映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その2)

 偽れる盛装 (吉村公三郎

 恐らく、このような役柄を演じさせたら、京マチ子の全人格が放つ圧倒的存在感は、数多の女優の姑息な「演技力」が嵩(かさ)に懸かって来ても、それらを蹴散らす「身体表現力」において一頭地を抜くものがある。

 近代的自我を保持する、「おもちゃ」(「如何にも的」なネーミング)という名の芸妓をヒロインに仕立て、封建体制下での日本女性の「被害者性」を強調する溝口よりも、どんな体制下にあっても、バイタリティ溢れる生き方を身体表現する成瀬の映像世界のヒロインたちのイメージと、まさに京マチ子の全身が放射する、「男に踏まれても、それを跳ね返す女の強さ」のイメージが見事なまでに重なるのだ。

 爛熟した色気から放射される性フェロモンによって、男を手玉に取る狡猾さを身体表現する「関係支配力」を、その人格の根柢において支え切る「自立的な強靭さ」こそが、″肉体派女優″と揶揄された彼女の本質である、と私は考えている。

 だからこれは、京マチ子の映画になった。

 「世界を分ける踏切」の構図 ―― これが、この映画の全てであると言っていい。「世界を分ける踏切」の向こうには、他人のプライバシーに必要以上に踏み込む権利を持たないが故に、「私権の拡大的定着」が少しずつ保証されつつある、東京に象徴される大都市の近代的な世界が眩い輝きを放っている。一方、「世界を分ける踏切」の此方には、他者と自己との格式の違いを重んじることで、その世界に侵入してくる他者を異端視扱いする、古風で伝統的な文化が保持されているが、しかし極めて封建的な風土の色濃い世界が渦巻いている。

 靜乃家の長女である君蝶は前者を代表する人格像であったのに対して、次女の妙子は後者を代表する人格像であったと言える。従って、「世界を分ける踏切」の前で降ろされた遮断機によって、踏切の向こうの世界に身を預けられない君蝶は、深く理不尽な怨嗟を抱く中年男が振りかざす、肉切り可能な、幅広で峰が厚い出刃包丁の鋭利な一太刀の犠牲になったのだ。

 出刃包丁の鋭利な一太刀の犠牲になった女が、京マチ子であったのは言うまでもないだろう。


(心の風景/映画史に残したい「名画」あれこれ  邦画編(その2))より抜粋http://www.freezilx2g.com/2011/06/blog-post_08.html(2012年7月5日よりアドレスが変わりました)