に沿って繋がっていくのだが、挿入されたエピソードが含意する重要な意味の読解は、それぞれが何某かの事態の伏線であることによって、常に観る者を周回遅れにしてしまうサスペンス特有のルールの縛りに搦め捕られる分だけ、些か厄介であったのも事実。

 本作が、絵解きのゲームに似た映像構成を必然化したのは、一級のサスペンスの筆致の内に、中枢の主題を貫流させる構築的な物語を嵌め込んでしまっていたからである。

 但し、回想映像のルールの常として、少年の母に代表される重要な登場人物の心理描写が、表面的且つ、アドホックで、御座なりな処理で片づけられてしまう瑕疵は避けがたかったと言えるだろう。

 然るに、中枢の主題への筆致には、一貫してブレがない。

 だから観る者は、一見、アトランダムに見える、この回想のシーンの唐突の挿入の意味をフォローしながら、映像の本質を探っていくことが求められる。
 
 その意味で些か苛立ちを覚えさせる映画になったが、その疲弊感は決して心地悪いものではなかった。

 なぜなら、物語展開の読解自体、全く難解なものではなく、抒情に充ちたBGMの後押しを受け、ドストエフスキーのそれには及ばないが、熟読した後の純文学の感傷にも似た深い共感的感情が出来したのは事実である。

 映像を通して訴えかける力感の内に、観る者の感性を突き抜く尖りを隠し込んでいたからだ。


(人生論的映画評論/ワン・フルムーン('92) エンダヴ・エムリン  <「悲劇の連鎖」が「贖罪の物語」の内に自己完結する映像の凄味>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/92.html