共喰い(‘13) 青山真治 <「漲る殺気」にまで下降できない青春の苛立ちと、その〈生〉の鼓動の「現在性」>

イメージ 11  「俺は、あの親父の息子ぞ!」
 
 
 
私が観た青山真治監督の作品の中でベスト。
 
田中裕子と光石研というプロの俳優の凄み満点の演技に喰われることなく、思春期後期の揺動感や情動の炸裂を表現し切った、主役の菅田将暉は出色の出来栄えだった。
 
全ての描写に無駄がなく、100分余でまとめあげた、骨のある邦画の構築的映像に深く感動した。
 
―― 以下、物語の詳細な梗概。
 
「俺が17のとき、親父が死んだ。昭和63年だった。仁子さんには、左腕の手首から先がなかった。戦争中、空襲に遭い、焼けて崩れた破片の下敷きになったんだ。両親とも空襲で死んでしまったので、仁子さんは川辺の魚屋に住み込んだ。川辺は海岸や駅の傍とは違って、戦後の開発から取り残されていた。しばらくの間、貧乏を凌ぐつもりで集まって来た人たちが、そのまま居着いてしまった、という土地になっていた。仁子さんは、そんな居着いてしまった男の一人、10歳年下の篠垣円(まどか)と夏祭りで知り合って、結婚した。年のいった手のない女を嫁にしようという男が現れるなんて、思ってもみなかった。しかし結婚してから、親父が女に関して色々あるということ、そしてセックスのときに殴りつけることをした。俺が生れて1年も経つと、また殴り始めたので、仁子さんは魚屋で、一人暮らしを始めた」
 
山口県下関市にある、「川辺」という土地での年間の出来事。
 
今や、成人となった本作の主人公・篠垣遠馬(とおま)が、17歳の夏休みの前の誕生日間近に、文学に寄り添ったようなこのナレーションから開かれていく物語は、貧乏を凌ぐつもりで集合した者たちが土着し、「川辺」という、沈降的に凝結する閉鎖系のコミュニティで暴れる、厄介なパターナリズムが曝す血縁の因果への、そこだけはどうしても終わらない「戦後」の、絡みつく〈状況性〉からの解放の可能性を「関係性」の反転的イメージのうちに包括し、その裸形でラジカルな風景を炙り出していく。
 
「セックスしよる間は思い寄らんけど、親父と俺、やっぱ、同じなんやなぁ。とにかくやるんが、好きなだけなんやなぁち」
「まあ君は、殴ったりせんよ」
「殴ってから気がついても、遅いやろが」
 
これは、恋人の千種(ちぐさ)と、神社の神輿倉(みこしぐら)でセックスした時の二人の会話。
 
父の愛人である琴子との三人で暮らす遠馬は、母が話したように、女なしに生きられず、その女たちに、「セックスのときに殴りつける」ような暴力的な異常性欲の父の血縁を呪いつつ、その因果を断ち切れない運命を怖れているのだ。
 
「なんで別れんの?親父が怖いけ?」
「うちの体がすごくええんって。殴ったら、もっとようなるんて」
 
左目の周りに痣(あざ)を作っている琴子との、この短い会話のうちに凝縮されている遠馬の感情は、その血縁を断ち切るために、遠馬の下に子供を儲けなかったと吐露する母の恐れと同質のものである。
 
殴る行為を否定する千種と、殴られても受容する琴子の「間」で呼吸を繋ぐ遠馬が、そこにいる。
 
遠馬にとって、夜の店で働く琴子への、セックス依存症(脳内から快感物質が放出される性的嗜癖症)とも思しき父の常軌を逸した振舞いは、狂気の沙汰でしかなかった。
 
以下、そのような暴力的な異常性欲を嫌って、魚を器用に捌(さば)くために特殊な形態をした義手の左手を駆使し、「川辺」の土地の、川一本隔てた魚屋で一人暮らしをする母・仁子と、遠馬との会話。
 
「なんで、ここでウナギ釣るんやろね」
「母さんが魚を捌いたあとの骨やら皮やらを川に捨てるけぇ、そこにウナギが集まるんよ」
「そうなん?」
「俺が父さんのウナギ釣るの付き合うんは、こなら3人、一緒におられるけん」
 
