シンドラーのリスト('94) スティーブン・スピルバーグ <英雄、そして権力の闇>

イメージ 11  歴史の重いテーマの映像化の中で不要な、「大感動」のカタルシス効果



ポーランドで軍用工場を経営していたオスカー・シンドラーは、ユダヤ人会計士の協力を得て、ゲットーのユダヤ人を工場労働者として集め、好業績を挙げた。

複数の愛人と関係し、放恣な生活を送っていたシンドラーが、ゲットー解体によって強制収容所に送られるユダヤ人たちに同情し、就中(なかんずく)、残虐な所長への反発もあって、自らの工場内に私設収容所を設立した。

―― 映画はここから、悪魔の如きドイツ人にも、シンドラーのようなスーパーマンがいたという英雄伝説活弁の幕が放たれる。

シンドラーは、自らが保護するユダヤ人たちだけでも救おうと、私財を投げ打って、チェコの工場に彼らを移送する。

その間、危うくガス室送りになる女性たちを救出するエピソードなどが挿入されて、物語はモノクロの映像のうちに緊張含みで展開していくのだ。

終戦

シンドラーによって守られたユダヤ人が、チェコで解放された。

解放の日、シンドラーの心には深い悔いの念があった。

眼の前にある自家用車を売れば、まだユダヤ人を何人か救えたことに気づいたのだ。

ドイツ人シンドラーユダヤ人救済の戦いは、結局、蓄財を蕩尽する戦いでもあった。
 
蓄財を蕩尽し、身体と精神を消耗し尽くしたシンドラーは、戦後多くのユダヤ人の手によって顕彰され、ホロコースト英雄伝説の一つとして、永くその名を留めている。

ホロコーストの凄惨な展開の中にあって、ギリギリに良心的に生き抜いた一人のドイツ人を映像化することで、民族の心に澱むルサンチマン(怨念)を中和しようとする作り手の意図は、とてもよく分る。

それにも拘らず、私にはどうしてもこの映画が、ハリウッド好みのスーパーマンの活劇に見えてしまうのだ。

スーパーマンの不滅性と、活劇の予定調和性がスクラム組んで、ラストのカタルシスに流れ込んでいくという基幹の文脈がそこに貫流していて、民族和解を狙ったラストシーンでの英雄顕彰が、却って物語の執拗な追認を、観る者に均しく要請してくるような厭味すら印象付けてしまった。
 

「プライベート・ライアン」もまたそうだったが、スピルバーグの映像には、何かいつも、少しずつ余計なものが加わってしまうように見えるのである。

これはスピルバーグに限らないが、ホロコーストのような歴史の重い悲劇を映像化するときに、観る者への倫理的義務感からか、或いは、単に生来の感傷癖からか、観る者を必要以上に感涙させずにおかない意識的な映像作りが、しばしば散見される。

果たして歴史の重いテーマの映像化に、大感動のカタルシス効果など必要であろうか。

登場人物への感情移入によって支えられる大感動が、凄惨な歴史の現実を恣意的に切り取りすぎてしまうこともある。

辛いものを辛いままに把握し、そこに作り手が解釈を加えて、歴史の重い現実に限りなく客観的に迫るという手法があっていい。

仮にそれが史実であっても、観る者のスーパーマン待望の思いに安直に流れ込んで、予定調和でまとめ上げていくラインを忠実に踏襲する必要もないのである。

時代の負性なる状況への憤怒が、スーパーマン的人物の造型を介して処理される方法論の馴染みやすさによって、娯楽としての映画が、軽快に引っ張られていくような「深刻映画」のバージョンが、そこにもあった。



2  権力関係と感情関係についての仮説 



本作の中に、極めて印象深い挿話がある。
 
レイフ・ファインズ扮する酷薄な収容所長と、そのメイドとの権力関係を示す描写である。

それは支配しても支配し切れない人間の脆弱性の本質に迫る、最も凄惨な描写であるように思える。

ユダヤ人に対するナチのジェノサイドがそうだとは言わないが、人間が人間を支配し切れないその脆弱性が、次第に関係の負性度を深めていって、相手の自我の破壊を経由しつつ、最終的に身体の解体にまで暴力が届くような流れを構造化させてしまうのである。

―― この挿話に言及する前に、「権力関係」についての私の把握を示しておきたい。

なぜなら、この映画で私の関心を最も惹きつけた描写がその挿話の中にあり、それこそ、この映画が特別な価値を持つと考えるからだ。

そこには、「権力関係と感情関係」の悪しきモデルが典型的に示されていたからである。(なおこの小論は、「権力関係の陥穽」という拙稿を引用したものである)


「権力関係と感情関係」について、私なりにまとめたのが以下の表である。


↑            感情関係   非感情関係
関自
係由   権力関係       ①       ②
の度  非権力関係     ③       ④
低        
い          ← 関係の濃密度高い



映画とは関係ないが、①には、暴力団、宗教団体、家庭内暴力の家庭とか、虐待親とその子供、また大学運動部の先輩後輩、旧商家の番頭と丁稚、プロ野球の監督と選手や、モーレツ企業のOJTなどが含まれようか。

②は、パブリックスクールの教師と寮生との関係であり、警察組織や自衛隊の上下関係であり、精神病院の当局と患者の関係、といったところか。

また、③には普通の親子、親友、兄弟姉妹、恋人等、大抵の関係が含まれる。

最も機能的な関係であるが故に、距離を保つ④には、習い事に於ける便宜的な師弟関係、近隣関係、同窓会を介しての関係や、遠い親戚関係といったところが入るだろうか。

権力関係の強度はその自由度を決定し、感情関係の強度はその関係の濃密度を決定する。

ここで重要なのは、権力関係の強度が高く、且つ、感情関係が濃密である関係(①)である。関係の自由度が低く、感情が濃密に交錯する関係の怖さは筆舌し難いものがあると言えるだろう。
この関係が閉鎖的な空間で成立してしまったときの恐怖は、連合赤軍榛名山ベースでの仲間殺しや、オウム真理教施設での一連のリンチ殺人を想起すれば瞭然とする。

状況が私物化されることで箱庭化し、そこにおぞましいまでの「箱庭の恐怖」が生まれ、この権力の中心に、権力としての「箱庭の帝王」が現出するのである。

「箱庭」の中では、その閉鎖系の共同体の危機は呼吸を繋ぐ小宇宙の域外になく、多くの場合、内側で作り出されてしまうのだ。

密閉状況で権力関係が生まれると、感情関係が稀薄であっても、状況が特有の感情世界を醸し出すから、有効距離を設定できないほどの過剰な近接感が権力関係を更に加速して、そこにドロドロの感情関係が形成されてしまうのである。

そこには理性を介在する余地がなく、恣意的な権力の暴走と、その災いを防ごうとする戦々恐々たる自我しか存在しなくなる。いかような地獄もそこに現出し得るのだ。
 
 
(人生論的映画評論/シンドラーのリスト('94) スティーブン・スピルバーグ <英雄、そして権力の闇>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2008/10/94.html