二人で選ぶ外国映画96選(アメリカ篇)

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アトランダムに選んだランキングなしの、主観的な「秀作」の抜粋である。
一般的に評価されている作品であっても、共に気に入った作品が前提条件なので、漏脱(ろうだつ)されている「秀作」が多くあるが、どこまでも、私たち夫婦の拘泥(こうでい)が強く反映された、寸評を附与した「選」になっている。【文・ヨシオ・ササキ】
 
サイダーハウスルール('99) ラッセ・ハルストレム
 
「人生の重み」。これが、「若者の成長の軌跡」を描く映画のコアにある。孤児として生まれながらも、「永遠の孤児」=「特別な子」として育てられたホーマーにとって、「セント・クラウズの秩序」の狭隘な世界の本質は、単に、体験的に馴致(じゅんち)させられただけの時間の累加でしかなかった。「人の役に立て」。院長にそう言われても、ホーマーには、「セント・クラウズの秩序」以外の外部世界を全く知らないのである。だから、旅に出た。そして、その旅で決定的に変わっていくのだ。
 
 
こわれゆく女('74) ジョン・カサヴェテス
 
インディーズ・ムービーの一つの到達点を示す、殆ど満点の映画。意思疎通が上手くいかない夫婦の思いが沁みるように伝わってきて、言葉を失うほど感動した。夫婦を演じたピーター・フォークジーナ・ローランズのプロの演技力の凄みが圧巻だった。
 
 
 
これは、「約束された死」への境遇が実感的に迫る、「老境」に対する基本的スタンスが異なる老姉妹が、それによって生じる葛藤の心理的補完を、一方が他方に依存的に求める「対比効果」(対比によって、一方の特徴を際立たせる効果)の技法のうちに、鮮やかに浮き彫りにした一級の名画である。
 
 
 
人間はこんな未来しか残せないのか、と観る者に寒気を覚えさせるような底が抜ける映像を、セットデザインに拘泥するスタイリッシュな映像作家、リドリー・スコットは構築し切った。人間の未来を脳天気にしか語れない愚かさに対して、人間が狂躁と昂揚のうちに作り出した文明の利器を十全に管理し切れない、その能力的欠損、脆弱性への自己認知を迫るというその一点によって、私は本作を最大限、評価する。
 
 
クルーシブル('96) ニコラス・ハイトナー
 
「国家レベルで吹き荒れた魔女狩り」でもあった中国の「文革」の渦中で、「個人の良心」が丸っ切り機能し得なかったように、人間が開いた「集団ヒステリー」が、「負のスパイラル」の「非日常の日常化」という時間のピークアウトの状況に呑み込まれてしまったら、「個」としての人間の圧倒的な脆弱さを晒す以外にないだろう。それが、「クルーシブル」のモデルになった「セイラム事件」への率直な感懐である。
 
 
 
この映画が秀逸なのは、「風景の映画」としての包括力を持って、「青春映画」のコアの部分を巧みに吸収する表現力を構築し得たからである。「風景の映画」 ―― それは「土地の風景」であり、「時代の風景」であり、その時空で呼吸を繋ぐ「若者たちの心の風景」である。「青春映画」のコアの部分とは、「葛藤」・「友情」・「別離」ということになるだろうか。「ラスト・ショー」もまた、大枠ではこの文脈を逸脱しなかったが、それ以上に、この映画は「風景の映画」としての独特の映像世界を構築したのである。
 
 
 
完璧な映画だった。私が最も好きなアメリカ映画の一作である。この映画だけが、“逸脱し、無軌道に走った者たちのその後の人生”のハードな現実を描き切った。「異文化的」な二つの個性が偶発的に邂逅し、しばしば小さな摩擦を繰り返しながらも、予想着地点の辺りで頓挫することを運命づけられたもののようにして、補完的に絡み合った「逸脱者」たちが結んだ友情の、極めて曲線的で人間臭い物語 ―― それが「スケアクロウ」だった。
 


心の風景  「 二人で選ぶ外国映画96選(アメリカ篇)」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/08/blog-post_12.html