サッド ヴァケイション('07) 青山真治 <「陰影のスポット」を仕切る、「無限抱擁」への原点回帰>

 真紅に眩い若戸大橋を仰ぎ見る、間宮運送という運送会社のそのポジションは、逆に言えば、35kmもの杭州海上大橋には及びもつかないが、かつて東洋一の吊り橋であった若戸大橋から俯瞰(ふかん)しにくい位置にあるということで、まさに高度成長の象徴でもあるというその見えにくさこそが、この訳有りの会社に集約される、「陰影のスポット」のアウトサイダーぶりを身体表現するものだった。

 この「陰影のスポット」に蝟集(いしゅう)する面々は、医師免許を剥奪された偽医者だったり、多額な負債を負って、借金取りに追われる若者だったり、極道に追われる訳有り者だったり、バスジャック事件に遭遇し、母の家出と父の交通事故によって、今も母を探す娘だったり、殺人事件を犯した後、自殺した兄の幻影を追う知的障害者だったり、更に、万引き常習の暴走息子だったり等々して、そこに実母へのリベンジのため、中国マフィアに追われる主人公が加わっていくという具合。

 ここで言う、「VACATION」とは、恐らく、「緊急避難所」というような意味を込めて使っているのだろう。即ち、「間宮運送」=「陰影のスポット」=「緊急避難所」という風に把握すべきだということではないか。

 無論、彼らは、社会規範と完全に乖離した独自の行動規範によって生活を繋ぐ、映像の中国マフィアに代表されるようなアウトロー集団ではない。アウトサイダー的な要素を多分に含むものの、彼らは普通の人々と同じように極めて合法的な職業に従事し、そこで働き、身過ぎ世過ぎ(みすぎよすぎ)を繋いでいる。

 それにも拘らず、彼らは当該社会のごく普通の生活を営む人々の、その普通の規範を堅持する日常性のイメージラインには重なりにくい人々である。彼らのいずれもが、普通の社会的規範を引き受けて呼吸を繋ぐには、その規範の中枢を堂々と歩行する身綺麗さや、無前提の闊達(かったつ)さと縁が切れているように見えるからだ。

 彼らの身体表現は、「陰影のスポット」へのマッチングに相応しいイメージを示唆しているが、そこでの「最適適応」の有りよう以外の選択肢を持ち得ないのである。

 だからと言って、この「陰影のスポット」は、英雄・豪傑が蝟集(いしゅう)した典型的なアウトロー集団であった「水滸伝」の「梁山泊」とも切れている。

 彼らの自我の内に体制への反発・不満が多いに含まれていたとしても、特段に彼らは、体制に反逆しようとする意図も持たないし、その熱量の継続力も不足しているだろう。だから、件の「陰影のスポット」は「梁山泊」ではないのだ。

 しかし彼らの自我は、このような人々に共通して見られるように、どこか常に不安定である。中心が周縁を強力に束ねていく理念・情念系が、圧倒的に不足しているからだ。

 何より、この「陰影のスポット」の中枢にいる人物(間宮運送の社長)の人柄は温和であり、包容力もあるが、映像で妻子を殴打する描写が拾われていたにしても、「父性」としての強靭さに欠けているという印象は拭えない。

 だからこの「陰影のスポット」は、「去る者は追わず、来る者は拒まず」という、そこだけは特段に開放系になっているが、それ故にこそと言うべきか、組織の秩序は流動的で、良い意味での「権力的推進力」を不足させてしまっている。このような秩序流動的な組織の団結力は当然の如く限定的であり、脆弱ですらあるだろう。

 それでも、この「陰影のスポット」が、その生命力を継続させるに足る時間を繋いで来て、近未来に向かって、そこにのみ希望が持ち得る可能性を示唆する最大の理由は、利益追及の機能集団としての性格の脆弱な組織の、その「影の推進力」になっている「母性」の限りない生命力が存在するからだ。

 その中心に間宮千代子がいて、それを補完する小さな「母性」が随所に展開しているのである。

 ①「男の人らは、好きにしたらええんよ。こっちは痛くも痒くもない。子供がおるけんね」

 ②「死んだもんのことも、生きとるもんのことも、忘れましょっち。これからは生まれて来るもんのことだけ考えましょっち」

 ③「あんたは捨てられんよ。ユリも、冴子さんも、子供も。皆、ウチにおるけぇ。あんたは帰って来るんよ。あんたはもう、私のたった一人の子供なんやし。間宮を継いでもらわにゃ、ならんのやけ。しっかりお勤めして、ようっと考えなさい」

