人間とは何か

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1  「欲望の稜線伸ばし」を捨てられないホモサピエンスの宿命
 
 
現在、並列して処理する部分の多いアルゴリズム(問題を解くための計算手法)を見つけ、これを複数のコンピューターを使用・実行・処理を可能にする高度な「並列処理」=「パラレル処理」を確保する。
 
この能力を持つ人間の大脳と等価値を有する「人工知能」(AI)を手に入れたとしたならば、一体、人間存在とは何であり、その存在価値とは何であるのか。
 
コンピューターと人間の関係に係わる、この古くて新しい根源的問題こそ、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」での、「HAL」の「反乱」のシークエンスから得た私の問題意識の内実であった。
 
まさに、それは「人間とは何か」という根源的問題の提示と言っていい。
 
然るに、生産に関与する目的達成の様々なスキルの体系としての高度な技術が進歩し、21世紀段階において、私たちが手に入れる情報量がどれほど加速的に増幅したとしても、それを駆使する主体である、私たちホモサピエンス(現生人類)の精神世界の内実は、幸福追求のためには正しい活動が重要であると指摘した、紀元前4世紀のギリシアの哲学者・アリストテレスの「ニコマコス倫理学」以来、大して進化していない現実を認知せざるを得ないのである。
 
「人類の知性は2千~6千年前ごろをピークにゆっくりと低下し続けているかもしれない――。こんな説を米スタンフォード大のジェラルド・クラブトリー教授が米科学誌セル(ライフサイエンス分野における世界最高峰の学術雑誌)の関連誌に発表した。教授の論文によると、人類の知性の形成には2千~5千という多数の遺伝子が関係しており、ランダムに起きる変異により、それらの遺伝子は、働きが低下する危険にさらされている。一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころは、知性や感情の安定性に優れた人が生き残りやすいという自然選択の結果、人類の知性は高まっていった」(朝日新聞デジタル・2012年11月20日)
 
この指摘は、極めてインパクトの強い研究仮説だが、実感的に相応の説得力を持っているように思われる。
 
思うに、「獲得経済」(狩猟・採集経済)から「生産経済」(農耕・牧畜経済=「食料生産革命」)にシフトしてから、高々1万年のスパンしか経由していないにも拘らず、この間、人類は高度な文明社会を作り上げてしまった。
 
これは、人類史上、尋常ではなかった。
 
旧石器時代における、「獲得経済」に見合った「感情」を進化させてきたが、この「感情」が根強く残った状態で、高度な文明社会と共存するに至ったからである。
 
「獲得経済」の狭い世界で馴致(じゅんち)・進化した「感情」が、そのまま、文明社会でも「適応」を余儀なくされるのだ。
 
 
だから、「獲得経済」の「感情」が十全に「適応」できず、そこで貯留されたストレスが、「不適応」によるモラル・パニックを必至にする。
 
この現象は進化論的な立場に依拠し、感情を認知システムの総体で捉えることで、人間の生き延びに必要な感情を「アージ」と呼ぶ、「アージ理論」で有名な戸田正直が言う、「野生合理性」である。
 
感情は、感情の起源となる逃走・脅かし・攻撃といった「状況対処行動」のシステムとして、何億年という年月をかけて動物の種の進化と共に進化し、その間に大きなシステム的拡大と複雑化を達成してきたものと仮定することで、野生環境の特徴に適合した適応行動選択システムとして高度の「野生合理性」を持っていたと指摘するのである。
 
ここには、感情が進化の結果によって獲得したものであるから、本来、環境に適応したものであったにも拘らず、人類は進化が追いつかないほど急速に環境を変化させてしまったので、現代社会では感情は不合理になってしまったという深い意味を持つ。
 
これが、「野生合理性」である。
 
高度なツールによる利便性の加速的、且つ拡大的獲得が、人類の細分化された知性のフィールドの形成に寄与するだろうが、「一瞬の判断の誤りが命取りになる狩猟採集生活を送っていたころ」に習得した経験的・実践的スキルの総合的能力と比較すれば、明らかに劣化していると言わざるを得ないのだ。
 
そんな「野生合理性」を引き摺りながら、私たちは高度な文明社会で呼吸を繋いでいるのである。
 
この高度な文明社会の目くるめく輝き。
 
今、途上国を脱し、「富の配分」と「負担の配分」という厄介な均衡の問題を顕在化させる、「中進国の罠」(豊富な労働力で成功した新興国の先進国入りの困難さ)に搦(から)め捕られている多くの国々を含めて、私たちは、少しでも手の届くところにまで近接した「夢」を、高度な科学技術のサポートを得て、矢継ぎ早に具現させてきたことで、私たちの欲望の稜線は限りなく伸ばされ、極めて利便性の高い社会の中枢に縋り付いているのだ。
 
