川の底からこんにちは('09) 石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>

 本作のヒロインである佐和子は、自分は「中の下」であるという「ネガティブな自己像」で固めていた。

 高度成長期の根拠の希薄な中流幻想とは異なって、「中の下」であるという、極めてリアルな把握自体、特段に問題ないが、佐和子の場合、そこに自虐的とも思える諦念が張り付いてしまっていたのである。

 具体的に言えば、転々して、5つ目の職場の派遣社員であると同時に、故郷から駆け落ちした18歳以来、既に4人の男に捨てられて、5人目の現在は、女房に逃げられた、セーター編みを趣味とする、子持ちの女々しい男を彼氏にしているという「妥協の産物」。

 このような経験則の中で固められた自己像は、彼女にとって、不毛な上昇志向を寸止めにする、一種の有効な自己防衛戦略であったと言っていい。

 ところが、有効な自己防衛網を巡らしたヒロインが、彼女の叔父(父の弟)によって、半ば強制的に、「ネガティブな状況」に持っていかれてしまったのだ。

 一度は捨てた故郷で、シジミ工場を経営する父の入院という由々しき現実が、彼女をして、女性中心の工場の従業員たちからモテモテの、父の不在のシジミ工場の再建のために帰郷せざるを得なくなり、有無を言わさず、その状況に捕捉されてしまったのである。
  
 「尊敬すべき父親を捨てて、東京に駆け落ちした性悪女」

 このラベリングが、帰郷した佐和子を包囲し、性悪女を冷眼視する視線が職場の空気を、一層、険悪なものにしていくのだ。

 佐和子にとって、ある種、自己防衛戦略的な「ネガティブな自己像」を繋いできただけの青春の軽量感が、「ネガティブな状況」に捕捉されることで、否が応でも、彼女の内側に「二重課題」の負荷を受けるに至ったのである。

 「二重課題」とは、単に、彼女を捕捉した「ネガティブな状況」が分娩する心理的不安感に留まらず、彼女の自我のうちに不必要な観念が形成されたことで、これが厄介な克服課題と化した現象を言う。

 不必要な観念とは、「工場を再生させなければならない」という、言わば、断崖を背にした者の過剰な使命感のみならず、同時に、ほぼ同質の重量感を乗せて、「この仕事は失敗するだろう」という相反する観念のことで、これらが彼女の自我のうちに共存してしまったのだ。

 後者の場合は、明らかに、自己防衛戦略を駆使して仮構した彼女の「ネガティブな自己像」が、殆ど問題なく推移してきた、これまでの、実質「損得ゼロ」に近い、ダメージ・コントロールの固有のプロセスの中に、リアルな絶対課題が侵入してきてしまったことを意味する。

 彼女を侵蝕するこの心理圧は、以下のシーンで、その苛立ちが読み取れるだろう。

 「やんなきゃ、しょうがないでしょ。自分で出したものなんだしさ。そもそも、ウチはボットン便所なんだし、あたしが撒くよ。母さんが死んだ6歳のときから、これやってんの、あたし。いいからやってよ。エコライフがしたいんでしょ」

 これは、会社を辞め、子連れで随伴して来た、恋人である健一にぶつけた佐和子の苛立ち。

 因みに、「あたしが撒くよ」と言って、「自分で出したもの」とは、佐和子自身の糞尿のこと。

 「結婚、どうするの?」と健一。
 「そういうこと、聞ける立場なの?ちょっとは私の立場、考えてくれない。もう、ここまできたら、やっていくしないんだからね」
 「ごめん」
 「ごめんじゃないよ。工場だって危ないんだから。貯金だってないし・・・」

 ざっと、こんなリアルな会話だが、その直後、一転して、佐和子の駆け落ちの件で逆襲する健一。

 「自分で罪悪感とか、負い目とかないの?」
 「あるよ。ある。ある。バカだなって思うし、自分、ダメだなって色々考えるし、だから、あんたみたいなバツイチと付き合ってるんでしょ。あんた、ダメな男。だって、あたしだって、大した女じゃないからね。悪いけど。だから、この先、あんたとやっていくって、あたし決めたの」
 「佐和ちゃん、それ、開き直り過ぎじゃない?」

 如何にも、コメディーラインの展開だった。

 
(人生論的映画評論/川の底からこんにちは('09) 石井裕也 <「深刻さ」を払拭した諦念を心理的推進力にした、「開き直りの達人」の物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/07/09.html