ホラー映画とは何か

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1  ホラー映画の王道から逸脱した不条理ホラーの独立峰
 
 
 
観る者に「恐怖感の享受を予約」する映画 ―― 狭義に言うと、私はそれをホラー映画と呼んでいる。
 
だから、残酷描写を売り物にするスプラッターが、広義のホラー映画に含まれることを認めても、必ずしも、「恐怖感の享受を予約」するホラーとは言い切れないのである。
 
スプラッターの残酷描写を連射しても、観る者が恐怖感を享受するとは限らないからである。
 
残酷描写の連射に馴致(じゅんち)してしまって、かえって嫌悪感を抱いてしまうだろう。
 
それ故、残酷描写を寸止めにして、スプラッター性の濃度を希釈化させ、「恐怖感の享受を予約」する観客に、緊張感を持続し得る心理的構えを保証するテクニックが求められる。
 
考えてみるに、スプラッタームービー(残酷描写の多い映画)の元祖と称される、トビー・フーパー監督の記念碑的作品「悪魔のいけにえ」には、残酷描写が殆ど映像提示されていないこと ―― これが、とても気になったので、この映画をベースに「ホラー映画」の本質に言及していく。
 
他のレビュアーの感想と見方が異なるかも知れないが、「悪魔のいけにえ」には、観る者に「恐怖感の享受を予約」するホラー映画としての迫力がないのだ。
 
だから、怖さをあまり感じない。
 
気持ち悪いだけなのである。
 
言うまでもなく、「恐怖感」と「気持ち悪さ」は同質の感情ではない。
 
結論から言うと、不安・恐れを抱いてから凶行までの心理の揺れ(悪いことが起こるのではないかという恐れや、もしかしたら、何でもないのではないかという安堵感)が精緻に描かれていないこと。
 
これが大きかった。
 
通常、観る者は、「予定被害者」の心理の揺れに感情移入するのである。
 
「予定被害者」への感情移入なしに、観る者は怖さを感じることは難しいだろう。
 
ここで、私は勘考する。
 
私の独断と偏見に基づいて、初っ端(しょっぱな)から言ってしまえば、ホラー映画の王道とは、以下の要素が多く含まれていることと考えている。
 
1 ストーリー性と構成が単純なこと
2 空間が閉鎖的であること
3 被害者が一貫して理不尽な状態に置かれていること
5 徹底した「描写のリアリズム」
6 形而上学的テーマを不要にすること
7 その不条理性によって、人間臭さが限りなく削られている こと
8 笑いなどの、弛緩(しかん)的要素が基本的に排除され    ていること
 
以上のコンセプトから、この映画を読み解いていきたい。
 
まず、1から6までは全て該当する。
 

太陽の紅炎(ガスが噴き上げる現象)が映し出される冒頭のシーンは、「巨大なる破裂」をイメージする物語のオープニングをシンボライズしていると思われるが、それが特段に、6の「形而上学的テーマ」を強調する意図があったと解釈するには無理がある。

 
1の「ストーリー性と構成の単純さ」については、「旅行中の5人の若者たちが、殺人一家に怒涛のように襲撃される惨劇」の物語という一言で、説明が事足りるだろう。
 
また、構図・構成・美術・音声(チェーンソー⇔絶叫音)において、シンプルなフォルムを基調とするミニマリズムも、この映画の特徴である。
 
その辺りが、インディーズ系のアート性が、この映画の訴求力を高める要因かも知れない。
 
 
 
心の風景 「ホラー映画とは何か」よりhttps://www.freezilx2g.com/2019/01/blog-post_20.html