永い言い訳('16)   西川美和

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<男のグリーフワークが、それを必要とする時間を拾いつつ、今、自己完結する>


1  色良い記号を付与された男の商品価値が底を突いていた


「俺のメンツなんか、あなたにどうでもいいだろうけど。じゃ、連続試合出場数の世界記録作った野球選手と同じ名前で生きてみろよ。俺はあの名前でいる限り、永久に『鉄人・衣笠祥雄』のまがい物でしかあり得ないの…どうせ俺は自分のことも、まともに受け入れられない男だよ」

自らが出演しているテレビのクイズ番組を見る妻(美容師)から、いつものように髪を切ってもらっている流行作家・津村啓が、そのテレビを消した後、漢字表記が異なるだけで、本名の衣笠幸夫(きぬがささちお)が同音異字であることを毛嫌いする主人公の自己中心的、且つ、自虐的性格を露わにする、印象的なファーストシーンが暗黙裡に語るのは、作家としての自負が空洞化しているデイリーハッスル(日常的苛立ち)の累加の風景だった。

「自己中心的で歪んだ自己愛を持て余して、自分が生まれ持ったものをいい歳になっても受け入れられない幼稚な人間」

インタビューでの西川美和監督の言葉である。

同時に、学生時代から「幸夫君」と呼んできた妻・夏子との、20年に及ぶ夫婦生活の、その精神的な共存関係の希薄さが露呈されている。

幸夫という人物の外見が恵まれ過ぎていること。

これを絶対条件にしたと、監督は語っている。

二枚目であることが、幸夫の自意識を肥大させてしまったとも語っているが、このことは「美男子・美女の経験値」であると言っていい。

幸夫の場合、この経験値が彼の「不幸」を増幅させた。

「衣笠幸夫」という本名を持つ一人の作家の社会的イメージが、「二枚目の流行作家・津村啓」という色良い記号を付与されたこと。

この記号は、「衣笠幸夫」の自我に、充分過ぎる付加価値を与えている。

「二枚目」であること。

「流行作家」であること。

それだけで、一般読者の視界には、「人気作家」の作品の商品価値性の高さが、さして変わることなく保持されている。

然るに、「充分過ぎる付加価値」は、目利きの鋭いプロの編集者の射程には、「人気作家」の作品の商品価値が値踏みされ、それが低落している現状が捕捉されている。

「ここ3年くらい、先生の書くものって、意欲とか衝動とか感じないんですよ」

宴の無礼講のスポットで、暴走気味に酩酊する幸夫に対し、編集者から辛辣に放たれた攻撃的言辞である。

モチーフが枯渇しているのか、筆が乗らない。

作品の商品価値が脆弱になっている。

充分過ぎる付加価値を有するはずの、「二枚目の流行作家・津村啓」という、色良い記号を付与された男の商品価値が底を突いてしまったのである。

これは、本人も分っている。

だから、喧嘩になった。

今や、「衣笠幸夫」の裸形の自我には、この記号が重荷になったのだ。

なぜ、そうなったのか。

女性編集者との不倫や、その才能を見知って、「作家」になることを後押しした妻との夫婦関係の劣化が考えられるが、理由は不分明である。

ただ、自堕落な生活風景だけが観る者に印象づける。

そして今、凄惨な事故死によって、その妻を喪い、より深刻な精神状態を露わにする。

そればかりではない。

不倫相手の女性編集者からも毒づかれるのだ。

罪悪感に苛(きいな)まれている不倫相手の編集者を抱く幸夫に、「バカな顔」とまで言われる始末。

私にとって、幸夫の表情を映すことないこの一語は、本作の中で最もインパクトのある表現だった。

「先生は私のこと抱いているんじゃない。誰のことも抱いたことないですよ」

エキサイティングな表現に繋がる攻撃的言辞を被弾し、幸夫はセフレもどきの不倫相手まで失った。

それでも、「衣笠幸夫」は、「津村啓」を演じなければならない。

「津村啓」という色良い記号を失ったら、「自分が生まれ持ったものをいい歳になっても受け入れられない」、「衣笠幸夫」という裸形の人格しか残らなくなるのだ。

だから、演技が過剰になる。

「最愛の妻を喪った人気作家・津村啓」の悲劇を演じる男は、記者会見でも、カメラを意識する。

遺骨を抱き、マネージャーの岸本が待つ車が発車したとき、自分の髪型を気にする幸夫が、そこにいる。

それを一瞥(いちべつ)する岸本。

岸本には、何もかも分っている。

「悲劇の人気作家」を演じ切った男は、その直後、パソコンで自分の評価を検索する。

「事故」・「可哀想」・「才能」・「不倫」・「愛人」・「嘘」等々。

「調べる手を止められない自分」(西川美和監督の言葉)の行動様態は、自意識過剰な男の至極当然な日常的風景だった。

 

以下、人生論的映画評論・続「人生論的映画評論・続: 永い言い訳('16)   西川美和」('16)より