生きる('52)   黒澤ヒューマニズムの真骨頂

1  「わしは死ぬまでその、一日でも良い、そんなふうに生きて…死にたい」

 

 

 

「これは、この物語の主人公の胃袋である。噴門部に胃癌の兆候が見られるが、本人は未だそれを知らない」(ナレーション)

 

その主人公とは、某市役所の市民課長を務める渡辺勘治(以下、勘治)。

 

市民の陳情を受け付ける窓口で、黒江町(くろえちょう)の悪臭のする下水溜まりを公園にして欲しいという婦人会の女性たちの訴えを、市民課員の坂井が勘治に伝える。

 

時間を潰すための仕事をしている勘治は、書類にハンコを押しながら、「土木課」と一言。

 

役所では地位を守ること以外、何もしないのが一番いいのである。

 

一方、婦人連絡会(以下、婦人会)の女性たちは、市民課に言われた土木課から公園課、地区の保健所、衛生課、環境衛生係、予防課、防疫係、虫疫係、下水課、道路課、都市計画部、区画整理課、消防署、児童福祉係、市会議員、助役と、散々たらい回しにされた挙句、辿り着いた先が新しく設立されたという市民課だったことに憤慨する。

 

「もういい!お前さんたちにはもう何も頼まないよ!どこ行っても人をバカにしてさ。民主主義が聞いて呆れるよ!」

 

引き上げて行く女性たちに、市民課係長の大野から指示された木村が、課長が不在なので書類を提出してもらえないかと声をかける。

 

勘治は、あと1か月で30年間無欠勤という記録が達成できるところで役所を休み、病院へレントゲンを撮りに行ったのである。

 

待合室で、患者の一人が勘治に話しかけて来る。

 

「医者は大抵、軽い胃潰瘍だって言うんですよ。それからね、手術は必要ない。食事もまあ、あんまり不消化なものでない限り、好きなものを食べてもいい、こう言われたら、長くて一年」

 

男は更に、様々な身体の症状の具体例を挙げ、その場合はせいぜい3カ月だと話し、それを自覚する勘治は、恐ろしくなって落ち込んでしまった。

 

順番で呼ばれた勘治は、レントゲンを診た医師に、開口一番に「軽い胃潰瘍」と言われ、ショックを受けて上着を落とす。

 

「正直に、本当のことをおっしゃって下さい。胃癌だとおっしゃって下さい」

「今、申し上げた通り、胃潰瘍ですから」

 

更に、手術は必要ない、好きなものを食べていいと言われたことで、勘治は胃癌と確信する。

 

勘治が帰った後、若い医師に「あの患者、一年ぐらいですか?」と聞かれた主治医は、「せいぜい半年」と答えるのだった。

 

家に帰った勘治は、息子の光男と嫁の一枝が暮らす二階の部屋で、灯も付けずまんじりと座っていたので、帰宅して来た二人を驚かす。

 

勘治がいることを知らず、一枝が新しい家を建てる話を持ちかけ、光男も父の退職金と恩給と貯金を計算し、「うんと言わなければ、別々に暮らすって切り出すんだね。それが親父に一番効くよ」などと話し合う夫婦の会話を聞かれてしまったのだ。

 

勘治は早世した妻の遺影を見つめ、葬式の際の幼かった光男が不憫でならなかったことや、兄の喜一が光男が結婚すれば邪険にされると言われ、再婚を勧めてきたことなどを思い出す。

 

その時、二階から光男に呼びかけられ、嬉しそうに階段を上がりかけると、戸締りを頼まれただけだった。

 

野球の試合で走塁でアウトになった少年期、盲腸の手術を受けた思春期、そして、学徒出陣する青春期の光男の思い出が頭をよぎる。

 

心の中で「光男、光男」と何度も呼びかけるが、現在の光男に言葉をかけることができない勘治は布団を被り、さめざめと泣くのだ。

 

