関係の破綻

 関係は構築するのに難しく、破壊するのに造作はいらない。構築するのに要したあの厖大なエネルギーに比べて、破壊されていくときのあの余りの呆気なさに形容する言葉がない。

 この目立ったアンバランスさこそ、関係の言い知れない妙であり、或いは、真骨頂であると言えるかも知れない。関係の醍醐味は、寧ろ、形成過程のダイナミズムの中に集合していると見れば、そのアンバランスは、ある種の関係の法則的な帰結であるかのようにも思われる。

 私見によると、快楽には二種類ある。

 「達成の快楽」と、「プロセスの快楽」がそれである。

 達成感に随伴する「達成の快楽」になお届かずとも、その途上でゲームを楽しむという「プロセスの快楽」によっても、人は充分に生きられる。ギャンブルの楽しさは、寧ろ推理するプロセスそれ自身にあると言っていい。

 関係というゲームもこれに似ている。

 関係の転がし合いの中で手に入れた「プロセスの快楽」は、しばしば関係を印象的に立ち上げて、そこに遂に出会うべきして出会ったと思われるような、忘れ難い心地良さを自我に張り付けていく。この快楽が、関係を加速的にクロスさせるパワーになるのだ。

 しかし、自我を裸にしていけばいくほど、関係は違和を剥(む)き出しにして、却って自我を翻弄するのである。そのとき関係は、それぞれの自我が思うままに幻想したイメージの束であったことをシビアに告げるのである。関係が未知の領域に踏み込めば踏み込むほど、そこで消耗されるエネルギーが自我を搦(から)め捕って、その求心力を劣化させたりもする。関係の急進的展開は、関係の目眩(めくるめ)く被浴の代償として、均衡を確認しづらい自我の疲弊を累積するばかりとなるのだ。

 関係の急進的進化は、その破綻もまた急進的である。劇的であることの心地良き記憶が自我に張りつくほどに、イメージの反転が及ぼすインパクトが強くなるから、リバウンドに対する補正能力は殆ど無効となるのだろう。関係を鍛えることは、自我を鍛えること以外ではない。自我の柔化力と求心力、遠心力の微妙な均衡の様態が、関係に丸ごと反映されていくのである。

 関係の恒常性は、そこに関わる自我の恒常性それ自身である。

 安定的に築かれた関係の恒常感は、まさにその恒常感に憩うことを願う自我の、望むべき基本戦略の達成の一つでもある。しかし、それは絶対的ではないのだ。イメージの束の集合体である関係に絶対性の保証などあり得ないだろうが、その心地良いイメージを適宜に、必要に応じて堪能していれば、突発的な自壊の危機をクリアすることも不可能ではないだろう。

 急進的展開の中で、裸になった自我の暴走を抑止し得る装置の形成不全 ―― これが最も怖いのだ。関係のハードなクロスが、しばしば激甚な香りを醸し出してしまうから、本来抑制的な自我が一気に裸になって、関係の前線に喰い付いてくるのである。

 心地良さを醸し合うことによって性急となった関係は、その流れが途絶える事態への免疫が不全であり、イメージの修復に立ち往生する。関係の心地良さは、常に居心地の悪さと同居しているのである。自我は心地良さを求め過ぎて暴走し、それが手に入れられなくて、また暴走する。過剰の裏側には、いつも破綻の危機が潜んでいるのだ。だからしばしば、関係は激甚に展開し、呆気なく自壊するのである。

 それが関係の醍醐味である、と言う人もいる。特別な快楽はいらないが、ただそこに一服の安寧があればいい、と言う人もいる。それもまた、自我の欲求水準が決めるに違いない。その欲求水準に上手に折り合いが付けられれば関係は始動し、展開し、その固有の律動を縫って、永遠に未完の航跡を描き出していく。異質なる自我と共有する領域を確保せずにはいられない私たちの自我が、束の間の幻想をすら手放すことが困難になっていて、私たちの旅にいつまでも終わりが来ないのである。

 私たちは結局、そのようにしか生きられない見えない枠組みの、その僅かな余白を炙(あぶ)り出すために必要な熱量を自ら供給し、それを蕩尽できたという思いの中で果てたいのだろうか。この厄介さは測り知れないほどである。

 では、関係を構築することの難しさに比べて、関係の呆気ないほどの壊れ方は、一体どこから来るのか。勿論、ここで言う関係とは、事務的、儀礼的、形式的な類の関係ではなく、意思的、選択的、自発的な関係の文脈を指している。

 その場合、関係を創造していく能力と、それを壊していく能力との間に、目立つような落差が見られるのだろうか。前者の能力のコアが、好意感情や愛情であると言っていい。因みに私は、「能力」=「現象に反応する力」と定義しているので、人間の感情もまた能力であるということができる。

 では、関係を壊していく能力とは何か。

 それは、好意感情や愛情を一気に壊すような事態の発生によって突出してきた、破壊的な感情なのか。或いは、愛情などのプラス感情が残存しつつも、その表出の障害となるような感情が優位になって、そこでの関係状況が、相手の自我との確かなラインを寸断する何か、限りなく暴力に近い負性の過程である何かと言えるのだろうか。

 ラインの寸断が関係に不安をもたらし、それを日常化すると、関係が仮構してきたはずの物語に皹(ひび)が入り、瓦解の瞬間は唐突にやって来る。

 関係を創造する能力とは、関係を紡ぎ出す能力である。相手に対する確かな愛情が、その愛情を常に確認するための心地良い物語を分娩する。物語の強力な介在が、愛情をより強化していくのだ。愛情の継続力が、物語の継続力を保証するのである。

 ところが、愛情の継続力は絶対的ではない。

 愛情は関係の中で馴化し、物理的共存を深めることで著しく中性化されるのだ。性的要素は悉(ことごと)く砕かれていくことにもなる。馴致(じゅんち)は自我を性急に裸にするから、剥き出しの自我が空間を駆け巡るのだ。同様に、裸になった相手の自我と衝突を重ねていくのである。

 相手の存在が自らの自我の枢要な安定の根拠である限り、いかなる衝突も、早晩、中和されるだろう。しかし、衝突によるインパクトの継続的な激甚さが、それを補正的に中和していく行程を無化してしまえば、関係の崩れは性急にやって来る。関係を壊す能力が、関係を創造する能力にいつも少しずつ上回るように見えるのは、破壊の能力のその鮮烈な印象度に因ると考えられる。それは愛情の情緒性を、一瞬にして砕いてしまう破壊力を持つかのようである。
 
 
(「心の風景/関係の破綻 」より)http://www.freezilx2g.com/2008/10/blog-post_29.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)