まさに、母・仁子が魚を捌いたあとの骨や皮を捨てた生物の残滓をウナギが喰い、風呂場から遠馬の精液や、下水が流れ込む川に蝟集(いしゅう)するウナギを、父・円が釣って喰うという関係の構造こそ、適切な距離感を保持し得ずに、「川辺」の土地で絡み合って生きる「共喰い」のイメージを濃密に想起させるのである。
 
それは唐突だった。
 
琴子が妊娠し、それを告げられた遠馬は、父との激しいセックスを覗き見していたその生々しい記憶が惹起したのか、思春期の身体が揺動し、興奮してしまうのだ。
 
その直後の映像は、いつもの神社で千種を押し倒し、抵抗する彼女の首を絞めてしまう17歳の高校生の、抑制の効かない身体が置き去りにされていた。
 
コンドームを装着せずにセックスに及ぶ行為に、千種が拒否反応したのである。
 
父の血縁の因果を怖れる遠馬自身が、まさに今、暴力的な異常性欲を延長させる父の身持ちの悪さをなぞってしまうのである。
 
「なんねん、さっきから。恐ろしげな目してから」
「なん?」
「同じ目、しちょるち言いよそ。もうちょい、こっちに似せて産んじょきゃ良かったけど、だけど手遅れやね。あんだけ、あっちこっち出入りしよるすに、結局、まともに育ったんは、あんた一人よ。あの男の子供を産める女、ウチぐらいなもんにゃろ、もう」
「もう一人産めたはずなのに」
「産んじょったら、あの男の子供になっちょるところやね。その前に、ひっ掻き出したけ、うちの子供になったそ」
 
凄い会話である。
 
遠慮なく直言する仁子の性格と、それを受容する遠馬との距離感が、このような母子の関係を形成してきたことを検証し得る会話でもあった。
 
祭りが近付いてきた。
 
千種との関係を噂で知った母・仁子は、遠馬が千種に暴力的な性的振舞いをした事実を見抜き、益々、円との「呪われた血」を感受し、強く戒める。
 
「あんた、死んでくれへん!」とさえ罵られた千種との性的関係が閉ざされた遠馬にとって、今や、そのストレスの捌け口を、他の特定的異性との関係で埋めねばならないほどに、父との血縁的近接感を知らしめるのだ。 
 
「噂が町全体を作っている。 その噂のネットワークが、まさに遠馬を閉ざしている、 遠馬を監禁している場所ということ」(『共喰い』青山真治監督インタビュー - 一個人)
 
青山真治監督の言葉である。
 
確かに今、町全体を張り巡らしている噂のネットワークが、遠馬の思春期自我を覆いつつも、出口を求めて氾濫する、17歳の情動を監禁するクリティカルポイント(限界点)を迎えつつあった。
 
琴子との物理的・心理的な最近接によって、毎日、精液を風呂場から川に流し込む遠馬が、思春期後期の情動氾濫に弄(もてあそ)ばれている。
 
その琴子から円を捨て、家出する覚悟を聞いたのは、そんな時だった。
 
「今まで散々やられてきたけ、最後くらいは。何もされんちに行ってしまいたいんよ」
 
妊娠した琴子の代わりに、円が通う「アパートの女」の所に行って、コンドームなしで下半身の処理をする遠馬。
 
「川辺」の土地が蘇生する夏祭りの日。
 
すっかり攻撃的になった遠馬の元に、千種がやって来た。
 
ヨリを戻しに来たのである。
 
「ウチは、会いたかったんやけ」
「お前、俺になにされたか、覚えちょろうが」
「今度やったら、殺す。それでええやろ」
「ええこと、あるがじゃ。俺、絶対またするぞ。俺は、あの親父の息子ぞ!」
 
そんな強がりを言って、千種を追い返す遠馬が、今、「川辺」の土地で、「青春前期」の呼吸を繋いでいる。
 
 
 
 
(人生論的映画評論・続/共喰い(‘13) 青山真治  <「漲る殺気」にまで下降できない青春の苛立ちと、その〈生〉の鼓動の「現在性」>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2014/11/13.html