勘治は役所へ行く振りをして、5日間無断欠勤していることが訪ねて来た坂井によって判明した。

 

一枝から電話で知らされた光男は、伯父夫婦の家を訪ねた。

 

5万円を引き出していると話す光男に、道楽者の伯父は女でもできたんじゃないかと決めつけるが、伯母は4日前に勘治が来た際に、痩せて皮膚がかさかさして、他に訳がありそうだと、逆に光男に家で何かあったかを訊ねるが、思い当たる節がある光男ははぐらかす。

 

当の勘治は、飲み屋にいた小説家に手持ちの薬を渡すと、酒を勧められるが、「飲んでも、みんな吐いてしまって」と言って胃癌であることを告白する。

 

それでも自分の酒を口にする勘治に、小説家は「胃癌と分かっていて酒を飲むなんて、あんた、まるで自殺…」と言いかけて口ごもった。

 

「ところが死ねません。ひと思いに死んでやれ。そう思っても、とても死ねない。つまり、死に切れない。私はこの年まで何のために、その…」

「何か、深い事情がおありのようですな」

「いいえ。つまり、私が馬鹿者なんでして…私は、ただ、自分に腹が立って。私はつい2.3日前までは、自分の金で酒を飲んだこともありません。つまり、もういくらも生きられないと分かって、初めて、その…」

「分かります。しかし、酒は無茶ですよ。第一、美味いですか?」

「いやぁ、美味くは。しかし、時々は胃癌のことも、その、色々嫌なことも忘れますし、この高い酒を飲むなんて、今までの自分に面当てに、毒を飲んでいるような…」

 

勘治は小説家に、ひと思いに5万円の使う方法を教えて欲しいと頼むが、小説家は、そのお金は使わず、今夜は自分が奢ると言うのだ。

 

【当時5千円で今15万円なら当時の1万円は今の30万円に当たるから、5万円は今の150万相当】

 

「面白いなんて言っちゃ失礼なんですが、あなたは実に珍しい人物だ。私はね、つまらない小説を書いているいい加減な男ですが、今夜は全く考えさせられた。なるほど、不幸には立派な一面があるってのは、本当ですな。つまり、不幸は人間に真理を教える。あなたの胃癌は、あなたの人生に対する目を開かせた…あなたは、その年で過去の自分に反逆しようとしてるんだ。私はその反逆精神に打たれた…人生を楽しむことってね、これはあなた、人間の義務ですよ。与えられた生命を無駄にするのは、神に対する冒涜ですよ。人間、生きることに貪欲にならなくてはダメ…」

 

早速、勘治は小説家に連れられパチンコ屋で楽しみ、ビアホールから出ると歓楽街で帽子を盗まれ、派手な帽子を購入し、小説家の馴染みのバーからダンスホールへ辿り着く。

 

踊り子に絡みながらぎこちない動きをしていた勘治は、ピアノ奏者に「いのち短し…」とリクエストする。

 

演奏に合わせ、低い声で『ゴンドラの歌』を歌い始めると、周囲の者たちが踊りを止めてしまう。

 

底抜けに弾けるダンスホールのスポットの体温を冷やしてしまったのである。

 

風俗の空気に水を差した勘治は、目からポロポロ涙を零しながら、最後まで歌い続けるのだった。

 

小説家に連れ出され、次にストリップ劇場で興奮した勘治は、街に繰り出すと奇声を上げ、ひしめき合うダンスホールで踊り、娼婦と車に乗り合わせるが、勘治は浮かれるどころか、吐き気で途中下車し、その後も落ち込んでいく様子を見て、小説家も頭を抱えてしまい、自らの限界を感じ取ったようだった。

 

程なく、昼間の街を歩いていると、部下のトヨに声をかけられた。

 

トヨは、辞表のハンコを得るために、勘治の家を探しているところだった。

 

「退屈。死にそうよ。毎日判で押したみたい。新しい出来事なんか、何も起こんない」

 

