ジョーカー('19)  トッド・フィリップス

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<極限的な悲哀の様態が、階層社会のシビアなリアリティに弾かれていく>

 

 

 

1  「人生は悲劇だと思ってた。だが今、分かった。僕の人生は喜劇だ」

 

 

 

財政難に陥っているゴッサムシティ(架空の都市)。

 

母親ペニーの世話をしながら、荒んだ街の一角で暮らすアーサー・フレック(以下、アーサー)が、楽器店の閉店セールで道化の仕事をしていた只中で、街の悪ガキたちに嬲(なぶ)られるオープニングシーンの提示は、ここから開かれる物語の不穏な様相を炙り出していた。

 

コメディアン志望のアーサーは、非自発性の情動発作(可笑しくないのに笑ってしまう症状)を繰り返す「情動調節障害」の故に福祉の世話になっている。

 

「“笑うのは許して。病気です。脳および神経の損傷で、突然、笑い出します”」

 

そう印刷されたメモを常に携帯していて、それを、突然、笑いの発作を発現させたバスの中で使うことになる。

 

そんな男が、貧困に窮した生活の中で、7種類の薬を処方してもらい、アパートの薄暗い部屋に帰っていく。

 

市長候補のトーマス・ウェイン(以下、ウェイン)の屋敷で働いていたという母・ペニーは、常にウェイン宛に援助を求める手紙を書いているが、この日も返事は届いていなかった。

 

“あなたの幸せな笑顔が、人々を楽しませる”

 

母の口癖である。

 

憧れのマレー・フランクリン(以下、マレー)のテレビが始まり、その番組を食い入るように見ながら、アーサーは妄想の世界に侵入していくのだ。

 

職場で、道化の仕事仲間のランドルによって、悪ガキたちから身を守るようにと、銃を押し付けられるアーサー。

 

ボスに呼ばれたアーサーは、楽器店に盗まれた看板を返さないと給料から差し引くと言われ、反論の余地なく、従うばかり。

 

「気味が悪い」とまで言われても、笑った表情のまま話を聞いている男なのだ。

 

小児病棟でピエロの仕事をしているとき、銃を落としてしまったことで、男はあっさりと解雇されるに至る。

 

ランドルが銃を押し付けたにも拘らず、アーサーが求めてきたと嘘を言ったからである。

 

地下鉄で3人の酔っぱらいに絡まれ、殴り倒されたアーサーが、彼らを射殺した事件は、この直後のことだった。

 

何をやっても好回転しない〈生〉を繋ぐ男が、遂に炸裂してしまったのである。

 

高揚感に浸るアーサーは、自然と体が動き、優雅に踊り始めるのだ。

 

テレビでは、地下鉄殺人事件の報道で、ウェインが出演し、殺された3人が自社の社員だった事実を、市長選絡みで語っていた。

 

犯人はピエロの仮面の男だったことが、テレビで報道されていた。

 

「仮面なしでは、人を殺せない卑怯者だ。自分より恵まれた人たちを妬んでる。彼らが改心しない限り、我々が築いた、この社会で、彼らのような落伍者は、ただのピエロだ」

 

インタビューでのウェインの見下し言辞である。

 

まもなく、市の予算削減で、福祉事務所は閉鎖されることになり、薬の処方が断ち切られてしまう。

 

母ペニーがウェイン宛に書いた手紙を読んだアーサーは、そこで、自分が彼の息子であることを知り、その真偽をペニーに確かめるアーサー。

 

「ママ、あの手紙は本当?」

「あの人は特別な人よ。大変な力を持ってる。恋に落ちたの。でも騒ぎになる前に離れようと言われた。誰にも言えなかった。書類にサインしたの。あのトーマスと、この私よ。人が何て言うと思う?あなたのことも」

 

その話を聞いたアーサーは、直接、ウェインの屋敷を訪れる。

 

厳重な門の内側にいる、ウェインの息子にピエロのパフォーマンスをするアーサー。

 

そこに執事が出て来て、息子を引き離し、アーサーはウェイン氏に会いたいと訴えるが、ペニーの名を言うや、全てが妄想だと撥(は)ねつけられる。

 

イカれた女だ」

「トーマス・ウェインは僕の父親だ。僕を捨てた」

 

不毛な会話で何も得られず、家に戻ると、ペニーが救急車で運ばれる只中だった。

 

地下鉄殺人事件を捜査する刑事の聞き込み中に、脳卒中を起こしたのである。

 

母の病室で、アーサーがマレーのテレビを見ていると、自分のことがネタにされていた。

 

「“変だな。子供の頃は、コメディアンになると言ったら、みんなに笑われた。今はだれも笑わない”」とアーサー。

「まったく、そのとおり」とマレー。

 

