「思うようにならない人生の極みのさま」 ―― 人生の真実を描き切った成瀬映画の真骨頂

イメージ 1

1  人間の運命の、多岐にわたるリアルの有りようをフィルムに刻み付けた映画監督
 
 
 
私はハッピーエンドの映画が嫌いだ。
 
「予定調和のハッピーエンド」 ―― こうなると、もうお手上げである。
 
人生が「予定調和」に流れていかないからこそ、人間の運命の、多岐にわたるリアルの有りようが、悲劇性と滑稽感を混在させる人生を胚胎させ、私たちの生理的寿命(限界寿命)の凹凸のある展開の、その振れ幅の大きさの中で、「生き延び戦略」を駆使して呼吸を繋いでいくのである。
 
「せめて映画でも」という甘美な発想が嫌いなのだ。
 
人生は思うようにならない。
 
当たり前のことである。
 
その当たり前のことを、安直に逆想させるオプチミズムが嫌いなのである。
 
観る者にカタルシスを保証して自己完結させてしまえば、一時(いっとき)、気分を晴らせても、心の深奥にまで中々喰い込めない。
 
無論、そういう映画があってもいいが、私には馴染まない。
 
思うようにならない人生の極みのさまを、例えば今村昌平のように、まるで蛆虫(うじむし)が蝟集(いしゅう)するが如く、限りなく粘度を上げ、うんざりするほどネチっこく描く映画も好きだが、どちらかと言うと、強い粘性を持って、執拗過ぎるほどの描写をフィルムに刻むことを拒絶した成瀬己喜男のように、爆轟(ばくごう)を寸止めできる作品の方が好きだ。
 
だから、成瀬己喜男監督の映画を選択的に観ることになる。
 
 
それも繰り返し観る。
 
観れば観るほど好きになる。
 
嗜癖であると言っていい。
 
「小津は二人いらない」
 
松竹蒲田撮影所のワンマン所長・城戸四郎が言い放ったという伝説がある。
 
成瀬巳喜男―透きとおるメロドラマの波光よ」にも書かれているそうだが、残念ながら、私はこの著書を読んでいない。
 
城戸四郎の観察眼を揶揄(やゆ)する気は更々ないが、小津の映画については、「秋刀魚の味」・「東京物語」・「麦秋」・「小早川家の秋」などで、批判含みに散々書いてきたこともあり、今更、その根拠を説明しても何の意味がないので、言及するつもりはない。
 
ただ、小津安二郎監督の遺作・「秋刀魚の味」の冒頭に書いた一文は、「小津的映画空間」を閉じるに相応しい残像を引き摺っていると思えるので、以下、それを引用する。
 
―― 死を極点にする「非日常」を包括する「日常性」を、様式美の極致とも言える極端な形式主義によって、そこもまた、根深い「相克」や、「祭り」の「喧騒」、「狂気」を内包する「騒擾」(そうじょう)を削り取ることで、永久(とわ)に続くと信じる我が国の、「穏和」と「ユーモア」が溶融する、極めてミニマムな「映像宇宙」の中に、パーソナル・エリアを最近接した者たちと、「日常性」という「安寧の時間」を「共有」してもなお生き残される、「絶対孤独」という「無常感」の「儚(はかな)さ」。
 
この「儚さ」を、様式化された「構図」の中に詰め込んで、それを破壊しないレベルで、そこはかとなく漂う心象風景を特定的に切り取った「映像宇宙」 ―― それが、「小津的映画空間」である。
 
小津安二郎監督にとって、この「映画空間」を具現するに相応しいジャンルこそ「ホームドラマ」であった。
 
そこで表現される「ホームドラマ」のミニマムな世界で、小津監督は、映画作家として様々な試行の果てに培って、そこで到達したと信じる一切を自己投入していったのである。
 
しかし、小津監督の構築した「ホームドラマ」が普遍性を獲得するには、「時代」との相応の睦みが保証されていなければならなかった。
 
この「時代」との睦みが保証されるには、小津監督が欲したであろう、我が国の「古き、善き原風景」の生命力が、決して安楽死しないと信じられる、絶対規範とも呼ぶべき何かが必要だった。
 
