1 両親の死という悲痛のルーツに辿り着くするまでの物語
テーマの具体的副題は、「ポーレットは、なぜ叫んだのか」。
―― 以下、物語の梗概を簡単にフォローしていく。
1940年6月、パリ陥落で南仏に移動するフランス難民たちに向って、ドイツの爆撃機が何十発もの爆弾を投下した。
恐怖で引き攣(つ)る難民たちの中にパニックが起り、彼らの命がけの移動は、なお続く爆撃機の機銃掃射の恐怖に繋がった。
そのとき、一人の幼女が抱えていた小犬が、爆音に反応して、幼女の庇護から離れて路傍の中枢に飛び出して行った。
恐怖で引き攣(つ)る難民たちの中にパニックが起り、彼らの命がけの移動は、なお続く爆撃機の機銃掃射の恐怖に繋がった。
そのとき、一人の幼女が抱えていた小犬が、爆音に反応して、幼女の庇護から離れて路傍の中枢に飛び出して行った。
幼女は、愛犬を必死に追い駆ける。
「ポーレット!」
娘を追う両親の叫び声が発せられた。
女が小犬を抱きとめたとき、そこに爆撃機の機銃掃射が直線的なラインを描いて、幼女の両親の身体に降り注いでいく。
「ポーレット!」
娘を追う両親の叫び声が発せられた。
女が小犬を抱きとめたとき、そこに爆撃機の機銃掃射が直線的なラインを描いて、幼女の両親の身体に降り注いでいく。
母の影に隠れて難を逃れた幼女は、動かない母の顔をまじまじと眺めて、状況の意味を呑み込めないでいた。
まもなく幼女は愛犬を抱いて、難民の家族の台車に救われる。
しかし「死んでるよ」と言われて、愛犬を川に捨てられた幼女は、単身、その家族から離れて、流されていく愛犬の死骸を追った。
愛犬を、川から何とか取り戻した幼女は、森の中を彷徨(さまよ)っていく。
そこに牛を追った少年が現われて、一人ぼっちの幼女に事情を尋ねた。
幼女は少年に、犬と両親の死を告げた。
しかし「死んでるよ」と言われて、愛犬を川に捨てられた幼女は、単身、その家族から離れて、流されていく愛犬の死骸を追った。
愛犬を、川から何とか取り戻した幼女は、森の中を彷徨(さまよ)っていく。
そこに牛を追った少年が現われて、一人ぼっちの幼女に事情を尋ねた。
幼女は少年に、犬と両親の死を告げた。
しかし幼女には、死の観念の形成が不充分である。
だから悲しみよりも、動かない愛犬に対する寂しさの方が優先的であった。
「一緒に来いよ」と少年。
「犬は?」と幼女。
「別のをやるから捨てな」と少年。
幼女は愛犬を傍らに置いて、少年について行った。
二人は子供らしい自己紹介をして、名前を確認し合った。
「一緒に来いよ」と少年。
「犬は?」と幼女。
「別のをやるから捨てな」と少年。
幼女は愛犬を傍らに置いて、少年について行った。
二人は子供らしい自己紹介をして、名前を確認し合った。
幼女の名は、ポーレット。
少年の名はミシェル。
これが、一瞬に両親を喪った幼女ポーレットと、そのポーレットと共に、廃屋になった水車小屋で、「全部の生き物に十字架を立てる」という「禁じられた遊び」を密かに繋いでいく、少年ミシェルとの運命的な出会いであった。
これが、一瞬に両親を喪った幼女ポーレットと、そのポーレットと共に、廃屋になった水車小屋で、「全部の生き物に十字架を立てる」という「禁じられた遊び」を密かに繋いでいく、少年ミシェルとの運命的な出会いであった。
しかし、二人の「禁じられた遊び」は呆気なく頓挫する。
大人の世界が侵入してきたからだ。
二人の憲兵がやって来て、施設送りにされる幼女ポーレットを救えず、少年ミシェルの嗚咽が捨てられた。
一方、首に名札を付けられたポーレットが、最寄の駅にいた。
傍らには、赤十字の修道女が付添っている。
「聞いてちょうだい、ポーレット。いい所へ行くの。あなたのような女の子が大勢いるのよ。皆一緒で楽しいわ。ここを動かないでね」