【この辺りは、アーサーの妄想の産物であることが観る者に共有されるが、マレーに嘲弄(ちょうろう)されるカットの提示が、ラストシークエンスで回収されていくフラグ(伏線)になっている】

 

テレビでは、ピエロ姿の市民たちが、富裕層を攻撃対象とするデモの様子が映し出される。

 

彼らのターゲットになっていたのは、市長選に立候補するウェイン。

 

ウェインホールを取り囲むデモに参加したアーサーは、ボーイの姿に変装し、建物の中に侵入する。

 

トイレで、ウェインに直接尋ねるアーサー。

 

当然ながら、父子関係を否定される。

 

「君は養子だし、彼女とは寝てない。金か?」

「僕は養子じゃない」

「聞いてない?うちで働いてた時、君を養子に。彼女は逮捕され、州立病院へ。君が幼い時だ」

「なぜだ。ウソは、やめろ!突然、現れたけど、困らせる気はない。なぜ、みんな僕を邪険にする?僕が欲しいのは、温もりとハグだよ。パパ。優しい言葉は?なぜ、あんたらは、母を悪く言う?」

イカれた女だ」

 

ここで例の笑いの発作が起こり、怒ったウェインは、アーサーを思いきり殴り、捨て台詞を言って出て行った。

 

「息子に近づいたら殺す」

 

【呆気なく収束されるエピソードだが、ウェインと母ペニーの男女関係に相当の「信頼性」があることは、ウェイン家にメイドとして仕えていた頃、母を撮ったと思われる写真と、その裏に記されていた“素敵な笑顔だ TV”という一文を見る限り、ウェインとペニーの間に深い関係があったと想定されるが、「妥当性」には及ばない】

 

この直後、自宅の冷蔵庫に収納されているを全てを出して、自分が入ってドアを閉めるカットがインサートされるが、為す術なく自暴自棄になり、監禁室に閉じ込められる精神疾患者というイメージが湧く。

 

留守番電話には、刑事が訪ねて来たというメッセージが残されていた。

 

続いて、マレーのトークショーのスタッフからの電話が入り、ゲスト出演を依頼され、来週の木曜日と決まり、腹を括っていくアーサー。(妄想)

 

アーサーはペニーが入院していたという“アーカム州立病院”を訪ねた。

 

30年前のペニーの過去のカルテを確認するためである。

 

ファイルが見つかり、職員が診断名を読み上げた。

 

「妄想性精神病、自己愛性人格障害、自分の子供の健康を危険にさらした罪で有罪」

 

書類は正式な手続きを取らないと渡せないと告げられるや、アーサーはそれを強引に奪い、走り去っていく。

 

階段でファイルを開き、確認するアーサー。

 

ゴッサム・保健省 虐待、ネグレクト、極度の異常行動、身体的虐待…養子縁組申請書”

 

これらのネガティブな言葉が、視界に捕捉される。

 

ウェインの話を否定し得ない情報だが、アーサーは受容できず、竦んでしまう。

 

自らのルーツをブルーに染め抜く回想描写が連射されていく。

 

「秘密を守るため、ウェインが、でっちあげた」とペニー。

「君は傍観した。恋人が何度も養子に暴力を振るうのを。君も殴られた」と鑑定医。

 

“母親 養子への虐待を黙認、母子家庭で惨劇”

 

当時のペニーの鑑定の様子も記されていて、アーサーの内面を囲繞する風景が一気に変容していく。

 

「君の息子は、ヒーターに縛られてた。汚いアパートで。栄養失調、無数のアザ、頭部にひどい外傷」と鑑定医。

「あの子、泣かないの。いつも笑ってる。ハッピーな笑顔で」とペニー。

 

ファイルを読みながら、笑いが止まらなくなるアーサー。

 

頭部外傷こそ、「情動調節障害」の故に治療薬を不可避にする男の、冥闇(めいあん)なるルーツだったのである。

 

咽(むせ)び泣きすアーサーが、病院の一角で置き去りにされていた。

 

雨の中を自宅のアパートに戻ったアーサーは、親しくしている黒人女性の部屋に入り込んでソファに座った。

 

その姿を見て驚く彼女に、部屋を間違えているから「出てって」と言われる始末。

 

これまでの彼女との親交もまた、アーサーの妄想だったことが明らかになる。

 

病室のペニーの傍らで、アーサーは「ハッピー」との母の呼びかけに対して、声高に応える。

 

「何がハッピーだ。幸せなど一度もなかった…人生は悲劇だと思ってた。だが今、分かった。僕の人生は喜劇だ」

 

そう話すや、枕をペニーの顔に押し付け、窒息死させてしまうのだ。

 

酸鼻(さんび)を極めるシーンに黙然(もくぜん)とする外になかった。

 

 

人生論的映画評論・続: ジョーカー('19)  トッド・フィリップス より