1 三つのエリアで呼吸を繋ぐ人々 その1
八王子で起こった夫婦殺害事件(以降、「事件」)の現場には、「怒」という血文字が壁に残されていた。
事件から1年が経ち、逃走中の容疑者・山神一也(やまがみかずや)についての報道が、テレビの特番で取り上げられていた。
容疑者の女装した合成写真も公開される。
山神の住んでいたアパートの部屋に捜査に入ると、日常で目に付いた他人の行動のストレスを、一々、細(こま)かに紙に書き、窓一面に張り付けてあった。
「思い立ったら、書かずにいられねぇってか」
この刑事の言葉から、デイリーハッスル(些細な苛立ち)に反応しやすい犯人の性向が透けて見える。
【千葉編】
3か月前に家出した娘・愛子を、風俗店から連れて帰る父・洋平。
洋平の水産会社では、2か月ほど前に転がり込んで来た、素性の知れない田代という男をアルバイトで雇っていた。
真面目に働く寡黙な田代に、愛子は徐々に魅かれていく。
「俺、知ってます。愛子ちゃんが家出してたこと。その間、どんなところにいたか。この町に住んでいたら、そういう話、耳に入りますから」
「…町じゅうで娘のこと、バカにされて、陰口叩かれて、それでも、じっと黙って何にもしねぇ親父が、情けねぇと思ってんだろ!…あいつ、ちょっと人と違うところがあるんだ。お前だって、分かってんだろ」
「あの、俺、愛子ちゃんと一緒にいると、ほっとするんです。なんて言うか、自然と色々、話したくなって」
その田代とアパートを借りて、一緒に住みたいと言い出す愛子。
「そんなに田代が好きか」
黙って頷く愛子。
愛子を心配する洋平は、田代が以前勤めていた軽井沢のペンションに行き、そこで偽名を使っていたことを知る。
その事情を愛子に話すと、愛子は啼泣(ていきゅう)しながら反駁(はんばく)する。
「田代君、悪いことして逃げてるんじゃないの。嘘の名前使っているのも、理由があるの。田代君が大学生の頃、田代君のお父さんが仕事で借金して、最初はちゃんと返してたんだけど、そのうち返せなくなったら、そのお金貸した人がヤクザにその権利売っちゃって、田代君のお父さんとお母さん、自殺したら、田代君が返す必要なんてないのに、許してもらえないんだって。警察にも相談したけど、ダメなんだって。だから田代君、逃げるしかなかったって。どこに行っても見つかるって。本名使うのが怖いって。お父ちゃん、助けてあげて!お父ちゃんだったら、助けてあげられるでしょ。見つかったら、ほんとに怖いんだよ。逃げられなくなるんだよ。私、分かるもん。誰も助けてくれないよ」
「分かった、分かったよ…」
「あたしなんか、普通の人と幸せになれるわけないの。でも、田代君みたいな人だったら、ずっと私なんかの傍にいてくれるかも知れない…」
愛娘にここまで言われて閉口してしまう父と、嘘をつけず、本音をダイレクトに吐露する娘が、閉鎖系の漁港の一角で呼吸を繋いでいた。
こうして、愛子と田代はアパートに引っ越していく。
【東京編】
ゲイパーティーで盛り上がる優馬だったが、友人たちの誘いを断り、母のいるホスピス病棟を訪れる。
優馬はゲイの出会い系スポット・「発展場」(はってんば)で、気に入った男を誘い、自宅に呼び、共存するようになる。
男の名は直人(なおと)。
28歳の直人は住む家も決まっておらず、「千葉編」の田代と同様に、身元を明かそうとしない。
互いに求め合う二人は、心を通じ合わせ、直人は優馬の母に会い、話し相手をするようになる。
その母が逝去した。
肝心の葬式に、直人を呼ばなかったことを謝罪する優馬。
親戚や友人たちに、どう説明すればいいのか分からなかったからだ。
「分かろうとしない人にはさ、いくら説明したって、伝わらないから」と直人。
「お前も一緒に墓に入るか」と優馬。
「別に、いいけど」
「冗談だよ」
「分かってるよ」
