1 テヘランに「帰郷」した男と、その男を迎える女の複雑な事情
パリの空港にやって来た男が、自分を待つ女を苦労の末、視認するが、ガラス戸越しで会話しても、その会話の内容は、本人たちにも充分な意思疎通が取れているように思えない。
当然、観る者には、二人の声がガラス戸によって消されているので、会話の内容など分りようがない。
だから、ジェスチャーで男を指示する女の非言語コミュニケーションによって 男が動き、土砂降りの雨の中を、恋人から借用した女の車に乗り込んでいく映像をフォローするだけとなる。
この印象的なファーストシーンンは、物語の登場人物たちの言語交通が円滑に機能しない関係の構造性を隠喩していて、観る者を一気に惹きつけるのに充分な導入だった。
女の名はマリー。
男の名はアーマド。
このアーマドが、パリ郊外に住むマリーの家に到着するまでの、噛み合わない会話の中で分ったのは、ホテルに泊るつもりでいたアーマドが、かつて約束を違えた一件があったことでホテルの予約を取らなかったこと、娘のリュシーを学校に迎えに行っても、本人が先に帰宅してしまったこと、そして、そのリュシーとの関係が2カ月間ほど会話ができないような状況を呈していること、だから、娘が懐いているアーマドに話をして欲しいとマリーが望んでいることなどである。
如何にも子供好きなアーマドが、マリーの自宅で出会った二人の児童。
一人は、リュシーの妹のレア。
もう一人は、アーマドと初対面のフアッド。
その二人の子供と対面し、言葉を交わすアーマドが、母国のイランからフランスに来た目的が、かつての妻であるマリーの要請で、家裁での正式な離婚手続きをするためであることが、まもなく判明する。
それは、現在、別の男と同棲中のマリーにとって、どうしても回避できない手続きだった。
マリーの自宅に来て、アーマドがいきなり見せつけられた風景は、ペンキを零して部屋を汚したフアッドをしかり、外に逃げる少年を追い駆け、その激しい抵抗を押さえ込み、捕捉して部屋に監禁するマリーの異様な行動だった。
「家に帰る!ママでもないくせに!」
激しくドアを蹴って抵抗するフアッドの叫びである。
この時点で、フアッド少年が、マリーと同棲中の男の連れ子であることが判然とする。
そのフアッドを部屋から出して、優しく語りかけるアーマドの人間性は、些か攻撃的な少年の心を浄化させる能力が滲み出ているようだった。
一方、マリーは、同棲相手の男が、パリ市街で経営するクリーニング店に会いに行き、アーマドが到着したことを告げ、車の免許証を戻した。
同棲相手の男の名はサミール。
マリーに頼まれたアーマドが、帰宅して来た娘のリュシーと話したのは、その夜だった。
「あのバカの顔を見たくないだけ」
リュシーから発せられた最初の言葉である。
「悪い男なのか?」
「別に・・・子供もいるし、妻は植物状態よ」
「フアッドのママか?」
頷(うなず)くリュシー。
「相手が他の男だったらいいのか?」
「同じよ。私が生まれてから、ママの夫は3人目。どの夫も同じ。出会って、数年暮すと出ていく」
途中でマリーが帰宅したので、この会話は中断されたが、ここで重要なことが明らかにされる。
更に、アーマドがマリーの二番目の夫であり、何某かの事情で離婚し、母国イランに戻ってしまったという事実である。
「君の再婚を喜べなんて、僕にはとても言えない。再婚を決める前に、あの子を説得した方がいい」
リュシーとの話の一部を、マリーに説明したときのアーマドの言葉である。
「あの子の考えが知りたいだけ。もう決めたの」
サミールの子を妊娠しているマリーの反応である。
まもなく、家裁において、二人の離婚は成立するが、あとは判事の裁可を得るだけの状況になった。
そして、この一連の〈状況性〉の映像提示の中で判然としたのは、フランスでの生活に適応し得なかったアーマドが自殺を考えるほど煩悶し、テヘランに「帰郷」してしまったと想定できる現実である。
2 「物言わぬ女」が動かす物語で曝された裸形の相貌性
アーマドとリュシーとの二度目の会話。
「自殺未遂」
「鬱病のせいで?」
アーマドの質問に、突然泣き出すリュシーは、アーマドの友人・シャーリヤルの店の控え室で、静かに吐露する。
「なぜ、自殺を内緒にするか分る?ママは怖いの。自分が自殺の原因だから・・・だから、一緒になって欲しくない。二人が再婚したら、あの家に二度と戻らない」
嗚咽の中で語っていくリュシーが、母の妊娠をアーマドから知らされ、その衝撃を抑えられないのだ。
「あの男が好きなのは、あなたに似ているからよ」
別れ際、リュシーがアーマドに放った言葉である。
置き去りにされたアーマドに、マリーはセリーヌの状況を説明する。
「奥さん、ずっと鬱だった。お店に行くたびに鬱が進んでて・・・」
「なぜ鬱に?君を見て悪化したのかも。5歳の子の母親が、鬱だからと自殺するかな」
この言葉に反発するマリー。
「よく言うわ。自分のこと、忘れた?奥さん、子供が9カ月のときにも自殺未遂を。鬱は出産直後に始まったの」
リュシーの言葉に重なるようなこの会話の中で、マリーとアーマドとの離婚に至る心理的風景が垣間見えるが、一切は不分明である。
「まだ、終わってないように見えるが」
アーマドへのサミールの言葉である。
「なぜ、そう思う?」とアーマド。
「4年経っても喧嘩するんだ。まだ終わってないさ」とサミール。
それを否定するアーマド。
「俺の子を妊娠ているのに、ストレスで煙草ばかり・・・」
サミールの鋭い指摘に対して、アーマドは本音を吐露する。
「それは僕も心配だ。前は吸わなかった」
そう言った後、アーマドは、サミールの妻・セリーヌの問題に触れていく。
「奥さんの自殺の原因を憶測した」
「自分の母親の浮気が原因と?」
「そうだ」
「勘違いだな。お客とバカな事件を起こしたからだ」
「鬱病では?」
「鬱じゃなければ、あんなことで自殺しないさ」
これだけの会話だが、観る者を心理ミステリーの世界に引き込んでいく物語の展開は、益々、冥闇(めいあん)の森に踏み込んでいくようだった。
その日、リュシーの帰宅が遅れ、心配する3人の大人たち。
結局、先の店主・シャーリヤルの所にリュシーが居たことが判明し、シャーリヤルの自宅に連れ帰ったということだった。
このリュシーの撒いた種が、3人の大人たちを混乱させるのだ。
<事態が惹起した「過去」の重みの記憶に翻弄される者たちが刻む風景>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2015/06/13_21.html