人間は限りなく酷薄に、愚かになり得る

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カンボジア発の「キリング・フィールド」(殺戮の野)は、現代史が生んだ最悪なる負の遺産の一つである。



それは僅か4、5年という短い時間の中で、あろうことか、自国民に対する大量殺戮の蛮行を、まさに自国の歴史にどす黒く刻んでしまったのである。

そしてそれが単に、カンボジアという、東南アジアの一国内で自己完結に至った問題ではない所にこそ、このジェノサイドの根の深さが窺えるのだ。 

 

古くは、トルコのアルメニア人虐殺(注1)に始まって、ナチスドイツのホロコーストや、スターリンの大粛清(注2)、更には、中国文化大革命という名の国家的規模の粛清と抑圧の嵐、中国のチベット人虐殺(注3)、近年の例で言えば、ルアンダでの大虐殺(注4)等々、その「虐殺」の歴史的事例は枚挙に暇(いとま)がないほどだ。

以上の例は、必ずしも自国民の虐殺という範疇に収まらないが、私がここで言及したいのは、それらの蛮行の根源にある問題は、私たち人間がその内部に抱えた、「過剰反応と、抑制能力の欠如」という宿痾(しゅくあ)のような問題であるということだ。

私たち人間は、本能によって定型的な活動が決定的に不足している分だけ、それを補填するものとして、「快不快」・「損得」・「善悪」など、脳の全ての働きにリンクし、その働きの中枢を司る全ての部位と関与している、「自我」という戦略的な能力を作り出してしまった。

れを作らなければ、「人間」に進化できなかったのだ。

逆に言えば、人間に進化する駆動力こそ、「自我」という決定的な能力であった。

それは、大脳を肥大させた人間の必然的帰結だったと言える。

 

自我は、人間が生きていくための生存・社会的適応の戦略的基盤である。

だから人間は、自我なしでは生きていけないのだ。

それは「現実原則」(損得の原理)によって、人間を抑制的に駆動させていくものだが、そこに「理想原則」(善悪の原理)という極めて厄介な心情ラインが、しばしば濃密に絡んでくることで現実原則の範疇を逸脱し、思いもかけない過剰な感情、行動傾向を形成するに至るのである。

自我は良心の砦でもあるが、それが「現実原則」と乖離して、そこに過剰な感情傾向、例えば、偏見とか極端な原理主義的な観念などに捕縛されてしまうと、本来、抑制的に機能し得るはずの自我機能が鈍磨してしまうのだ。(因みに、私は「フロイトの「超自我」(理性)を「自我」の内に含めている)


これが、最も厄介な問題なのである。

 

それは煎じ詰めれば、私たちの自我機能が万能でも磐石でもなく、その能力を超えた様々に複雑で艱難(かんなん)な事態に捉われてしまうと、その本来的な脆弱さを無残なまでに晒してしまうのである。

だからこそ、その脆弱なる自我を少しでも堅固にしていくための作業が求められるのである。

 

それが、乳幼児期以降の「養育・教育」の本質であると言っていい。

残念ながら、自我を作るのは親であるから、その親の人格能力の差が、その血脈を繋ぐ次の世代の自我の形を決めてしまうという問題があるということだ。



ともあれ、私たちの自我が本来的に脆弱であるという心理学的問題の最大テーマを、まず、私たちは認知せねばならない。

そんな自我に未知のゾーンから、理想的な夢物語の誘(いざな)いが絡み付いてきたとき、しばしば、人間はその理想ゆえに人を殺め、殆ど問題なく機能していたシステムを解体し、それに代わって「王国」を作り上げることをも厭わない。

「あいつは敵だ。敵は殺せ。殺せば、私たちの人類の真の平和と幸福を作り上げることができる」

 

こんなシンプルで乱暴な議論は、しばしば、理想主義者の黄金律になってしまうのである。

そのとき、人間の自我機能は殆ど麻痺して不全の状態にある。

自我を支配する私たちの厄介な感情傾向が凝固し、人間の行動様態を固め上げてしまっていると言っていいのかも知れない。

理想を「趣味」にするなら、人畜無害で特段に問題ないが、無理な理想を「主義」にしてしまう怖さに、私たちはあまりに無頓着過ぎないだろうか。


しかし、広い意味で、それもまた、自我の歪んだ様態という把握のうちに可能なのである。

私たちはそんなとき、しばしば適正覚醒水準の許容域を逸脱して過剰反応になり、大抵、必要条件としての自己統御能力を鈍磨させてしまうのだ。

過剰反応と自己統御能力の欠如は、時として、とんでもない世界に私たちを誘(いざな)ってしまうのである。


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