二人で選ぶ邦画70選

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アトランダムに選んだランキングなしの、主観的な「秀作映画」の抜粋である。
一般的に評価されている作品であっても、共に気に入った作品が前提条件ので、漏脱(ろうだつ)されている「秀作映画」が多くあるが、どこまでも、私たち夫婦の拘泥(こうでい)が強く反映された、寸評を附与した「70選」になっている。【文・ヨシオ・ササキ】
 
鍵泥棒のメソッド('12) 内田けんじ
完璧に伏線を回収する構成力と人物造形力に成就した、完成形のエンタメムービーの決定版。面白過ぎて、快哉を叫びたいほどだった。近年の邦画で、これを超えるコメディは出ないと思わせる説得力が、本作にはあった。
 
さよなら渓谷('13) 大森立嗣(おおもりたつし)
「レイプトラウマ症候群」 ―― その瞑闇(めいあん)の世界の風景の痛ましさ。この一語で説明できる映画である。伊藤詩織さんが訴える「レイプ事件」でも露わになったように、この国では、「被害者にも何らかの責任があるのでないか」という「公正世界信念」が根強くあり、「加害者」と「被害者」の問題を同次元で論じてしまう観念が、「世間」を闊歩(かっぽ)しているから厄介なのだ。それが「セカンドレイブ」として膨張し、「被害者」をPTSDの状態に押し込んでしまうのである。この映画は、「レイプトラウマ症候群」の極限的な風景の凄惨さを描き切った秀作である。
 
流れる('56) 成瀬巳喜男
柳橋芸者のシビアな現実を、淡々と、しかし残酷に描き切った成瀬映画最高到達点。栗島すみ子の圧倒的存在感と、山田五十鈴の色気と優しさが本線のコアとなって、完璧な作品に仕上げた成瀬の演出力が冴えわたる。
 
隠し剣鬼の爪('04) 山田洋次
テレビ時代劇に見られるような、権力を笠に着て藩の政治を牛耳る悪徳家老と、嫁を死ぬまで酷使する商家の鬼姑という、典型的な「悪」を設定することで、さして強そうにも見えない、人情深い青年武士の「スーパーマンもどき」と、自分の本音を隠し、好きな男の命令に殉じる、万事控えめな日本女性という、極めつけの「善」を際立たせた、典型的な勧善懲悪の映画。しかし、極めつけの「善」を象徴させた、後者の二人の「純愛譚」のピュアな絡みをベースにしたためか、この作り手特有の説教臭さが、相当程度、希釈化されていていたことによって、観る者に感情移入をナチュラルに導く人物造形のシンプリズムが功を奏し、ふんだんのユーモアで包み込んだ、ヒューマニズム基調の「娯楽時代劇」の逸品と言っていい作品に仕上がっていた。
 
越後つついし親不知('64) 今井正
厳しい北陸の雪深い風土を背景に、杜氏(とうじ=日本酒の造り手)の妻の悲哀が極まったとき、救いなき物語は閉じていく。水上勉の原作をベースに、人間の「業」の深さを描き切った名画。
 
生きるための戦争が、銀座の街の其処彼処(そこかしこ)で炸裂する。そこで演じられる世界は、階段を上り切ったその先の空間にあった。高峰秀子は、そこで己を捨てて、「マダム」という記号を完璧に演じ切るのだ。甲斐性のない貧しい実家を扶助するために。
 
一人の女性の僅か4日間の、深々と内側を抉っていくような、痛切で苛酷なる自己葛藤。この作品は、自分だけが生き残った罪悪感=「サバイバーズ・ギルト」に煩悶し、自己克服する魂の、そのシビアな軌跡を痛烈に映し出した人間ドラマの傑作。ヒロインを演じた宮沢りえが素晴らしい。
 
鬼畜('78) 野村芳太郎
「現在の邦画界の映像文化の薄気味悪さ」の中からでは、殆ど届き得ないであろう、「展開と描写のリアリズム」によって貫徹された秀逸な人間ドラマ。「子殺し」という、おどろおどろしいテーマを描き切った本作は、簡単に忘れてはならない作品である。
 
「親分・子分」という関係で結ばれた、「義理・人情」を基本モチーフとする「任侠ヤクザ」の虚構の美学を根柢的に削り取って、シノギと面子に関わる確執によって、その権力関係内部の爛れ切った抗争の裸形の様態を、徹底したリアリズムで描き切った奇跡的な傑作。
 
逝去してまもない加藤剛演じる主人公に、血族に流れる〈死〉の呪いの〈過去〉によって血族が裂かれ、バラバラにされていく〈遠心力〉という名状し難い力学が、〈現在〉を呼吸する自我を食(は)むほどに捕捉していて、この冥闇(めいあん)の闇からの脱出を渇望し、その延長上に出会った「至高」の「純愛」(純愛=恋愛幻想の初発の様態)の中で、限りなく浄化していく時間を作り出していく。
 


心の風景  「道理を超えた矛盾と齟齬を描き切った、「掟」と「掟」の衝突の物語 」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/07/blog-post_63.html