良くも悪くも、終わりの見えないこの連鎖に簡単に馴致・鈍磨(どんま)し、無頓着になっていくという稀有な能力を有する人間の特性は、激変する歴史のシビアな洗礼を受けても、一時(いっとき)の相貌の変容を露わにするだけで、「欲望の稜線伸ばし」を捨てられない固有の熱源が枯渇するイメージとは無縁に、その復元力の強靭(きょうじん)さによって、恐らく微動だにしないだろう。
 
それは、私たちの性(さが)であると言っていい。
 
「欲望の稜線伸ばし」を捨てられないからこそ、人間は「文明」を作り、それを、より快適なものにする努力を繋いでいく。
 
これは、もう「善悪」の問題の埒外(らちがい)にある。
 
本能を劣化させてきた分だけ、自我に依拠する以外にない人間の一切の営為が、常に自らを危うくさせるリスクと共存してしまうのも、私たち人間の特性である。
 
それ故にこそ、人間が本質的に誤謬を犯す存在体であるという冷厳な認知なしに、私たちは、未来を正確に予測できない能力の過誤を受容し得ないのだ。
 
一つの重大事故の背後には約30の軽微な事故があり、その背景には、300もの目立たない小さな危機(「ヒヤリハット」)のシグナルが点灯されるという有名な「ハインリッヒの法則」が、多くの研究者の追試によって、いよいよリアリティを増してきている深刻な事態を認知するとき、人間の過誤に起因するヒューマンエラーの事故の頻度の高さは、たとえ、そこに「失敗学」(失敗原因を究明する学問)の関与があっても、同じ愚を繰り返す現実を途絶できないのである。
 
私たちホモサピエンスは、以上のような根源的問題を内包する存在体であるが、それにも拘らず、コンピューターの機能と決定的に分岐する能力を有する事実を否定し難いだろう。
 
確かに、コンピューター将棋ソフトとして名高い「ボンクラーズ」と対局すれば、永世棋聖の称号を保持する米長邦雄に勝利したが、対峙する課題に対して直感的なイメージ把握力を有する人間の能力には、脳機能の様々な分野が複雑に絡み合って集合しているので、融通無碍(ゆうずうむげ)な発想力を自在に駆使することで、しばしば、抜きん出た〈状況対応力〉を全開させるのである。
 
環境や集団などによる差異や個体差が大きくとも、想像力を刺激することによって美意識が分娩され、個々の人間の感性濃度を高め、独特の思考様式をも生み出していく。
 
常に、「新しい価値」を創造する「ハイコンセプト」の独壇場である。
 
これが、「欲望の稜線伸ばし」を捨てられない、私たちホモサピエンスの宿命なのだろう。
 
人間の行動が偶然性に左右されやすいのは、この融通無碍な発想力によって、多くの場合、杓子定規(しゃくしじょうぎ)にのみ流れていくことを抑制する思考回路が機能し、「正常性バイアス」(外界の刺激に大きく振れないように、日常性を確保する心理)によって自我を守り、それが相応のバランス感覚を保持し得るのだろうが、時には大きく反転して、激越な状況の波動に呑み込まれ、〈状況対応力〉が摩耗し、過剰な反応をも露呈する。
 
「自我機能」が適性に作動しないで途方に暮れてしまうのだ。
 
それが人間であり、その本質的脆弱性の否定し難い様態なのである。
 
そんな人間の本質的脆弱性の否定し難い様態とは切れて、コンピューターが複雑に絡み合った人間の脳に匹敵するに足る「人工知能」を獲得したら、まさに、人間の存在価値の在(あ)りようが問われてしまうだろう。
 
そのとき、果たして、コンピューターと人間との共生が可能であるのか。
 
「並列処理」し得るアルゴリズムを見つけ、複数のコンピューターを使用・実行・処理を可能にする「パラレル処理」を確保するに至ったコンピューターが、「ブレードランナー」(リドリー・スコット監督)のレプリカントのように感情を持ってしまったら、コンピューターと人間との分岐点はどこにあるのか。
 
その根幹が、今、問われているのである。
 


心の風景 人間と歯何か」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/08/blog-post_21.html