人間の「愚かさ」とは何か ―― 映画「奇人たちの晩餐会」が教えるもの

イメージ 1フランシス・ヴェベール監督の「奇人たちの晩餐会」(1998年製作)という、完璧なシチュエーション・コメディに徹したフランス映画を観て、今更ながら、人間の「愚かさ」について、深く思いを巡らせるに至った。

映画の内容は単純である。

「晩餐会」と称して、毎週水曜日に、リッチな連中たちが「バカ」を連れて来て、彼らに奇人・変人ぶりを競い合わせ、「バカのチャンピオン」を決めるという低俗の極致とも言えるゲームを享楽する話だが、リッチな会員の一人である出版社の社長・ピエールが、「不運」にも、ゴルフでぎっくり腰になったお陰で、彼が探した「世界一のバカ」、即ち、マッチ棒で建造物の模型を作り、それを写真に収める変わった趣味を持つ税官吏・ピニョンを「晩餐会」に連れて行くことができず、結局、高級アパートに住むピエールの優雅な部屋が、「利口」=ピエール対「バカ」=ピニョンとの丁々発止で、裸形の人間像を炙り出していく、「もう一つの晩餐会」と化していくというもの。

この抱腹絶倒のコメディの面白さへの詳細な梗概については、拙稿・「人生論的映画評論」に委ねるとして、ここでは、本題に言及したい。

人間の「愚かさ」とは、一体、何かという本題である。

この素朴だが、意想外に厄介なテーマに対する私の解釈は、以下の二つの概念のうちに収斂される。

即ち、「対・他者無知」と「対・自己無知」という二つの概念である。

「対・他者無知」とは、人間洞察力の相対的欠如であり、「対・自己無知」とは、メタ認知能力(自己を客観的に認識する能力)の相対的欠如である。

「自己が他者を如何に理解しているか?」

この能力の不足が、「対・他者無知」=人間洞察力の相対的欠如である。

「自己が他者からどう理解されているか?」

この能力の不足が、「対・自己無知」=メタ認知能力の相対的欠如である。

人間にとって必須な、この二つの能力の相対的欠如が決定的なまでに露わにされてしまうと、恐らく、本作の主人公・ピニョンのような裸形の人間像の「愚かさ」が目立ってしまって、その「愚かさ」を嘲笑することでストレスを解消するリッチな者たちの、甚だしく悪趣味なゲームの格好の餌食になってしまうだろう。
 
加えて、与えられた課題を合理的に遂行できないという能力的欠陥も手伝っているから、途方もなく非武装な日常性を顕在化させているピニョンの「愚かさ」は、リッチな者たちの悪趣味のゲームにとって、「最高の餌食」となるはずだった。
 
ピニョンのような度し難い「愚かさ」は、常に、品性下劣な連中に喰われていくことで、彼らのアンモラルな消費の餌食になるゲームに終わりが来ないのだ。
 
ところが、ピニョンの度し難い「愚かさ」が、「突き抜けた愚かさ」であったために、リッチな者たちの餌食になる思惑が、逆に存分なアイロニーの味付けによって、全く悪意の欠片も拾えない男・ピニョンの「餌食」にされてしまうのだ。
 
スラップスティック・コメディ(ドタバタ喜劇)に呑み込まれるギリギリのところで確信的に堪え抜き、人物と舞台の固定化によって観る者の笑いを誘う典型的なシチュエーション・コメディの枠内にあって、「会話」と「間」で繋ぐエスプリに富んだこの映画の可笑しさの本質は、緻密な脚本が冴え渡り、喜劇の王道を堅持する確としたストーリー性を崩さなかった点にある。
 
 
 
(新・心の風景 人間の「愚かさ」とは何か ―― 映画「奇人たちの晩餐会」が教えるもの)より抜粋http://www.freezilx2g.com/2014/11/blog-post.html