ゆれる('06)  西川美和 <微塵の邪意も含まない確信的証言者の決定的な心の振れ具合>

イメージ 11  完全拒絶によって開かれた「事件」の闇



 本作は、ある「事件」を契機に、雁字搦めに縛りあげていた「圧力的な日常規範」から、自我を一気に解放していく心的過程を辿っていく者と、自在に解放された世界で自己運動を繋いでいた自我が、その解放への起動点になっていたはずの、ネガティブな「圧力的な日常規範」のうちに、柔和な情感文脈を感受していく心的過程の曲折を経て辿っていく物語である。

 そして、その両者が、非日常の〈状況〉の〈前線〉で情感的に絡み合い、憎悪を応酬し、複層的に捩(ねじ)れあって、振幅する心理の様態を精緻に描き切った一篇である。

 前者は兄で、その名は早川稔(以下、「稔」)。

 後者は弟で、その名は早川猛(たける)(以下、「猛」)。

 「ある事件」とは、渓谷の吊り橋での、「女性転落死事件」(以下、「事件」)。

 ここで、「事件」の顛末を書いておこう。

 父との折り合いの悪さの故に、早々と家を出た猛は、東京で売り出し中のプロカメラマンだが、母の一周忌に帰郷し、良好な関係を保時する稔と再会する。
口煩い父と共に、ガソリンスタンドを経営する稔は、温厚で誠実な真面目人間。

 その稔と猛の兄弟は、かつて猛と関係を持っていたと思われる智恵子を伴って、翌日、近くの山梨県の蓮見渓谷にピクニックに行く。

 ところが、川に架かる吊り橋で、智恵子が渓流へと落下してしまう転落死事故が起こったが、これがまもなく「事件」となり、智恵子を突き落とした容疑者として、稔が逮捕されるという事態に発展する。

 「事件」の一端を提示する映像が語るものは、吊り橋上で写真を撮る猛を智恵子が追っていく描写と、その智恵子を追っていく稔。

 実は前夜、自由奔放な生き方を愉悦する猛は、智恵子が仕掛けたと思われるハニートラップに嵌って、恐らくかつてそうであったように関係を結んでいた。

 智恵子の部屋で睦み合った直後の猛が、そこで視認したのは、何と猛の写真集。
彼女の想いの深さを知ったプレイボーイにとって、智恵子は単に行きずりのセックスパートナーでしかないので、体良く退散した。

 夜半の帰宅でも、猛を待つ稔は、酒を飲めない智恵子の下戸ぶりを知悉した上で、鎌を掛けて言葉巧みに問いかけたら、案の定、猛はボロを出して、智恵子との「お遊び」が見透かされる。

 稔には、こういう狡猾な気性がある。

 それは、智恵子への片想いを抱く稔の、屈折した心理の表われだった。

 そんな稔が今、智恵子を追って吊り橋にまでやって来た。

 だが、高所恐怖症の稔が吊り橋に辿り着いたときには、既に猛は渓流に降りていて、問題の吊り橋には、智恵子の存在のみ。

 高所恐怖症の惨めさを露呈する稔は、惚れた女に縋るばかり。

 「チエちゃん、危ないよ」

 そんな稔の泣き言に、智恵子は止めを刺す一撃を放つ。

 「止めてよ、触らないでよ!」

 ガソリンスタンドを経営する稔に対する、従業員の智恵子の一撃は、猛のいる東京への脱出を覚悟した確信犯の振舞いだった。

 一切は、智恵子の、稔に対するこの完全拒絶によって開かれた。
映像は、吊橋から転落した智恵子を喪って、茫然自失する稔を映し出す。

 「事件」が惹起した瞬間だった。



 2  「圧力的な日常規範」 ―― 無機質な異臭を放つ風景への炸裂



 冒頭で前述した、「圧力的な日常規範」とは、被告となった稔が、拘置所の接見室で猛に吐露したような内実である。

 ここでは、「運命の兄弟」の間で交わされた重要な会話を拾ってみる。

 「圧力的な日常規範」 ―― それは、「世間」という狭い町で、「仕事は単調。女にはモテない」男が、バカな客に頭下げて帰宅すれば、「炊事洗濯、親父の講釈」が待つネガティブな世界である。
 
