アデルの恋の物語('75) フランソワ・トリュフォー<空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄る女の物語>

 1  「愛は私の宗教」と断じる女の、「妄想性認知」という病理に近い何ものか



 「もはや嫉妬もない。自尊心も捨てた。でも、愛は私に微笑まず、顰(しか)め面をするだけ。売春婦で苦しむ女たち。結婚に悩む女たち。女たちに自由と尊厳を与えること。頭には思考を。心には愛を。愛は私の宗教。魂のない肉体も、肉体のない魂もない。私はまだ若いはずなのに、人生の秋を感じる」

 これは、本作のヒロインである、アデルが書いた日記の一文である。

 「愛は私の宗教」と断じるアデルは、「特定他者」である、ピンソンという名の若い英国軍人をひたすら愛し、求め、彼を追ってカナダにまでやって来て、なお執拗に追い続けていく。

 逃げれば逃げるほど、男を求める欲求感情が昂じていく。

 人の心理とは、そういうものだ。

 しかし、アデルのケースは、「普通に愛し合う関係」の範疇を超えているのだ。

 その過剰さは、殆ど病理に近い何ものかである。

 それは、過剰なまでに他者から認められたいとする「承認欲求心理」であると言っていい。

 妄想によって自分の感情だけが止め処なく暴走する、「妄想性認知」という心理学の概念もある。

 その辺りの心理を、深々と描き切った映像の凄さに圧倒されるほどだ。

 この映像の凄いところは、自分が愛する「特定他者」からの愛情を占有するために、「愛される権利」を持つと信じる女の心象風景を、その皮膚感覚の見えない辺りまでをも描き切ったことにあるだろう。

 若い英国軍人である「特定他者」を愛する女は、男の愛を手に入れるために、男の情事を覗き見したり、当人の了解なしに男と結婚したという嘘話を、父への手紙で知らせたり、或いは、娼婦を「供給」して男の下半身の処理まで配慮したり、等々、何でもありなのである。

 そして遂には、ニセ催眠術師の所に自ら出向いて、「愛を憎しみに変えたり、逆に、憎しみを愛に変える」などという催眠術の依頼をする過剰ぶりなのだ。

 以下、ニセ催眠術師に頼み込んだときの会話。

 「催眠術で人の気持ちを変えること・・・」とアデル。
 「人の気持ちを変える?」とニセ催眠術師。
 「つまり、愛を憎しみに変えたり、逆にまた・・・」
 「それはダメです。私の力は魂までも動かせない。催眠術でできるのは、意思と逆のことをやらせるだけ。それも、人によって効かないこともある」
 「例えば、男を結婚させるには?」
 「それはできないこともない。適当な場所に連れて来る。簡単ではないが、金次第だ」
 「お金はあります。父が持っています。父を巻き込みたくないので、私が・・・」

 ここで、父の名を聞かれたアデルは、曇った鏡に「ヴィクトル・ユゴー」と書いた。

 「ヴィクトル・ユゴー」という、天下に鳴り響く威名によって相手を信用させるが、立ち所に、その相手がニセ催眠術師である事実が発覚し、アデルは慌ただしく帰途に就くという、何とも滑稽じみたオチがつく顛末だった。
 
(人生論的映画評論/アデルの恋の物語('75) フランソワ・トリュフォー<空洞化した自我同一性を補填し得る、「自分自身の黄金」を弄る女の物語>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/05/75.html