ザ・マスター(‘12) ポール・トーマス・アンダーソン <帰還すべき場所に戻れなかったばかりに、アナーキーな「移動」に捕縛されてしまった男の悲哀の物語>

イメージ 11  どのよう振舞っても救われようがない人生の、その孤独の極相
 
 
 
どのよう振舞っても救われようがない人生の、その孤独の極相。
 
孤独の極相の際(きわ)を匍匐(ほふく)する男の、遣り切れない人生の断片を描き切ったこの映画を、私はこよなく愛す。
 
それが、この映画に惹かれる最大、且つ、唯一の理由である。
 
自分の意思とは無縁に、この世俗世界に放り出され、養育されていったその特殊な行程を通して、物事を合理的に判断し、自分の能力のサイズに見合った人生を繋いでいくという、ごく普通の家族環境を手に入れられなかったばかりに、既に思春期にあって、途轍もないリスクを抱え込んでしまっている。
 
相当程度の確率の高さで流れていく、アナーキーな人生を男は複写していくが、それでも壊れることがなかった。
 
年端もいかない16歳の「恋人」の存在が、男の人生を破滅的なイメージ一色に染め上げなかったからである。
 
それは、拠って立つ男の自我の安寧の基盤だった。
 
しかし、その安寧の基盤を求めても、求め切れない状況が男の自我を襲撃した。
 
男の自我に、決定的とも言える大きな埋め難い空洞が生れるに至った。
 
この辺りから、男は壊れていく。
 
いよいよ剥き出しにされた粗暴な性格が、社会適応を困難にさせ、男の心の風景を、より一層、孤独の陰翳で染め抜いていく。
 
粗暴だが、凶悪ではない。
 
自分勝手だが、特定他者の気持ちを思いやるナイーブさを持ち合わせている。
 
自分のミスで死に至らせたかも分らない老人の、その後の容態を気にして止まないところもある。
 
複雑に入り組んでいるが、人間とはそういうものである。
 
神を信じることもできず、堅固な「物語」に拘泥する情感も持ち得ない。
 
求めても得られない、寄る辺なき関係状況。
 
孤独についての私の定義である。
 
詳細は後述するが、何より、この男が嵌り込んでしまった孤独の極相の救い難さに、私は痛々しいまでの切なさを覚えてならなかった。
 
提示された映像の凄みに打震えるばかりだった。
 
 
 
2  予定調和のうちに終焉する、幼児の世界が占有する「親子喧嘩」の濃密度
 
 
 
この映画を把握するために、提示された映像の一部を切り取って、そこにメタファーを読み取ることで、映像総体の本質を簡便に解釈するのは自由だが、そんな末梢的な試行を幾ら重ねていっても、徹頭徹尾、冷厳な視線で、「人間」の非合理性の裸形の様態の凄みを描いた物語から弾かれてしまうのではないか。
 
戦争によるPTSDという加速因子を内包し、本来的に、生まれ育ちの粗悪さを起因に形成された歪んだ自我を引き摺ることで、心身両面にわたって「定着」できない人格像を顕在化する男が、新興宗教を立ち上げた男と偶然出会い、その男の洗脳によって、教団内での疑似家族の一員となり、各地に移動する組織内で「定着」の快楽を得ても、そこに「定着」する心理的推進力の脆弱さから、アナーキーな「移動」に振れていく、絶望的なまでに孤独な人生を露わにしながらも、男との内的交叉から、恐らく賞味期限が切れるまで、ほんの少しアナーキーな「移動」に変化を与えるに至った男の物語。
 
これが、本作に対する、私の基本的な了解ラインである。
 
人間は簡単に変わらないのだ。
 
 思春期ならともかく、ここまで大人になって、なお歪んだ自我を引き摺る男が、新興宗教の教団内での疑似家族の一員となり、連日のように教育プログラムを受けたからと言って、その人格が根柢的に変容するというロマンチシズムを受容できようがない。
 
まして、男はアルコール依存症である。
 
そのためか、くぐもったような話し方・猫背の動き方まで、社会適応性の均衡感を大きく壊している。
 
そればかりではない。
 
メチルアルコールを含有させたと思しき怪しげな酒を調合して、それを一気に飲ませて、老人を死なせた可能性がある。
 
 
 「死に至る病」への防衛戦略として、束の間、新興宗教という取って置きの「幻想」に身を預けるが、長く続かない。
 
 「幻想」を持ち、それに継続力を付与することによって保持される、自我の拠って立つ安寧の基盤が、男の中枢で崩れてしまっているのだ。
 
家族、愛、友情、宗教、等々、何でもいい。
 
 「幻想」なしに生きていられるほど、人間は強くないのだ。
 
 束の間、「幻想」を持っても、それに継続力を保証できないから、男は「定着」できない。
 
 「定着」できないから、アナーキーな「移動」に振れていく。
 
 性的衝動に衝き動かされる日々を繋ぎ、その男・フレディのアナーキーな「移動」に、「定着」への誘惑が嵌ったとき、そこに、もう一人の奇妙な男との邂逅が具現していた。
 
「マスター」である。
 
ヒプノセラピー(退行催眠療法=前世療法)などを含む、感情コントロールの手法である「コーズ・メソッド」で、白血病を治したと自著に書いた、“ザ・コーズ”という名の新興宗教の教祖である。
 
