1 意識する自己はすべて「客体としての自己」である
私たちは、日常生活で出会う様々な対象・出来事を評価している。
評価の対象には、当然のように、私たち自身も射程に入っている。
自己に対する評価 ―― そこに、私たちの自尊感情が生まれる。
「最も一般化された態度」である自尊感情とは、自己肯定感であると言っていい。
自分を価値ある存在だと感じる感覚 ―― これが自尊感情である。
「自分をできる限りポジティブに評価したい」
この欲求は、人間の殆ど普遍的欲求である。
では、人間の殆ど普遍的欲求であり、「自己に対する評価」である自尊感情における「自己」とは、一体、何か。
些か哲学的だが、重要なことなので心理学的に整理しておきたい
私たちは、様々なときに、様々な場所で、様々な「私」を意識することがある。
その「私」を意識しているのも「私」であるが、前者の「私」(意識される私)は、「客体としての自己」である。
後者の「私」(意識する私)は、「主体としての自己」である。
「客体としての自己」とは意識された内容であり、「主体としての自己」とは、その意識内容を意識するものである。
時に私たちは、「私」を意識している「私」を意識することもあるが、その場合、「主体としての自己」が「客体としての自己」として意識されたものであるから、意識する自己はすべて「客体としての自己」である。
私たちは、この「客体としての自己」として意識された「主体としての自己」を通して、或いは、他者の行動を観察することによってイメージした、その人の「主体としての自己」を手がかりにすることによって、或いは、他者によってイメージされた自らの「主体としての自己」が伝わってくることによって、自らの「主体としての自己」を捉えることができるのだ。
要するに、「客体としての自己」として捉えられない限り、「主体としての自己」が現れてこないのである。
2 自尊感情は「適応」の重要な指標である
「名誉心と虚栄心ほど混同されるものはない。しかも両者ほど区別の必要なものはない。この二つのものを区別することが人生についての智慧の少なくとも半分であるとさえいうことができる」
「人生論ノート」の中での、哲学者・三木清の言葉である。
この言葉で分かるように、三木清は「名誉心」と「虚栄心」を峻別している。
自己を対象化し、その「自己の品位についての自覚」である「名誉心」に対して、社会を対象にし、「対世間」を本質にする「虚栄心」を峻別しているのである。
私自身は、虚栄心とは、自己を等身大以上のものに見せようとするほどに、自己の内側を他者に「見透かされることを恐れる感情」であると定義しているので、「自己の品位についての自覚」である「名誉心」と共に、この二つの心理には、根柢において自尊感情が通底している。
従って私は、虚栄心それ自身を「悪徳」であるとは、決して思わない。
「自分が持つ能力の範疇で誇示し、見栄を張る程度を逸脱しない」という、適度な虚栄心は、誰でも持つものだから、何も問題がない。
要は、映画「ブルージャスミン」のヒロイン・ジャスミンのように、過剰な虚栄心のため、妄想自己にまで堕ちていく辺りまで「自我境界」が緩み、自分の内面で起こっていることと、外界で起こっている現実と区別する「現実検討能力」も必然的に低下し、極度の疲労やストレスの果てに自我機能が麻痺してしまうケースもある。
映画の虚構の世界への言及はさておいて、一言でいうと、自尊心は、現実の社会生活への「適応」を具現化する感情である。
即ち、私たちの自尊心は、進化的に発達してきた、人間固有の生き延び戦略の最も重要な「複合的感情」(羞恥心・道徳心など)として捉えられるものなのだ。
だから、私たちは、この自尊感情を高めてこそ、意欲的・積極的であることができる。
繰り返すが、現代において、自尊感情は「適応」の重要な指標なのである。
その深刻なトラブルの典型例に、疾病としての「依存症」の問題がある。