 全て、間宮千代子の言葉。

 いずれも笑みを随伴していて、特段に感情を込めない堂々とした態度で語っていた。

 ①は、喪服を着た椎名冴子に対して、②は、出来の悪い息子を喪って憔悴し切った、夫の間宮繁輝に対してのもの。③は、ラストシーンで、留置施設において健次に語った言葉。

 一貫して変わらない千代子の人格は、梢の従兄の秋彦に語った以下の言葉によって止めを指すであろう。

 「健次は、それが耐えられんとやったんかの。何も切れたいと思うともひっついて来よる。何でん、許してしまいよる、そげん底知れん懐の深さがね、恐ろしかったとやないか」

 「底知れん懐の深さ」こそが、間宮千代子の真骨頂であり、その人格を根柢において支え切る最も強靭なメンタリティであると言える。

 映像は、この間宮千代子を「陰影のスポット」という「緊急避難所」の「影の推進力」を仕切る「大母性」として、そこだけは常に悠々とした律動で展開していくが、そんな「大母性」に後継する「小母性」の誕生を告げていく。

 梢の告白を盗み聞きした挙句、「俺には、お前らみたいに話して聞かせる価値あることは、何もない」と嘯(うそぶ)き、何か状況の尖った空気に馴染めず、漂流するイメージを体現するかのような後藤という若者が、ヤクザの借金取りに追われ、「緊急避難所」の狭い空間を逃避するだけの裸形の人格に接したとき、父を喪い、失踪した母を探す自立的な女性として立ち上げる梢が、優しく包み込むラストシーンは、まさに「小母性」の誕生を告げていくものだった。

 また、千代子の息子にレイプされ、PTSDの兆候を見せていたユリは、同じラストシーンで、その自我を復元させていく象徴的映像を刻んでいた。

 そして何より、母性を知らない主人公の健次に常に温かく寄り添って、その鬱屈する情動系を上手に吸収する役割を演じ続け、そして今、塀の中に拉致された未来の夫を待って、彼との間にできるであろう一粒種を守り育てるイメージの内に、「大母性」の立ち上げを堂々と身体表現するに及んだのだ。

 「EUREKA」、「Helpless」から続く“北九州サーガ”の最終到達点として、この映像が開いて見せたのは、このような「母性」という名の「無限抱擁」への原点回帰であった。


 ―― ここまで書いてきて、ハタと私は思う。

 果たして、こんな安直な括りで良かったのかと。


 それは、失いつつあるものへの郷愁であり、感傷であり、甘いものを食べて虫歯になった後で、ギャーギャー喚く脆弱な男たちによる我が儘で、途方もない甘え以外の何ものでもないと言えないか。

 確かにこの国には、体制によって与えられた権威を傘に着て、男たちがどれほど威張った時代があったとしても、事態に窮するや、そんな男たちが、その過剰な情感系を最後に丸投げするのは、「無限抱擁」への観音帰りという固有の文化的側面が連綿と繋がれてきて、そしてカオスの時代状況下においても、なお安楽死せずに温存されている何かであろう。

 しかし、この国の女たちこそが、例えば、この映像で描かれたような、幾分柔和な印象を与える軟着点に逢着するという包容力を持って、いつまでも男たちを慰撫(いぶ)し、持ち上げ、「影の推進力」という役割を好んで選択しているようには思えないのだ。

 寧ろ、一群の女たちは、これまでタブーとされたフィールド、例えば、格闘技の世界とか、政府や官僚の要職とか、ホモソーシャル(男同志の連帯感)を堅持する体育会系原理主義のフィールドに能動的にアクセスし、自らを立ち上げ、堂々と、且つ凛として、男たちを領導して、時として、余人を以(もつ)ては代えがたいような兵(つわもの)ぶりを発揮しているではないか。

 昨今の女たちは、著しくテストステロンを不足させた「草食系男子」に飽き足らず、マッチョにも届かず、強弁を連射するだけの男にも飽き足らず、寧ろ、限定的だが、強靭な指導者たる「本物」の男たちの出現を待望しているように思えるのだ。

 もうこの国の女たちは、五輪等のビッグイベントのスポーツ風景でお馴染みの、「負けて泣く男たち」の有りようを許容しなくなってきているのではないか。

(人生論的映画評論/サッド ヴァケイション('07) 青山真治 <「陰影のスポット」を仕切る、「無限抱擁」への原点回帰>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2009/09/07.html