ところが、「時代」の目まぐるしい変遷は、小津監督の欲したイメージを遥かに超えていた。
 
本作の中で、長男の幸一夫婦の会話が、時代を映す鏡のように描かれていたことが印象深い。
 
ゴルフクラブを購入したい夫と、それを贅沢と詰(なじ)る妻もまた、自分の消費欲求を口に出すシーンである。
 
このシーンに象徴されているように、目眩(めくるめ)く変容を遂げていく時代は、「より豊かに、より快楽に溢れた文化」を作り出してしまったのである。
 
それが、東京オリンピック(1964年製作)の開催を間近に控えた、この国の大衆社会の不可避な自己運動であったからだ。
 
「晩春」(1949年製作)と殆どテーマを同じにする、この遺作の時代背景には、「晩春」が作られた時代よりも、「三種の神器」に象徴される高度経済成長という、大衆消費文明の自己運動が遥かに剥(む)き出しになっていて、小津監督が構築した「ホームドラマ」のイメージの理念系を置き去りにする尖りが内包されていたのである。 ―― 以上。
 
ここから、殆ど駄作がない、成瀬映画の天晴れな映像群について言及していきたい。
 
但し、川本三郎の「成瀬巳喜男 映画の面影」(新潮社)を紹介するブログの中に、成瀬映画をチャプター順にコンパクトに要約しているので、書き出してみる。
 
この著書も読んでいないので、「BOOK」データベースから。
 
「戦前の松竹では『小津は二人いらない』と言われ、戦後の東宝では名作を連打しながら、黒澤作品の添え物も撮った監督成瀬巳喜男。『浮雲』の高峰秀子『めし』原節子、『流れる』の山田五十鈴、『鰯雲』の淡島千景、『おかあさん』の香川京子…なぜ彼の撮った女優はかくも美しく、懐かしいのか? 『行きつく映画は成瀬』と言う著者が愛惜を込めて刻んだ名匠の世界」
 
以下、「成瀬巳喜男 映画の面影」に綴られた「成瀬賛歌」のチャプター。
 
1 「貧乏くさい監督」
 
「おかあさん」の貧乏ギャグ/みんなボロ靴を履いている/勇ましいものが嫌い/瓦解のあとで
 
2 消えゆく芸者の美しさ
 
「流れる」の輝き/生活派が見た芸者/柳橋の落日/消えてゆくものこそを
 
3 金をめぐる物語
 
独力で生きるために/塩豆をかじりながら/算盤をはじく高峰秀子/金から始まる恋愛
 
4 女に金を借りる男たち
 
薄幸な女給たち/銀座裏に漂う残り香/甲斐性のない昔の男/田中絹代の投げキス事件
 
5 愛すべき市井劇「おかあさん」
 
個人商店の魅力/戦争未亡人が笑うとき/「母もの」と一線を画す市井劇/香川京子の涙
 
6 「私たちって、行くところがないみたいね」
 
「南方」という「極楽」/タイピストという職業/彼女にとっての「宮殿」/世界には二人しかいない
 
7 卓袱台のある暮らし
 
八月十五日のあとも/犬や猫の役割/「二階借り」で「ガリを切る」/またしても絶妙な貧乏ギャグ
 
8 郊外農家の人びと
 
口ぐせは「不経済だ」/「春嫁」と「秋嫁」/旧世代と新世代の間で/すがすがしい恋
 
9 未亡人たちの強さ
 
姦通罪がなくなった時代/祭のあとの覚醒を見つめて/原節子よりも魅力的な未亡人たち/ひそやかな恋愛映画/女を美しくさせる視線
 
10 路地に生きる単独者
 
裏通りの「看板建築」/鎌倉は似合わない/棒天振りの豆腐屋と包丁研ぎ/荷風の視点
 
11 妻たちの不信のとき
 
挫折と再生の繰返し/暴れる女/異色作「女の中にいる他人」/弱い男と強い女と
 
12 子供たちを見つめる
 
ユーモラスな小僧たち/大人に気を使っている/築地川界隈への思い入れ/解決を与えない
 
―― 「行きつく映画は成瀬」と言う川本三郎の思いに、私もまた、迷いなく共感する。
 
このチャプターに、成瀬映画の基本骨格が凝縮されていると言っていい。
 
思うに、成瀬映画は残酷である。
 
私たちの人生の真実の艱難(かんなん)な行程の中に、悲劇性と滑稽感が混在しているからである。
 
人生の真実を描き切れば、映画の色調は残酷なイメージを必至にする。
 
成瀬映画の残酷さの度合いは、「思うようにならない人生」の軌跡を有する男の内面世界の中で、人間の運命の、多岐にわたるリアルの有りようをフィルムに刻み付けた映画監督にとって、殆ど自家薬籠中の物(じかやくろうちゅうのもの)であったのだろう。
 
