具体的に書けば、「主人」が「従者」の所領を安堵(保障)=「本領安堵」(ほんりょうあんど)する一方、新たな土地給与を行う「新恩給与」(しんおんきゅうよ)という二本柱で成っていた。
この生命線の中枢が機能するのは、源頼朝が関東武士の盟主=「鎌倉殿」となってからである。
江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法・「武家諸法度」=「寛永令」(1635年に、三代将軍・徳川家光によって制定)には、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムベキ事」(武芸や学問を嗜むこと)と記述されていただけだが、この一文には、戦国乱世の時代の影響が読み取れる。
然るに、「奉公」が「御恩」の対価であるという観念のうちに、主従関係が成立していたにも拘らず、必ずしも、「主」と「従」の関係が「生死を共有する」という堅固な倫理的な忠誠によって規定されていなかった鎌倉時代の、契約関係的な構造と切れて、儒学的な徳義の精神を根幹にする江戸時代の「武士道」(武士の実践的道義=「士道」・注2)の内実は、「仁義」・「忠義」(注2)を重んじる精神的な「意味体系」(イデオロギー)としての思想性が中枢テーマであった。
まさに、平民身分(農工商)をも包括した、「秩序を重視する、戦(いくさ)なき時代の平和的な武士道」だったのである。
これは、武士の処世術の要素を多分に持つ、儒学・仏教との濃密な融合が目立つ江戸時代の「武士道」の「意味体系」と対峙し、それを批判する「葉隠」の思想性と照合すれば判然とするだろう。
これは後述する。
(注2)下剋上の風潮を根柢から崩した徳川政権が、戦国乱世の時代への歴史的回帰を抑えるために、前漢の歴史家・司馬遷(しばせん)の「史記」にある、「忠臣は二君に仕えず」=「二君に見(まみえ)ず」という倫理的な忠誠心を植え付けていった。
江戸時代の幕藩体制の代名詞のように言われる「改易」(かいえき)とは、大名の領地を没収し、その身分を権力的に奪う「取り潰し」のことである。
後(のち)に許され、大名や一族の者が小大名や旗本に取り立てられるケースもあったが、基本的に「改易」になれば、城と領地は没収となり、多くの家臣は禄を失って浪人となる運命を免れない。
考えてみるに、酷薄とも思える幕府の「改易」が、なぜ可能だったのか。
それを簡潔に要約すれば、こういうことである。
即ち、各藩の大名が所有する領地とは、徳川幕府から領有することを認められた土地であり、幕府に代わって年貢取り立てを依頼されたが故の領地であるということ。
従って、幕藩体制の藩の存在のあり方は、「国盗り合戦」の「戦果」として、領主自らが勝ち取った土地が領地となることが可能だった戦国時代の領主と、その一点において決定的に異なっているのである。
言ってみれば、徳川幕府が全土を支配し、それを大名に預けるという制度なのである。
幕府による「改易」の数値は230以上にも及ぶが、その過半が家康・秀忠・家光の三代に集中しているのは、「ウィナー・テイクス・オール」(勝者総取り)という野蛮な「国盗り合戦」が蔓延(はびこ)った時代との決定的訣別をつけるために、治安・平和・民心の安定の基盤の構築に専心した江戸時代初期の統治能力の苦労の産物と言っていい。
そのことは、文武両立の奨励・新規の築城の禁止・自由結婚の禁止・キリスト教禁止令(鎖国政策)等を制度化していた、大名統制の法令である「武家諸法度」を、繰り返し改訂している事実で判然とするだろう。
そして、1635年に体系的に斉一(せいいつ)化された大名統制策の一つである、江戸幕府の重要な法令・「参勤交代」(妻子を人質として江戸藩邸にとり、諸大名を江戸と領地に1年交代で居住させた制度)を義務づけていたシステムに象徴されるように、諸大名の軍事力を低減させる思惑があった事実を知る必要がある。
何より、身内に対しても厳しく統制する幕府の基本スタンスを継続させていたが故に、260年以上の長期にわたって、300近くもの藩を支配し得たと言えるのだ。
従って、家老を中心とした合議制による藩運営を保持しながらも、諸大名(藩主)の悪政や、領地支配に失敗した藩に対する最大のペナルティが、「改易」であったのは必至だった。
大名廃絶政策としての「改易」の主因が「世継ぎの不在」であったため、公儀(こうぎ・幕府)の認可によって養子を儲けたり、血縁者を世継にしたりして、お家再興を図る諸藩の努力には涙ぐましいものがある。
しかし一方で、最大の懲罰である「お家お取り潰し」は、単に「世継ぎの不在」=「お家断絶」と違って酷薄さを極めるが、だからと言って、幕府への直接的反乱など起こりようがなかった。例えば、「元禄赤穂事件」(1702年)が有名だが、この事件を幕府への直接的反乱と呼ぶには無理がある。
主君・浅野内匠頭の遺恨を晴らし、一人の老人の首を取っただけの事件であるからだ。
そのことは、主君の遺恨を晴らしたことで、時の五代将軍・徳川綱吉が、四十七士の「忠義」を讃えていた逸話でも判然とする。
大体、幕府への直接的反乱と呼ぶなら、城の明け渡しという幕府からの命に背き、赤穂城に籠城し、そこで一戦を交えるべきであったが、結局、その選択肢に振れなかったのだ。
遺恨を晴らした後でも、赤穂浪士は自らの運命を幕府に丸投げしたのである。
これでは、とうてい幕府への反乱と呼ぶことはできないだろう。
思うに、江戸幕府への本格的な反乱があったとすれば、幕府の屋台骨が揺らいでいた幕末期における、外様大名・毛利氏を藩主とする長州征伐(幕長戦争)くらいしかなかったということである。
要するに、酷薄とも思える幕藩体制の維持は、それなしに治安・平和・民心の安寧が確保し得なかったのだ。
地方分権的なイメージを被(かぶ)せつつ、本質的には、徳川幕府による中央集権的な国家構造を構築することで、安定的な主従体制=幕藩体制を確立したということである。