勘治が家へ連れて行くと、出勤するところだった光男夫婦は、突然、若い女性を同伴して帰って来た父の姿を見て驚き、一連の勘治の行動の原因がこの女性との関係にあると疑う一枝に対し、光男はそれを否定するが、自信を持ち得なかった。

 

真面目一方の父と共存してきた経験則を疑えないからである。

 

勘治はトヨを部屋に通すと、長年の役所勤めについての心境を吐露する。

 

「この30年間、役所で一体何をしたのか、いくら考えても思い出せない。覚えているのは、つまり、ただ忙しくて、しかも、退屈だったってことだけだ」

「私、勘違いしてたわ。課長がそんな話せる人だったなんて」

 

トヨの退職願にハンコを押した勘治は、自分の欠勤届の提出をトヨに頼む。

 

トヨは、役所では勘治の欠勤が「突然変異」だと評判にになっていると話した後、それを一蹴してしまう。

 

「構うもんですか。30年も無欠勤だったんじゃないの。半年ぐらいサボる権利あるわ」

 

トヨと一緒に家を出た勘治を、二階の窓から窺う光男と一枝は、新しい帽子を被った勘治と腕を組み、ネクタイを直すトヨの振る舞いを見て、二人の仲を確信するに至った。

 

トヨの穴の開いたストッキングを見て洋品店に連れて行き、喫茶店でケーキをご馳走する。

 

天真爛漫なトヨは、悪びれもせず、市民課の課員のそれぞれにつけたニックネームを披露すると、勘治は腹の底から哄笑する。

 

流石に課長につけたニックネームは控えたが、勘治が聞きたがる。

 

「じゃぁ言うわ。“ミイラ”」

 

勘治はハッとして下を向くが、トヨが屈託なく笑うので、釣られて勘治も笑い出す。

 

役所に辞表を出しに行くのを引き止め、トヨをパチンコに連れて行き、更にアイススケート、遊園地、映画と、あらゆる娯楽を一日中、共に楽しむのだ。

 

すき焼き屋でも、食事を全く取らない勘治は、旺盛に食べ続けるトヨに、なぜ30年間、ミイラのようになって働いていたかを話し始める。

 

「みんな倅のためを思って…ところが、倅は全然そんなことは、少しも、その…」

「でも、そんな責任を息子さんに押し付けるのは無理よ。だってそうでしょ?息子さんがミイラになってくれって頼んだんなら別だけど…どうしたんですか?私になんかに息子さんの悪口言ったりして…やっぱり息子さんが一番好きなくせに!」

 

そう笑いながら言われた勘治は、嬉しそうに笑顔を見せる。

 

家に帰り、食後の団欒で、光男は新聞で顔を隠したまま、記事を話題にし、一枝は一言も話さず、勘治は口籠るばかり。

 

光男に聞いてもらいたいことがあると切り出すと、一枝と目配せし、勘治の告白を遮ってしまうのだ。

 

女の話だと思い込んでいる光男は、伯父に相談してきたことを話していく。

 

「こういう問題はひとつ、後腐れないように事務的に済ませておきたいですな。例えば、お父さんの財産に対する我々の権利にしても、前もっていざこざのないようにしておかないと。現に、この4、5日の間、5万円も使わされてるじゃありませんか。今どきの若い女は…」

「光男、お前、何を…」

 

勘治が反論しようとしても、取り付く島もなく、激昂した光男は机を叩いて捲し立てていく。

 

「…あっさり、年甲斐もない放蕩を認めているんですよ!…大体そういう関係の女を家に連れて来るなんて、非常識過ぎますよ!」

 

一方的に責められた勘治は、言葉を失う外になかった。

 

「この物語の主人公が、この椅子に座らなくなってから2週間立った。そしてその間に、渡辺氏に関する様々の噂や無数の憶測が生まれた。そして、その噂や憶測はどれもこれも、渡辺氏が大変馬鹿なことをしているという点では、完全に一致していた。しかし、当人にとって、この間の行動ほど真剣だったことは未だかってないのだ」(ナレーション)