穏やかそうな顔をして、成瀬は容赦なく、その残酷な映像宇宙を観る者に届けてくる。
 
しかし彼は、修羅場を描かない映画監督であった。
 
だから、前述した通り、彼の多くのモノクロフィルムには、ドロドロとした執拗過ぎるほどの描写が刻まれることはなかった。
 
人の死の描写や、男女の愛欲の濡れ場のシーンも全くなく、ましてや、平気で人を殺めたり、暴行を重ねたり、徹底して甚振(いたぶ)るような描写などは、確信的に削られている。
 
木下恵介豊田四郎新藤兼人熊井啓といった、多くの著名な映画監督のような、ゴテゴテした、画面一杯に熱気をむんむんさせる描写とは無縁に、彼は常に、刺激的で過剰な表現を映像に刻み付けることを拒んだ映画監督でもあった。
 
成瀬己喜男は切れ味の鋭い、ラストシーンの決定力で勝負するような監督ではなかったののである。
 
彼の映像には、取るに足らないような瑣末な日常描写を、少しずつ、繰り返し累積させていくことで、いつのまにか、エンドマークに流れていく作品が多いという印象が強い。
 
しかし、それらの描写のいずれもが、その作品の中で不可欠な要素を構成していることが、最後に了解されるに至るのだ。
 
だから、彼の描写には全く無駄がない。
 
むしろ削って、削り抜いて最後に残った、最も重要な主題に脈絡するような描写だけが、いつもそこに残される。
 
残されたものを貫流する作り手の思いが、そこに浮き上がってきて、最後に、極めて完成度の高い表現宇宙が、聳(そび)え立つような自立性を際立たせてしまうのである。
 
削られた描写の中でひと際目立つのは、人間の死や遺棄、別離といった残酷なる描写である。
 
彼は執拗に別離の残酷さを描きながらも、その別離の修羅場を描こうとはしなかった。
 
なぜなら、それらは残酷の極みでありながらも、私たちの人生の中で、ある意味で避けられない有りようであるからだ。
 
「人生は思うようにならない」というその極みのさまを、成瀬は特段に異常な出来事であると考えていなかった。
 
その人生の節目の一つ一つに過剰な感傷を張り付けることを、成瀬は確信的に嫌っていたのである。
 
恐らくこれは、彼の生い立ちが、「思うようにならない人生」の連続であった事実と重なるだろう。
 
「思うようにならない人生」の軌跡を乗り越えて、彼は映画監督という職業に辿り着いている。
 
肉親との死別を経験したり、会社を解雇されたり、離婚の憂き目にも遭っている。
 
苦労する人生など、人間にとって当然過ぎる事柄なのだ。
 
だから、彼の映像における残酷さの印象は、私たちの日常的な世俗世界の写実でしかないのである。
 
人生には良いこともあれば、悪いこともある。
 
悪いことが続くこともあれば、しばしば、悪いことだらけで一生を閉じることもある。
 
それは、人の運不運の差異でしかないとも言える。
 
そうでなかったら、能力の差異によるものだ。
 
それもまた、人の運命(さだめ)であると言っていい。
 
彼は人間の運命のリアルで様々な有りようを、単に、フィルムに刻み付けた映画監督でしかなかったとも言える。
 
或いは、日常性の裂け目から弾き出された緊張や不安、揺らぎ、そして、それが収斂されていくであろう場所を弄(まさぐ)って迷走する以外にない、思うようにならない切々たる人生や、どこか落ち着ける場所に何とか繋ごうとする思いのさまを、淡々だが、しかし、厳格な筆致で描き出した。
 
要約すれば、それが成瀬映画である。
 
 

心の風景  「『思うようにならない人生の極みのさま』 ―― 人生の真実を描き切った成瀬映画の真骨頂」よりhttp://www.freezilx2g.com/2018/01/blog-post.html