1 「ケイコは目がいいんですよ。じーっと見てる。多少時間はかかりますけどね。それは、苦労なんかじゃないですね」
2020年12月 東京
「小河恵子 東京都荒川区生まれ。生まれつきの感音性難聴で、両耳とも聴こえていない。2019年プロボクサーライセンス取得 1R 1分52秒 KO勝利」(字幕)
【感音性難聴とは、内耳・中枢神経系に障害がある場合に起こる難聴で、治療が難しい】
荒川ボクシングジムで着替えを済ませたケイコは、トレーナーの松本から「コンビネーションミットやろう!」を書いたホワイトボードを見せられ、小さく頷く。
リングに上がり、激しいコンビネーションミットの練習の後、ケイコはマシンを使ってウェイトトレーニングをした後、自分がこなした練習をノートに記録する。
【コンビネーションミット(コンビネーション)とは、ミットのトレーナーに対してグローブを嵌めた本人が距離やコンビネーションやリズムを素早く確認する練習のこと】
アパートに帰ると、弟の聖司(せいじ)がギター弾いていて、恋人の花がケイコに挨拶をする。
ケイコが洗濯をしている間に花が帰り、散らかったテーブルを片付づけたケイコが、ヘッドフォンをした聖司に手話で、家賃を要求する。
聖司は足りない分は来月払うと手話で返してきた。
翌朝、目覚ましのスマホのバイブで起きたケイコは、荒川の高架下の河川敷でジムの会長とストレッチをする。
ケイコのシャドーボクシングを見て、目を細める会長。
【シャドーボクシングの目的は、フォームの習得・修正にある】
その後、ケイコは勤務先のホテルに出勤し、客室の掃除の仕事に従事する。
その頃、会長は病院で聴力と視力の検査を受け、待合室には妻の千春が待っていた。
ケイコはコンビニで買い物をして、店員から声をかけられても聞き取ることはできず、歩いていても近づく自転車に気づくこともなく、人にぶつかって文句を言われても、耳に入ってこない。
そして、ジムで会長とケイコのミット打ちトレーニングを見守る千春。
ケイコはいつものようにウェイトトレーニングをして、トレーナーの松本とコンビネーションミットを終えた後も、帰り際に鏡の前でシャドーボクシングをして動きを確認する。
【ミット打ちトレーニングは筋肉を強化・持久力の向上が目的】
2021年1月15日、プロ2戦目の試合の最終ラウンド。
追い詰められたケイコは連打を浴び、それを観戦している母の喜代実(きよみ)は、顔を歪めて下を向き、代わって聖司がデジカメを録る。
判定は僅差でケイコが勝った。
試合後、控室へ会長に挨拶に来た喜代実と聖司。
「なんだか今日はボコボコにやられちゃいましてね。うまいもんでも何か食べさせてやってください」
カメラマンに「笑顔で!」と写真を撮られるケイコは、うまく笑顔を作れない。
家に戻ったケイコは、聖司からデジカメで喜代実が撮った写真を見せられ、手話で相手の選手が試合後に病院へ行ったことも知らされる。
会長の元に、新聞記者が取材に訪れた。
日本で現存する最古のジムだという荒川ボクシングジムは、1945年に会長の父が始め、子供がいない会長は自分の代でお終いだと話す。
「小河選手との出会いはいつですか?」
「2年くらい前ですかね。まあ、女の子だから、ダイエット目的とか、健康目的とか、そういうことだと思ったんですけどね。まあ、ものすごく熱心でね。それに、ボクシングの基礎みたいなのも、粗削りだけどできてたんですよ。ほぼ毎日通って来るし、男顔負けの練習量だし、だから、もしかしたらプロになりたいのかなって聞いたんですよ。そしたら、“はい”って。それまで声聞いたことなかったんですけどね。初めて」
「耳が聞こえないというのは、ハンデにならないんでしょうか?」
「それりゃぁ、もう、致命的ですよね。レフリーの声もゴングも聞こえない。セコンドの指示も聞こえない。こんな危険なことはないですよ。だから、前にジムで練習し合いもさせてもらえなかったって言ってましたからね」
「練習する上で、どういった苦労がありますか?」
「ケイコは目がいいんですよ。じーっと見てる。多少時間はかかりますけどね。それは、苦労なんかじゃないですね」
「目ですか。小河選手がボクシングをする理由は何だと思いますか?」
「それは、なんだろうなぁ。なんか高校時代は、教師を殴ったりするぐらいの、そんな荒れ方をしてたって。もしかすると、あれかなぁ。ケンカが強くなりたくて、ボクシングを始めたっていう…まっ、それはないかなぁ。いや、ただね。あのボクシングやってる時っていうのは、こう、頭が空っぽになるんですよ。これ、無になるって言うんですけどね。いやぁ、それが気持ちいいのかな。うん」
「小河選手がプロになれたのは、才能や素質があったんでしょうか?」
「才能…は、ないかなぁ。小さいし、リーチはないし、スピードもないし。だけど、なんだろうなぁ。人間としての器量があるんですよ。素直で率直で。うん、すごくいい子ですよ」
踏切を待つ間、喜代実が恵子に手話で訊ねる。
「いつまで、ボクシングを続けるつもりなの?もう、いいんじゃないの?プロになって、それだけですごいことなんだから。もう十分じゃないの?」
ケイコは目を逸らし、喜代実はそのままキャリーケースを曳いて、去って行く。
仕事場で体調が悪そうなケイコだったが、同僚に試合で勝ったことを祝福され、次の試合を楽しみにしていると肩を叩かれる。
その頃、会長は引退を準備していた。
会員(練習生)の激減と、自らの健康状態が原因と見られる。
体調を崩したままのケイコは、聖司に次の試合はいつかと聞かれる。
「2か月後くらい」
「ボクシングの面白さってなに?」
「殴ると気持ちいい」
「怖くないの?」
「怖いに決まってるでしょ」
「なるほど。安心した」
「どういう意味?」
「普通の人間なんだなと思って」
前回の試合の録画を見ながら、トレーナーの林がウィークポイントをトレースし、スパーリングをすると、ケイコは鼻血を出してしまう。
会長は千春と伴い、医師から検査結果を聞き、そこで動脈硬化が進んでおり、視力もかなり落ちていて、10年前の脳梗塞の再発の可能性を指摘された。
ケイコは、いつものように会社帰りにジムへ行くが、路地裏の階段の手前で引き返し、家で会長宛てに、「一度休みたいです」とノートに書いて、ページを破って折りたたむ。
ジムに行くが、会長は留守だったが、帰途、会長と千春とすれ違っても、手紙を渡すことはなかった。
会長は練習生たちを集め、ジムの閉鎖を伝えて謝罪し、予定の試合は、2人のトレーナー(林と松本)が最後まで面倒を見る旨を伝えた。
友人たちと会っていたケイコは、松本からジムの閉鎖の発表があったことをメールで知らされるのだ。
暗い路上で立ち尽くすケイコ。
何かが大きく変容していくようだった。
人生論的映画評論・続: ケイコ 目を澄ませて('22) 魂を込めたボクシング人生を再駆動していく 三宅唱