「“過去の人生”を遡り、病気の発生時点で治す。数千年、数兆年前に。我々は、皆で力を合わせて、心に宿る欠陥を探し出し、完璧な状態に戻そうとしているのだ。社会を糺し、戦争や貧困を排除。核の脅威を失くす」
 
「カルト」と非難する男に反駁する、そんな「マスター」にとって、アナーキーに生きる男の、野生児の如き「移動」なる〈生〉に惹かれていった心の風景は大いに首肯できるものだった。
 
新興宗教の「組織」の岩盤は、「マスター」と称される男・ドッドの虚栄を満たすものであっても、気分を解放系にする息抜きを満たすものではない。
 
 「身を守るには攻撃しかない。でないと、全ての戦いに負ける。もし攻撃しなければ、望むように支配できなくなる」
 
 「カルト」と非難する男を捩じ伏せるまでに、完璧に反撃できない夫を視認した妻・ペギーが、夫のドットに強い口調で言い放った言辞である。
 
ドッドには、立ち上げてまもない教団の組織防衛という高い負荷、日常的にかけられているのだ。
 
そんな夫のオナニーの処理まで引き受ける、妻・ペギーの存在を必要とせざるを得ない欠如を抱えるドッドにとって、どれほど窮屈であっても、もう、それなしに生きられない生活を繋いでいくしかなかった。
 
だからこそと言うべきか、「マスター」と称される男は、野生児の如き「移動」なる〈生〉を繋ぐフレディと、「組織」という「大看板」から離れた、極めて個人的な関係を作りあげていく。
 
「ふたりの関係はまさに愛憎まじったラブストーリーと言えると思う。または、父と息子という関係性もテーマになっていると思う」(webDICE
 
 これは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の言葉。
 
しかし、勘違いしてはならない。
 
「愛憎まじったラブストーリー」と言っても、ドッドにとって、「組織」から乖離するフレディとの個人的な関係への拘泥は、ホモセクシュアリティという、同性への性的指向への情動を心理的推進力にしている訳ではない。
 
フレディも同じこと。
 
 後述するが、基本的には、「マスター」を演じたシーモア・ホフマンの言うように、「父と息子、あるいは指導者と弟子のような関係」であり、それも「援助」、「依存」、「共有」という友情の構成要件に近いもの。
 
 とりわけ、「父なる者」の欠如によって、思春期を過ごした少年には、「父なる者」を切望する思いが強かった。
 
だから、「マスター」による最初の「プロセシング」(洗脳的自己啓発セミナー)に愉悦し、「プロセシング」の延長を自ら求めていく感情を表出したのである。
 
一方、ドッドもまた、型に嵌った秩序から漏れる空洞を、束の間、解放系に満たす破壊的なパワーを剥き出しにするフレディによって、ファジーな空気の澱みの中で補填されてしまう危うさを感受しつつも、それを黙認する教祖の脆弱性が垣間見える。
 
フレディの心の闇の深さを理解し、そんな破滅型の男を救う行為を本気で発現させなかった「マスター」は、追い詰められた挙句、周囲からの刺激に対して感情や思考を反応させてしまう、「反応心」を抑制するという教義に反してまで、甲高いい声で叫びを上げる。
 
「君を好きなのは、私だけだ。私だけが、君を好きだ!」
 
 破滅型の男を黙らせる方法が、それ以外になかったからでもある。
 
この顛末は、財団の資金不正流用の容疑で逮捕された「マスター」を庇って、フィラデルフィア州の警官と乱闘したことで、同時に逮捕されたフレディが、警察の留置所で、あろうことか、「マスター」と怒鳴り合うエピソードの中で拾われていた。
 
「囚われへの恐怖は、数百年前からの記憶だ。君が知る遥か昔から存在する。君自身ではない」
「黙れ!」
「君ではない。君は眠っている。君の精神は自由だった。肉体から肉体へと自由に移動していた。自由そのものだった。だが、侵略者に捕まり、邪悪さを教え込まれ、“反応心”を植え付けられた。だから君は権威を恐れ、破壊的なのだ。我々は何兆年も昔から、悪と闘っている」
 
この間、隣接する代用監獄内で、後ろ手を縛られて、半裸のフレディが、辺り構わず脚で蹴り上げ、暴れ捲っている。
 
教祖の言葉を全否定し、罵り合うのだ。
 
「デタラメだ。あんたのデッチ上げだ!」
「すべて事実だ!役立たずのクズ野郎め!もう、君にはこりごりだ!」
「あんたは家族に嫌われている。息子にも!」
「君は誰に好かれている?私以外、誰に?」
「俺を嫌いなくせに!」
「君を好きなのは、私だけだ。私だけが、君を好きだ。私一人だけ。もうウンザリだ」
 
これで、漸く静かになる男。
 
 「快・不快」の原理にしか振れない、殆ど幼児の世界だった。
 
幼児の世界が占有する「親子喧嘩」が、予定調和のうちに終焉したのである。
 
本作の中で、この二人の情感的関係を最も濃密に象徴するシーンだった。
 
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ザ・マスター(‘12) ポール・トーマス・アンダーソン  <帰還すべき場所に戻れなかったばかりに、アナーキーな「移動」に捕縛されてしまった男の悲哀の物語>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/04/12.html