秋立ちぬ('60) 成瀬巳喜男  <削りとられた夏休み>

 まもなく秀男の母、茂子は近くの旅館に住み込みで働き始めた。

 一人残された秀男は、伯父さんの家の三階に、この家の長男の昭太郎の部屋に寝起きするようになった。昭太郎は、この築地の八百屋の仕事を続ける一方、夜遊びをする普通の青年だった。秀男もまたこの青年と親しくなり、八百屋の仕事を手伝うことになり、少しずつ都会の生活に慣れつつあったのである。

 しかし実質的に、この少年が置かれた立場は、里子に出された状態と変わるものではなかったのである。昭太郎がベランダで、夜の闇の中にギターの弾き語りを心地良く奏でている傍らに、布団に入った秀男の涙ぐむ表情が印象的に映し出されていた。

 それに気づいた昭太郎は、秀男に語りかけた。
 
 「何だ、お前まだ起きていたのか」

 反応しない秀男に、昭太郎は寄り添うように問いかけた。

 「泣いてんのか?おい、母ちゃんがいなくて寂しいのか?」
 「ううん」
 「おい秀ちゃん、ドライブに連れてってやろうか?」
 
 この言葉に救われたかのような秀男の明るい表情が、次のドライブの場面に刻み付けられた。二人はランニング姿で、夜の闇の中をバイクで疾駆する。

 「また連れて来てやるからな。その代わり、配達手伝うんだぞ」
 「はい!」

 少年の元気な返事が、騒音を撒き散らすバイクの後部座席から弾かれた。少年は、少し元気を取り戻したのである。
 
 まもなく少年は、八百屋の商売の手伝いをすることになった。

 上京して十日ほども経つと仕事の手伝いにも慣れ、少年の表情には子供らしい明るさが蘇ってきた。

 そんなとき、昭太郎から母の勤める旅館に野菜を届けるように頼まれた。昭太郎の配慮である。その配慮に、「会いたいずら」と元気よく答える秀男。

 秀雄は旅館に行く途中、一人の少女と遭遇した。

 少女は、秀男が上京した当日、通りですれ違ったあの女の子だった。その女の子は、旅館まで後ろからついて来て、秀男は不思議そうに振り返る。やがてその少女が、母親の働く旅館の女将の娘であることを知ることになったのである。

 「あの、母ちゃんいるずらか?」
 「母ちゃん?・・・・あんた、お茂さんの子供かい?」

 母を求める秀男の思いに対して、台所にいたお手伝いさんは、仕事中という理由で母の茂子に会わせることを躊躇していたが、そこに少女が機転を利かせて、秀男を家の中に引き入れたのである。

 少女の名は順子。

 秀男の上京後、昭太郎に次いで、まもなく心を通わせることになる相手である。小学校4年生の順子に、算数の宿題を教える秀男。その秀男に、自分の家庭の事情を話す順子。子供は打ち解け合うのが早いのである。
そこに、茂子が入って来た。

 「秀ちゃん、いつまでもお邪魔してないで、早くお帰り。お店だって忙しいんでしょ?」
 「母ちゃん、今度いつ来るずら?」
 「公休もらったら、知らしてあげるから」
 「どっか、海連れてってくれや」
 「海・・・そうねぇ、そんな暇があればいいけど・・・」

 素気ない会話の後、仕事中の茂子は、部屋に戻った。
 
 そこには、茂子とすっかり懇ろになっている真珠商の富岡が待っていた。茂子は旅館内で噂になっていることを気にかけていて、今や富岡頼みという状態なのである。

 「富岡さん、奥さんにしてくれなんて言いません。でも、相談にだけは乗って下さいね、これからも」
 「分ってるよ。大丈夫だよ」

 富岡の反応は、男の頼もしさを感じさせるものだった。

 一方、順子の部屋で遊んでいる秀男は、順子から海を見に連れて行ってあげると言われ、喜びの表情を見せる。信州生まれの少年は、未だかつて海を見たことがないのである。

 その海をすぐ近くで見られるという順子の案内で、まもなく二人はデパートの屋上に立った。遠くに霞む東京湾が、秀男の視界に捉えられた。

 「あれが海ずらか?」
 「そうよ。ほら、船が見えるじゃない」
 「ちっとも青くねえずらに。それに波もねえじゃん」
 「こっからじゃ、見えないのよ。近くに行けば、青いわよ」
 「そうかなぁ、近くへ行って見てえじゃん」
 「じゃあ、今度一緒に行きましょうよ」

 幼い二人の会話は、東京湾という、まだ現在ほど汚濁していなかった海のイメージの内に昇華されていった。デパートの階下で昆虫を買おうとする順子に、秀男は自分が信州から持ってきたかぶと虫を与えるという約束を交し合った。

 海と昆虫。それが今、二人の育ちの隔たった子供の心を繋ぎとめていた。


(人生論的映画評論/秋立ちぬ('60) 成瀬巳喜男  <削りとられた夏休み>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/12/60.html