「対象喪失児の『悲哀の儀式』の大切さ」 ―― 映画「禁じられた遊び」が問いかけるもの

イメージ 11  両親の死という悲痛のルーツに辿り着くするまでの物語



映画「禁じられた遊び」から、「対象喪失児の『悲哀の儀式』の大切さ」の重要性について考えてみたい。

テーマの具体的副題は、「ポーレットは、なぜ叫んだのか」。

―― 以下、物語の梗概を簡単にフォローしていく。

1940年6月、パリ陥落で南仏に移動するフランス難民たちに向って、ドイツの爆撃機が何十発もの爆弾を投下した。

 恐怖で引き攣(つ)る難民たちの中にパニックが起り、彼らの命がけの移動は、なお続く爆撃機の機銃掃射の恐怖に繋がった。

 そのとき、一人の幼女が抱えていた小犬が、爆音に反応して、幼女の庇護から離れて路傍の中枢に飛び出して行った。

幼女は、愛犬を必死に追い駆ける。

 「ポーレット!」

 娘を追う両親の叫び声が発せられた。

 女が小犬を抱きとめたとき、そこに爆撃機の機銃掃射が直線的なラインを描いて、幼女の両親の身体に降り注いでいく。

母の影に隠れて難を逃れた幼女は、動かない母の顔をまじまじと眺めて、状況の意味を呑み込めないでいた。
 
まもなく幼女は愛犬を抱いて、難民の家族の台車に救われる。

 しかし「死んでるよ」と言われて、愛犬を川に捨てられた幼女は、単身、その家族から離れて、流されていく愛犬の死骸を追った。

 愛犬を、川から何とか取り戻した幼女は、森の中を彷徨(さまよ)っていく。

 そこに牛を追った少年が現われて、一人ぼっちの幼女に事情を尋ねた。

 幼女は少年に、犬と両親の死を告げた。

しかし幼女には、死の観念の形成が不充分である。

だから悲しみよりも、動かない愛犬に対する寂しさの方が優先的であった。
 
 「一緒に来いよ」と少年。
 「犬は?」と幼女。
 「別のをやるから捨てな」と少年。
  
 幼女は愛犬を傍らに置いて、少年について行った。

 二人は子供らしい自己紹介をして、名前を確認し合った。

幼女の名は、ポーレット。
 
少年の名はミシェル。

 これが、一瞬に両親を喪った幼女ポーレットと、そのポーレットと共に、廃屋になった水車小屋で、「全部の生き物に十字架を立てる」という「禁じられた遊び」を密かに繋いでいく、少年ミシェルとの運命的な出会いであった。

しかし、二人の「禁じられた遊び」は呆気なく頓挫する。

大人の世界が侵入してきたからだ。

二人の憲兵がやって来て、施設送りにされる幼女ポーレットを救えず、少年ミシェルの嗚咽が捨てられた。

一方、首に名札を付けられたポーレットが、最寄の駅にいた。

傍らには、赤十字の修道女が付添っている。

 「聞いてちょうだい、ポーレット。いい所へ行くの。あなたのような女の子が大勢いるのよ。皆一緒で楽しいわ。ここを動かないでね」

 修道女はそう言って、その場を離れた。

 そのとき、ポーレットの耳に、「ミシェル」と呼ぶ人の声が聞こえてきた。

 ポーレットはその言葉に反応し、「ミシェル・・・ミシェル・・・」と何度も呟いたのである。
 
その声は次第に涙声になって、幼女を突き動かした。

幼女は今度ははっきりと、「ミッシェル!」と叫んで、人の群れの中を分けて、足早に走り去っていく。

 その言葉は、突然、「ママ、ママ」という声に代わり、やがて再び、「ミッシェル!ミッシェル!」という叫びに戻っていった。

―― 以上が、「禁じられた遊び」の簡単な梗概だが、ここで言及したいのは、愛情対象を喪失した幼女の「悲哀の儀式」である。

つまり、この映画は、ある日、突然両親を喪った5歳の幼女が、両親の死という現実の意味を、未成熟な自我によるギリギリの了解ラインのうちに受容し、その悲痛のルーツに辿り着くするまでの物語であるということ ―― これに尽きるだろう。



2  未来の時間のくすんだ風景イメージを約束する、「悲哀の仕事」の継続が途絶された事態の怖さ

 
 
ここで重要なのは、ポーレットが、両親の死をどこまで認知していたかという問題である。

 それについて書いていく。
 
 映像の中で、ポーレットは、ミシェルとその家族に「両親の死」を話していたが、その理解は、どこまでも言葉の次元での枠を越えたものではなかった。

ポーレットは5歳の幼女なのだ。

5歳の幼女に、「観念としての死」の意味に辿り着くことは不可能ではないが、相当程度において困難である。
 
 心理学の知見によると、「死の不可逆性」(死んだら生き返らないということ)の理解に達するのは、児童期に入ってからであるとされている。

「死の不可逆性」についての理解が可能になるから、親しき者の死に接する際に、深く哀しむという感情表現を具現化するのである。

 従って、幼児期には、「死の普遍性」(全てのものが死ぬということ)や、「死の不動性」(死んだら動かないということ)の理解が不足して、その感情表現も限定的であるということだ。

 つまり、自分には死が訪れないと感じたりするケースがあることで分るように、これは他者の死を特別な現象と考えてしまう、認知能力の未成熟さを示すもの以外の何ものでもないのである。
 
 
(新・心の風景  「対象喪失児の『悲哀の儀式』の大切さ」 ―― 映画「禁じられた遊び」が問いかけるもの)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2013/12/blog-post_7.html