この疾病としての「依存症」という厄介なトラップに嵌ってしまったら、依存対象から得られる快楽に浸り切って、刺激を求める欲求が抑えられなくなり、刺激が枯渇すると、身体的・精神的状態が極端に不安定になって、いつしか、自壊現象にまで堕ち切っていくだろう。
それ故、「依存症」という厄介なトラップに嵌っていく前に、堅固な防衛的自我を立ち上げねばならないが、これができないから苦労するのである。
思うに、「依存」の本質は「欠損感」である。
その「欠損感」の本質は「不適応」である。
「適応」の重要な指標である自尊感情の欠如こそ、「依存」の本質であると言っていい。
自己肯定感の欠如 ―― これが「依存」の心理に張り付いているのだ。
何より至要たる事象は、教育現場での規範の欠如である。
教育現場での規範の欠如が、学級内部のルールの定着を阻んでいる。
「チャイムが鳴ったら席につく」・「掃除区分が割り当てられているのに、必ずサボる子が出て、注意するとキレてしまう」・「1単位時間の45分間(小学校)が集中できず、面白くないと学級内がざわついてしまい、全く授業にならない」・「平気で授業中に立ち歩いたりする」等々。
このような、ごく普通のルールの定着こそ、学校倫理のコアであるにも拘らず、授業が成立しない現実がある。
ここまでくると、メディアが好んで使う「学級崩壊」である。
例えば、入学直後の児童に見られる「小1プロブレム」。
神経病理学的に異常が疑われるような、「ADHD」(注意欠陥・多動性障害)のケースは例外として、少なからぬ児童が環境の変化に対応できないのだ。
学校としては、昔と変わらぬ普通の学校作りを目指しているだけなのだが、管理嫌いの過敏な生徒には、学校が彼らのストレスの温床になってしまうのである。
かつての如き、地域コミュニティの支えを失った学校の、ごく普通の対応や要請が共通言語にならなくなり、地域で孤立化する現象が顕在化している。
豊かになり、自由が最大限に重要視され、子供が我慢する必要がなくなっていく一方、その学校内部のルールの定着が阻まれるという悪循環は、学校教育のシステムの中枢を食い千切っていく。
「学校は地域コミュニティの大切なスポットである」・「学校は学ぶ場である」・「生徒は教師の言うことを聞かねばならない」
この三命題が安楽死してしまったのだ。
今や、学校内で惹起する問題の本質は、子育てと教育のシステム全体の崩壊現象であると言っていい。
古い学校システムの崩壊を認知すること。
学校内部の新たなルールを作り、それを定着させていくこと。
教育の予算を増やし、例えば、虐めの防止や家庭環境による問題に対処するために、学校内に、専門資格を持つスクールソーシャルワーカーを置く制度を導入し、教師の物理的・精神的負担を大幅に軽減すること。
更に、子供の衝動的・攻撃的行動をコントロールする、米国発の教育プログラムである「セカンドステップ」を、認定講師による、低学年対象の特殊教育として積極的に導入すること。
一切を教師に負わせない制度改革こそ、喫緊の課題なのである。
組織としての学校の新たな価値づけが求められているのだ。
現在、教育のシステム全体の改革は、焦眉の急であるという認識を持つべきである。
しかし、教育現場での実践教育には限界がある。
まして、教師に大きな負荷をかけるのは酷過ぎる。
学校行事が多過ぎるのだ。
基本的に、教師を教科教育に専念させるべきである。
その教師たちに、現在、幾つかの学校において、子供たちの自尊感情を高めていく努力を評価するのに吝(やぶさ)かではないが、それでも、「個性教育」や「自尊感情を育む教育」などという難題を負わせるのは、無理であるとは言わないが、殆ど困難であると言う外にない。
子供の自我は教師が作るのではなく、その子供の養育者(母親以外の者でもいい)たちが作る。
当然のことである。
限りなく安定的な自我を培っていく、家庭の存在価値が求められる所以である。
そして、もう一つのテーマ ―― それは子育ての問題に尽きる。
章を変えて言及したい。
心の風景 自尊感情の心理学 より抜粋http://www.freezilx2g.com/2017/04/blog-post.html