「運命の兄弟」が非日常の〈状況〉の〈前線〉で情感的に絡み合い、憎悪を応酬するシーンは、拘置所の接見室で炸裂する。

 以下、その最初のシーン。

 「俺が有罪になったら、どうなるんだろう?」と稔。
 「バカ、ならねえよ。何言ってんだよ。ネガティブに考えるなって」

 この猛の楽天的な反応に、稔は反駁する。

 まだ、彼の内側では、封印されていたディストレスの感情が抑制されていた。

 「ネガティブ?そんなんじゃないよ。俺、自白して良かったと思ってんの。あの狭い町の中でね、幼馴染の女、死なせたレッテル背負って生きていくって、どういうことか分る?」
 「何言ってんのよ、皆、兄ちゃんのこと知ってんだから。すぐに元通りたよ。皆、ちゃんと暖かく迎えてくれるって」

 別条のない猛の反応には、稔が住んでいる町の実態を知らない者の、アウトサイダー然としたオプティミズムが張り付いている。

 「お前があの町のこと、暖かいなんて変なの。まあ、あのスタンドで生きていくのも、この檻の中で生きていくのも大差ないなあ。バカな客に頭下げなくて済むだけ、こっちの方が気楽だ」
 「そういうこと言っちゃダメだ」
 「何で?お前がいつも言ってることじゃないか・・・所詮、つまらない人生だよ」
 「そんなことねえよ。兄ちゃん、立派だよ。俺は逃げてばっかりの人生だよ」
 「“つまらない人生”からだろ?」

 沈黙する弟。
この辺りから、「運命の兄弟」を囲繞する空気が変容していく。

 「お前の人生は素晴らしいよ。自分にしかできない仕事をして、色んな人に会って、いい金稼いで。俺、見ろよ。仕事は単調。女にはモテない。ウチに帰れば、炊事洗濯、親父の講釈。で、その上、人殺しちゃったって、何だそれ?何にも言い事ないじゃない。何で?何で俺とお前はこんなに違うの?」

 恐らく稔は、かつて吐露したことがないような心情を、自由奔放な都会暮らしを延長させている弟に吐き出した。

 「兄ちゃんは悪くないよ」

 それでも、稔の気持ちを正確に推し量れない猛の態度は変わらない。

 彼には、「血族」の深い紐帯とか、共同体の閉塞感という観念が形成されていないのだ。

 稔が、その自我の内側に封印していた感情を噴き上げたのは、そのときだった。

 「そんなこと、分ってるよ!俺ばっかしだよ!俺ばっかしだよ!」

 稔は右の拳を叩いて、大声を上げたあと、嗚咽したのである。

 「兄ちゃん、こんなとこ出よう。俺が出してやるから」

 炸裂する兄がいて、その炸裂を収拾できない弟がそこにいた。

 「言語交通」が絶え絶えになり、そこに滞留する澱んだ空気が小さな特定スポットを支配していた。

 弟に唾を吐きかけて、係官に連れて行かれる兄。

 拘置所の接見室での炸裂は、稔にとってそれ以外にない感情の騒ぎ方だった。

 この炸裂の背景を、「事件」直後の早川家の食卓風景の無機質な異臭を放つ空気のうちに、映像は切り取っていた。

 親子三人で囲む食卓の中で、突然、酒癖の悪い兄弟の父親が暴れ出し、稔に掴みかかった。

 この風景こそが、稔が根柢的に否定したい「圧力的な日常規範」だったと言える。

 それでも、「世間体」のみを気にして、大暴れするだけの父親に抵抗できない長男が、この日もまた置き去りにされたのである。

 それは、母親亡き後の、情感交流に乏しい、この親子の無機質な異臭を放つ風景を象徴するものだった。

 
(人生論的映画評論/ゆれる('06)  西川美和 <微塵の邪意も含まない確信的証言者の決定的な心の振れ具合>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2011/03/06.html