1 「伊能忠敬は日本の地図を完成させてない。だから、大河ドラマにはならないんだよ」
伊能忠敬(いのうただたか)の死から開かれる物語。
千葉県香取市の市役所の総務課主任の池本は、市の観光振興策を決める会議で、「大河ドラマ」で郷土の偉人・忠敬(ただたか/香取市では愛情を込めて、“ちゅうけい”と呼んでいる)を取り上げて欲しいと提案する。
その場では不評だったが、県知事から「香取で大河にチャレンジしてみてくれないか」と観光課に直接連絡が入り、担当の小林から池本が指揮を取るよう言い渡される。
早速、池本は知事が指定した脚本家の加藤浩造の自宅を訪ねたが、本人から「加藤は死んだ」と繰り返され、取りつく島がない。
役所に戻り、そのことを報告すると、加藤について安野がネットで調べる。
「2000年を最後に、もう20年、何も書かれてないみたいです」
「残念だけど、他の人に代わることも考えた方がいいかも知れないね」と課長の和田。
「ダメっすよ、そんなの。知事がその人がいいって言ってるんですから」と木下。
池本は再度、加藤宅を訪ねるが相手にされず、その後、何度も足を運び、諦めて帰ろうとした時、目に付いた家の前の破れているゴミのネットを直していると、加藤から声をかけられ、自宅で話をすることができた。
知事が加藤のファンで、どうしても書いて欲しいと、かつて加藤が手掛けたドラマの話になるが、本人はその作品を納得していなかった。
「ただの人情話書いてしまった」
「それが何か、とっても良かったと思います」
「あれがお好きとは馬が合うとは思いませんな。どうぞお引き取りを」
池本は知事の意向を必死に訴える。
「俺が何を書くか決めんのは俺だ」
「何を基準に先生は、書くものをお決めになるんですか?」
「鳥肌だ」
まもなく、伊能忠敬の出身地である小関村の九十九里の浜辺に立つ加藤に、忠敬について解説する池本。
「幼名は三治郎。忠敬さんの自然への興味は、この浜で生まれたのではないかと」
次に池本は木下を随行させ、「伊能忠敬記念館」へ加藤を案内する。
「忠敬さんは元は商人で、本格的に天文学を勉強し始めるのは何と50歳の時。そのために、自分よりも二回りも年下の天文学者高橋至時(よしとき)に弟子入りをするんです…初めから地図を作りたかった訳じゃないんです。そもそもは、地球の大きさを知りたかった。そのためには、まず、赤道から南北に延びる『子午線一度の距離』(後述)、この距離が分かる必要があった。それさえ分かれば、それを360倍すれば、地球の大きさが出ることが、江戸時代の彼らも知っていたんです」
池本は、自分で描いたノートの図を加藤に見せながら説明を続ける。
「…でも、当時の日本では、許可なく関所を越えて自由に歩き回ることができなかった…そんな時に、幕府が蝦夷地の正確な地図を欲しがっていたということを知って、忠敬さんが『私に作らせてくれませんか』って、作ることを願い出たんです」
加藤は、衛星写真を基に作成された最新の日本地図と、忠敬が1872年に作った地図が殆ど重なる掲示板を見て、鳥肌が立つ。
「200年前に…」
その後、シナハン(ロケーション・ハンティングのこと)として、「記念館」の展示を見て鳥肌が立った加藤は、池本と木下の測量の実施を見ながら、企画書の構想を練っていく。
旅館で加藤は、忠敬は何であんな地図と作ったのかという疑問を投げかける。
「忠敬は17年に亘って、都合10度測量に出かけてる。しかし、2度目の時に既に子午線一度の距離は算出できてたんだよ。つまり、忠敬は本来の目的を果たした後も、地図作りを止めなかった。それはどうしてなのかってことなんだよ」
想像を述べるだけで正確に答えられない池本は、逆に加藤に質問する。
「先生は何で20年間、脚本を書かれなかったんですか」
それには答えない加藤。
加藤を役所の会議室に招いて、「シノプス(あらすじ)を頂けますか?」と言う木下に対して、「書いていない」と答える加藤。
「地図を書いてないんだ、忠敬は」
加藤は年表を示し、伊能忠敬は1818年に没し、『大日本沿海輿地(よち)全図』が完成した1821年に、その死が公表されたと指摘する。
「伊能忠敬は、日本の地図を完成させてない。だから、大河ドラマにはならないんだよ」
呆気なかった。