黒人差別に終わりが見えない ―― アメリカ社会のの深い闇

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1  観念としての「差別意識」と、身体表現としての「差別行為」を峻別せねばならない
 
 
「差別をしてはならない」
 
教育現場で、よく耳にする言葉である。
 
異論はないが、疑問も湧く言葉である。
 
「対象への排外・拒絶行為」 ―― これが、「差別」に対する国連の定義。
 
では、ここで言う「差別」とは、一体、何を指しているのか。
 
何より、「対象への排外・拒絶行為」としての「差別」と、対象への「分別」(ぶんべつ)としての「区別」を混同するケースも多いが、その決定的な相違が、「分別」としての「区別」が、対象への「存在の肯定」を含意することで判然とするだろう。
 
従って、「存在の肯定」を本質にする「分別」としての「区別」が、「対象への排外・拒絶行為」である「差別」と決定的に分かれるのは、「差別」が対象への「存在の否定」を本質にする由々しき行為であるということだ。
 
常識的に考えれば、「対象への排外・拒絶行為」である「差別」が、特定他者に対する嫌がらせ・無視・誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)・虐めなどの「行為」を内包していると言っていい。
 
だから、一般的他者の他に、「ホモフォビア」(同性愛嫌悪)・ミソジニー女性嫌悪・映画「狩人の夜」で有名)などによる、「セクシャルマイノリティ」(性的少数者=LGBTQ・Qは「クエスチョニング」=「オカマ」)への「排外・拒絶行為」に象徴される「差別」という概念が、「身体的・精神的な加害行為者」による、「存在の否定」という社会性を持ち得るから面倒なことになるのだ。
 
そして、社会性を持ち得る危うさと同居する「差別」という概念が、必ずしも、「行為」に限定できないから厄介なのである。
 

要するに、対象への「存在の否定」を本質にする「差別」という概念のうちに、「意識」を含めている人が少なくないからである。

 
言わずもがな、「意識」と「行為」は同義ではない。
 
私たちは、まず、この視座を認知せねばならない。
 
対象への「存在の否定」を、「行為」に変換させる「差別」の修正は決して不可能ではないが、「差別」を適度に隠し込んだ「意識」の修正は容易ではない。
 
青春期までに形成された「意識」の修正は、あまりに困難なテーマなのである。
 
それにも拘らず、その「意識」を「存在の肯定」に反転させるのが無理であっても、「意識」の根柢的修正なしに、「身体的・精神的な加害行為」に発現させない能力が、私たちにはある。
 
「差別」を適度に隠し込んだ「意識」を、対象への「存在の否定」としての「差別」を身体表現する「行為」に変換させずに、それを制御し、特段に目立たせることなく封印・希釈化させる能力が、私たちにあるのだ。
 
それが、私たちの自我機能の本来的な内的作業である。
 
その把握こそが、殊の外(ことのほか)重要なのである。
 
ここで、その昔、「通過儀礼」(イニシエーション)という概念で著名なフランスの文化人類学者・ファン・ヘネップに影響を受けた私が、正確に引用できないが、ヘネップの言葉の趣意を想起し、以下、そこに被せられたイメージを書き添えてみる。
 
私たちは安寧な日常性を構築・継続させるために、文化が異なる社会で呼吸を繋ぐ他者との間に「境界」を設定して、自らのテリトリーを守って〈生〉を繋いできた。
 
即ち、「清浄と穢(けが)れ」という日本民俗学の重要な概念も含めて、「内と外」のような空間的な横の繋がりのみならず、「季節の変わり目」・「生と死」、そして柳田國男によって提示された、「ハレとケ」のような時間的な縦の繋がりを包括し、空間的・時間的、且つ、人工的な「世界」が出会う場所としての「境界」を設定し、文化的な存在としての「個」となるために「通過儀礼」を執り行ってきたのである。
 
私たちが帰属する「世界」の外側にある、多種多様なる異質な社会空間(「異界」)に囲繞(いにょう)されて生きるには、このような「境界」を設定することで、その「異界」との往来に様々な儀式(「通過儀礼」)を執り行い、「異界」からの侵入の不安に対応していく外になかったのである。
 
思うに、自我によって生きる人間は、森羅万象に優劣の価値づけを措定(そてい)して生きていかない限り、自分が守るべき文化的・経済的・物理的、そして何よりも、自らが拠って立つ特有の精神世界を維持することが叶わないのである。
 
私たちは、その人格的・内面的なものにまで、眼に見えない商品価値性を被せて、その日常性を繋いでいるということだ。
 
要は、そのような優劣意識が、偏見や狭隘な信仰・イデオロギーと結びついて膨れ上がってしまうと、それが明らかな「差別意識」となって、身体表現としての「差別行為」に繋がる危険性を大いに孕(はら)んでしまうのである。
 
人は皆、それぞれの「意識」の個人差があっても、何某(なにがし)かの形で「差別意識」を抱懐(ほうかい)してしまう事実を認めざるを得ないのである。  
 
ただそれが、過剰なほど膨張しているか、或いは、理性的に抑制されているかによって、決定的な分岐点が発生すると言っていい。
 
だから私は、観念としての「差別意識」と、身体表現としての「差別行為」を峻別(しゅんべつ)せねばならないと考えている。
 
特定他者に対して、「差別意識」を抱懐(ほうかい)してしまうのは、殆ど人間の性(さが)である。
 
特定他者に対する「差別意識」から、全く無縁な自我を立ち上げるほど、私たち人間は気高くないのである。
 
繰り返すが、その「差別意識」を「差別行為」に変換させずに、それを制御し、目立たせることなく封印させる能力が、私たちにはある。
 
そこに救いがある。
 
私たちは愚かだが、決して「丸ごと愚かなる者」ばかりではないのだ。
 

時代の風景  「 黒人差別に終わりが見えない ―― アメリカ社会のの深い闇 」よりhttp://zilgg.blogspot.jp/2018/04/blog-post_23.html