「俺は、それでもいいけど」
「分かってるよ」
そんなある日、直人がカフェで、若い女性と楽しそうに話しているところを目撃する優馬。
友人二人に同じ手口の空き巣が入ったという話を、耳にしたばかりだったから始末が悪かった。
「案外、皆の共通の知り合いだったりして」
この友人の言葉が反響音と化し、優馬の内側に、直人に対する疑念が生まれていくのだ。
帰宅するや、カマをかけながら、直人に昨日の行動を聞き出そうとする優馬。
「俺見たんだよ、たまたま。昨日、中目のカフェで一緒だった女、あれ、誰?」
「…言いたくない…なんで、そんなにカマかけるんだよ」
ここで優馬は、直截(ちょくさい)に切り出す。
「根本的なところで、俺のこと、裏切っているっていうかさ。まあさ、お前がどう答えたとしても、それをどう受け取るかは、結局さ、俺次第ってことなんだよな」
この言葉を受け、心理的ダメージを受けている直人の表情が炙り出されていた。
【沖縄編】
高校生の泉は友人の辰哉(たつや)に頼み、無人島まで連れて行ってもらい、そこで一人のバックパッカーと出会う。
帰り際、男はこの島にいることを黙っていて欲しいと頼み、泉は黙って頷く。
食べ物の心配をしたのか、再び、島を訪れる泉。
ここで男は、自分に興味を示す泉に対して、田中と名乗り、会話を繋ぎ、二人の心理的距離が縮まっていく。
その後も、泉は田中に会うために、度々、島を訪れるのだ。
いつも、島にボートで連れて行ってくれる役割を担うのは、辰哉だった。
泉に好意を持つ彼は、泉を映画に誘う。
繁華街でひしめく沖縄の中核市・那覇に行った二人は、辰哉の父親が参加する「辺野古基地建設反対デモ」に加わった。
「あんなことして、本当に変えられるのかな」
辰哉は、家の旅館業を放り出してまで、基地建設反対運動に参加する父に疑問を呈している。
アーケードで、田中が歩いているのを見つけたのは、そんな時だった。
泉が声をかけたことで、「流れ」が決まった。
居酒屋へ行く3人。
そこで、泉が吐露したのは、男にだらしない母親が、問題を起こして那覇にやって来たという不面目(ふめんぼく)なルーツ。
店を出て、那覇に残るという田中と別れ、二人はフェリーで帰ろうとしたが、泡盛で酔っ払った辰哉が見えなくなった。
泉は必死に辰哉を探して、街を走り回るが、基地の米兵が屯(たむろ)するエリアに迷い込んでしまう。
二人の米兵に公園で泉がレイプされたのは、その直後だった。
それを目の当たりにした辰哉は、水飲み場の陰で蹲(うずくま)るだけで、何も為し得なかった。
米兵が逃げ去ったあと、泉に近寄った辰哉は、携帯で通報しようとする。
「誰にも言わないで…」
「誰か!誰か!」
辰哉は叫ぶだけだった。
「辰哉君、言ったよね!あんなことして、何が変わるのかって。あたしがどんなに怖かったか!いくら、泣いたって、怒ったって、誰も分かってくれないんでしょ!訴えたって、どうにもならないんでしょ!悔しい思いをするだけなんでしょ?無理だよ、あたし、そんなに強くないもん…」
海辺での、辰哉に対する泉の叫喚(きょうかん)である。
何も為し得なかったことを謝る辰哉に、怒号を放つ外にない泉の孤独が虚しく曝されている。
その辰哉は今、田中が居場所にする島を、一人で訪ねていく。
田中は辰哉にコーヒーを振舞い、柔和に対応する。
まもなく、辰哉の旅館で働き始める田中が、そこにいた。
辰哉は部屋にやって来た田中に、泉が被弾した事件の話を、クラスの友達の妹が米兵にレイプされたこととして切り出し、相談するのである。
心疾(こころやま)しさを抱える高校生には、もう、ギリギリの心的状態だったのだ。
「辰哉さ、俺、沖縄の味方になるとか、そんな立派なことは言えないけど、お前の味方だったら、いつだって、なるからな」
一人の大人が放つ言辞が、少年の中枢に深々と入り込んできた。