 

勘治はトヨの勤める工場に押し掛け、遊びに誘うが、痛烈に拒否される。

 

「ここは市役所と違うのよ!一時間でできる仕事を、わざわざ一日掛りでやるなんて、そんなバカバカしいところじゃないんだから。ここでは一秒無駄にすれば、それだけ収入が減るのよ!」

 

ここまで言われ、元気なく帰って行く勘治が可哀そうに思ったのか、今夜だけということで、また会うことになった。

 

レストランで押し黙る勘治に、トヨが不満をぶつける。

 

「もうたくさん。この次はお汁粉屋、それから、お寿司屋かお蕎麦屋。ね、そんなこと繰り返して、何になるの?ご馳走になってこんなこと言っちゃ悪いんだけど、私、本当に参っちゃった。だって、お互いにもう話すことなんてないんだもの…またそんな顔して。本当のこと言うと、私、気味悪いわ。課長さんが…」

「…自分でも分からない。どうして、その、君の後ばかり追い回すのか。ただ、わしに分かっているのは…君、わしはもうすぐ死ぬんだ。わしは胃癌だ。ここにその…君、分かるかね。どうジタバタしても、あと、一年か半年だ。それが分かってから、急に、何かここがその…わしは子供の時、池で溺れかけたことがある。その時の気持ちそっくりだ。目の前が真っ暗。もがいても暴れても、何もつかむものがない。ただ、君だけ…」

「息子さんは?」

「息子のことは言わんでくれ!わしには、息子はおらん。独りぼっちだ…息子は、どこか遠いところにいる…思い出すだけも、かえって辛い」

「だって、あたしなんか、どうして?」

「しかし…君を見てると、なんか、ここが温かくなる…君は若い、健康で…つまり、君はどうしてそんなに活気があるのか、全く、その活気が…わしには羨ましい。わしは死ぬまでその、一日でも良い、そんなふうに生きて…死にたい。とても死ねない…何かしたい。ところが、それが分からない。ただ、君がそれを知ってる…教えてくれ!どうしたら君のように…」

「だって、私、ただ働いて、食べて、それだけよ!」

 

勘治を振り払い、トヨは工場で作っている動くウサギの玩具を見せる。

 

「こんなもんでも作ってると楽しいわよ。私、これ作り出してから、日本中の赤ん坊と仲良しになったような気がするの。課長さんも、何か作ってみたら?」

「役所で一体、何を?」

「そうね、あそこじゃ無理ね。あんなとこ辞めて、どっか…」

「もう、遅い…」

 

勘治は俯(うつむ)き、涙ぐみ、考え込むと、突然、顔を上げ、にやりと笑うので、トヨは怖くなって反射的に避ける。

 

「遅くない。あそこでも、やればできる。ただ、やる気になれば…」

 

勘治は玩具を手に取り、立ち上がって足早に去って行く。

 

「わしにも何かできる」と呟きながら階段を駆け下りる勘治に、他の客の誕生日パーティーでの“ハッピー・バースデー”の歌が降り注がれるのである。

 

秀逸な構図だった。

 

翌朝、勘治が突然出勤して仕事を始めているので、市民課の面々は驚き、戸惑うばかり。

 

勘治は堆(うずたか)く積まれた書類の中から、「暗渠修理及び埋立陳情書 黒江町 婦人連合会」の文書を大野に見せ、「本件は土木課へ回送すべきものと認めます」と貼られた付箋(ふせん)を剥(は)がし、市民課が主体となって他の課をまとめて、計画を進めていくことを指示する。

 

早速、勘治は大野と主任の斎藤を引き連れ、実地調査に向かっていくのだ。

 

人生論的映画評論・続: 生きる('52)   黒澤ヒューマニズムの真骨頂  黒澤明