修道女はそう言って、その場を離れた。
そのとき、ポーレットの耳に、「ミシェル」と呼ぶ人の声が聞こえてきた。
ポーレットはその言葉に反応し、「ミシェル・・・ミシェル・・・」と何度も呟いたのである。
「聞いてちょうだい、ポーレット。いい所へ行くの。あなたのような女の子が大勢いるのよ。皆一緒で楽しいわ。ここを動かないでね」
修道女はそう言って、その場を離れた。
そのとき、ポーレットの耳に、「ミシェル」と呼ぶ人の声が聞こえてきた。
ポーレットはその言葉に反応し、「ミシェル・・・ミシェル・・・」と何度も呟いたのである。
その声は次第に涙声になって、幼女を突き動かした。
幼女は今度ははっきりと、「ミッシェル!」と叫んで、人の群れの中を分けて、足早に走り去っていく。
その言葉は、突然、「ママ、ママ」という声に代わり、やがて再び、「ミッシェル!ミッシェル!」という叫びに戻っていった。
その言葉は、突然、「ママ、ママ」という声に代わり、やがて再び、「ミッシェル!ミッシェル!」という叫びに戻っていった。
―― 以上が、「禁じられた遊び」の簡単な梗概だが、ここで言及したいのは、愛情対象を喪失した幼女の「悲哀の儀式」である。
つまり、この映画は、ある日、突然両親を喪った5歳の幼女が、両親の死という現実の意味を、未成熟な自我によるギリギリの了解ラインのうちに受容し、その悲痛のルーツに辿り着くするまでの物語であるということ ―― これに尽きるだろう。
2 未来の時間のくすんだ風景イメージを約束する、「悲哀の仕事」の継続が途絶された事態の怖さ
ここで重要なのは、ポーレットが、両親の死をどこまで認知していたかという問題である。
それについて書いていく。
映像の中で、ポーレットは、ミシェルとその家族に「両親の死」を話していたが、その理解は、どこまでも言葉の次元での枠を越えたものではなかった。
それについて書いていく。
映像の中で、ポーレットは、ミシェルとその家族に「両親の死」を話していたが、その理解は、どこまでも言葉の次元での枠を越えたものではなかった。
ポーレットは5歳の幼女なのだ。
5歳の幼女に、「観念としての死」の意味に辿り着くことは不可能ではないが、相当程度において困難である。
心理学の知見によると、「死の不可逆性」(死んだら生き返らないということ)の理解に達するのは、児童期に入ってからであるとされている。
心理学の知見によると、「死の不可逆性」(死んだら生き返らないということ)の理解に達するのは、児童期に入ってからであるとされている。
「死の不可逆性」についての理解が可能になるから、親しき者の死に接する際に、深く哀しむという感情表現を具現化するのである。
従って、幼児期には、「死の普遍性」(全てのものが死ぬということ)や、「死の不動性」(死んだら動かないということ)の理解が不足して、その感情表現も限定的であるということだ。
つまり、自分には死が訪れないと感じたりするケースがあることで分るように、これは他者の死を特別な現象と考えてしまう、認知能力の未成熟さを示すもの以外の何ものでもないのである。
従って、幼児期には、「死の普遍性」(全てのものが死ぬということ)や、「死の不動性」(死んだら動かないということ)の理解が不足して、その感情表現も限定的であるということだ。
つまり、自分には死が訪れないと感じたりするケースがあることで分るように、これは他者の死を特別な現象と考えてしまう、認知能力の未成熟さを示すもの以外の何ものでもないのである。
(新・心の風景 「対象喪失児の『悲哀の儀式』の大切さ」 ―― 映画「禁じられた遊び」が問いかけるもの)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_7.html