ブロークン・フラワーズ(‘05) ジム・ジャームッシュ <鈍足の一歩を疾走に変換させた男の一瞬の煌めき>

イメージ 11  以心伝心で行動が噛み合う親和性の高さ
 
 
 
久し振りに観て大満足した、ジム・ジャームッシュ監督の演出が冴えまくった映画。
 
あまりに面白過ぎた「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(1984年製作)のハードルが高過ぎたのか、それ以降の作品に、今一つ、消化不良の感が否めなかったが、この映画は、私のストライクゾーンにドンピシャに嵌った。

ジム・ジャームッシュ監督の本作を、うっかり観忘れていたことを悔いた次第である。
 

―― 以下、その大満足の映画の梗概と批評。
 
 何者かによって投函されたピンク色の手紙が、航空輸送を経て、アメリカ国内を郵送され、受け取り主の家まで届けられるオープニングシーンでの、擬人化された移動それ自身が、既に、本作のロードムービーのイメージをトレースしていて、いきなり笑いを堪え切れなかった。
 
 ジム・ジャームッシュ監督のオフビート全開のシーンは、ロードムービーに入っていく無表情の中年男のエピソードを描く冒頭のシークエンスで、「勝負の成否」が約束されたと言っていい。
 
コンピューター関連の仕事の成功で、毎日ジャージを着て、悠々閑々な日々を過ごす中年男・ドン・ジョンストン(以下、ドン)の無気力さに愛想が尽きたのか、同棲中の愛人・シェリーは自分の思いをダイレクトに吐露した。
 
「あなたって、そういう男。一生、変わらないわ。老いた女たらしとは、暮らしたくないのよ」
「何が望みだ?」とドン。
「あなたは?私は愛人のままなの?結婚する気はないのね」
 
そう言って、シェリーはドンの家を出て行った。
 
一瞬、止めようと呼びかけたが、諦めの気持ちの方が先行し、結局、愛人と別れる羽目になった。
 
その後も相変わらず、ジャージ姿のドンは、「ドン・ファン」のテレビを観て、そのまま、ソファに横になって寝てしまうのだ。
 
それは、殆ど表情を変えない男の、ごく普通の日常生活の一端だった。
 
その直後、隣人のエチオピア人・ウィンストンに呼ばれ、パソコンの操作を教えながらも、コンピューターに精通しているのに、自分はインターネットの世界に全く無関心。
 
どうやら特定他者との関心も希薄なところから、不特定他者との関心など、初めから起こりようがないだろう。
 
そんな男に突然出来した驚嘆すべき現象 ―― それは、ピンク色の封筒に入った手紙を受け取ったこと。
 
「あれから20年たった今、伝えておきたいの。あなたと別れてから、私は妊娠に気付いた。現実を受け入れ、子供を産んだわ。あなたの息子よ。私たちは終わったので、私一人で育てました。息子はもう19歳です。内気で秘密主義の子よ。あなたと違うわ。でも、感性は豊かです。数日前、急に旅立ちました。きっと、父を捜す旅でしょう。あなたの話はしていませんが、想像力の豊かな子です。もし、この住所が正しいなら、知らせておきたいの」
 
 タイプで打たれた、差出人の署名がない手紙を受け取ったドンは、特段の関心の素振りを見せないが、「当時の恋人のリストを作ってくれ」と言うウィンストンの要請を拒みながらも、せっせとリストを書き上げるドン。
 
 そんなドンの性格を見透かしているウィンストンのトラップに嵌っていく展開の可笑しさは、会話が噛み合っていなくても、以心伝心で行動が噛み合っていくという、二人の親和性の高さを明示するものだった。
 
ドンもまた、ウィンストンの能動的な性格を知悉(ちしつ)しているから、会話が噛み合わなくても、行動の軟着点を初めから予約済みなのだ。
 
 お互いに、相手が何を考え、どのような行動に振れていくことかというイメージを予測できているから、単にその会話が形式的なものであっても、何の問題もないのである。
 
 「服装はコンサバ系で、上品に決めろ。必ず花を持って行け。ピンクの花だ。息子の手がかりを探せ。写真でもいい」
 
 この無謀な旅の計画に拒絶反応を示すドンが、「もし留守中に、息子が訪ねて来たらどうする?」などと気にする可笑しさは、既に、ウィンストンの甘いトラップに対して、彼なりに乗り入れていく心理が、絶妙な「間」の会話の中で息づいているからである。
 
 以上の、ドンとウィンストンの遣り取りの面白さは絶品だった。
 
 
 
 
 2  「遥かなる過去への旅」のくすんだ彩り



 かくて、「旅には絶対出ない」と言い切った男の、「遥かなる過去への旅」が開かれた。
 
 ウィンストンの指示通り、ピンクのバラの花を手に持ち、スーツを着込んで、「過去の恋人」を訪ねて行く奇妙な旅である。
 
 一人目の女の名はローラ。
 
 いきなり、「ロリータ」と名乗るローラの闊達な娘が出て来るや、その直後には、全裸で携帯をかける挑発に驚嘆したドンは、そのまま帰ろうとした。
 
 帰宅して来たローラと20年ぶりの再会を果たしたのは、その時だった。
 
 「今は、娘のローと2人暮らし」
 
レーサーだった亭主を、レーサー中の事故で喪ったのである。
 
それをテレビ中継で観戦していたローラには、その空洞を埋める何ものもないトラウマを抱えながら、彼女なりに、母娘二人の生計を繋いでいるようだった。
 
 セックスに対するハードルが低いローラの、内深く封印しているかのような寂しさの世界にも自己投入できず、単に、ベッドを共にする関係を復活させただけの滞在でもあった。
 
 途轍もなく広いアメリカの旅は、飛行機、バス、レンタカーを使っての、長時間に及ぶ「遥かなる過去への旅」である。
 
 二人目の女の名はドーラ。
 
 「不意に現れるなんて変ね」
 
 このドーラの含意には、明らかに、ドンの訪問を迷惑がる心理が窺える。
 
イクラスな暮らしをしているドーラの亭主は、不動産業でバリバリの仕事をするやり手の印象を受けるが、ディナーの気まずさもあって、最後まで空気を濁らせていた。
 
 訪問の真意を伝えることができないドンのハンデが、すっかり生活風景を変えてしまった過去の恋人の〈現在性〉の前に弾かれるだけだった。
 
 子供のいない寂しさを抱えつつも、一見、仲睦まじいように見える夫婦の関係の前に、唐突に訪問した男が侵入する余地などないのだ。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ブロークン・フラワーズ(‘05) ジム・ジャームッシュ <鈍足の一歩を疾走に変換させた男の一瞬の煌めき>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/10/05.html