パパってなに?('97) パーヴェル・チュフライ <「仮構された『父性』=スターリン」に対峙する「暴力的立ち上げ」>

 1  「盗まれた家族愛」と「奪われた少年時代」



 「原題の『泥棒』にはいろいろな意味がこめられています。盗まれた家族愛、奪われた少年時代・・・」(NHK教育テレビの番組・「ロシア語会話」の取材でのインタビュー)

 これは、「パパってなに?」という震撼すべき秀作の作り手である、パーヴェル・チュフライ監督の言葉。

 原題の「泥棒」とは、本作の主人公の一人である男の「稼業」を、単純に意味するものではなかったのである。

 「盗まれた家族愛」と「奪われた少年時代」こそ、「父性の欠落と、その暴力的立ち上げ」という由々しきテーマを真っ向勝負で問う、本作のメタメッセージでもあったのだ。

 人間が生きていくのに必要な精神的基盤や経済的条件が剥落した時代が、「ソビエト社会主義共和国連邦」という仰々しいネーミングを持った、帝国的な「国民国家」の危機的状況下に存在した。

 それを奪った者の名は、ヨシフ・スターリン

 史上最大の市街戦を展開した、ドイツ第6軍との「スターリングラード攻防戦」(1942年-1943年))において、50万人近い戦死者を出しながら、第二次大戦の分岐点となる決戦に勝利した国家の矜持が、なお支配力を持っていた文化的副産物として、大いにその価値を高めた「父性」の時代の栄光が、まさにスターリン時代の末期の混乱の中で相対化されていった。

 人々は自分の〈生〉を確保するために、必死に生きていく時代を繋いでいたのである。

 スターリン重篤が報じられただけで、「スターリン暴落」(日経平均株価が10%下落)を招来するほどの影響力を持つ男の逝去は、ソ連及び、東欧国家に甚大な衝撃を与えるに至った。

 神の如く崇められていた男への凄まじい個人崇拝は、ソ連国民の圧倒的支持を受けていた巨大な幻想体系の有りようによって検証されるが、1953年の男の逝去と、その後の混迷による反動は、そこに自我の安寧の基盤を求めていた人々の物語の揺動を惹起し、同時にそれは、「仮構化された『父性』」の喪失による精神的混乱に流れ込んでいった。

 そして由々しき事態は、この時代の混乱は、1991年のソ連邦の崩壊とオーバーラップし、「大ロシア」という物語に依拠していた人々の精神基盤を崩すに至ったのである。

 そして、この映画はスターリン末期の時代に生まれた作り手が、まさにソ連邦の崩壊に至る混乱期の中で手に入れた表現の自由を存分に活用し、その時代に不在化された「父性」の問題をテーマとする映像表現に結晶させた秀逸な一篇である。



 2  「何度漏らしても、最後には勝て」という物語の父性的展開



 「エカテリーナ・レドニコワが演じる母親はその純真さ、信じやすさ、その場しのぎの無秩序さにおいてロシアを象徴しています。戦後のスターリン時代末期のロシアにおける精神的な混乱を人々の関係に置き換えて表現してみたかったのです。これは実際の50代初頭には決して製作されることのなかった映画。自分の考えを自由に表現できる時代に監督をできることは何よりの幸せです」(NHK教育テレビの番組・「ロシア語会話」の取材でのインタビュー)

 これも、パーヴェル・チュフライ監督の言葉。

 「純真さ、信じやすさ、その場しのぎの無秩序さ」においてロシアを象徴する女と、その女が凍てつく冬の路傍で産んだ男児

 そして6年後、当てのない旅を続ける件の母子が出会う軍服姿の男。

 この3人が運命的に絡み合う物語が、本作の基本構造である。

 女の名はカーチャ。男児の名はサーニャ

 そして、軍服姿の男の名はトーリャ。

 前述したように、「泥棒」を「稼業」とする小悪人である。

 1952年のことだった。

 物語の母子は、1年後に「謎の急逝」を遂げる男が築いた、個人崇拝体制の崩壊の混乱期に呼吸を繋ぐ、厳しい生活を強いられたごく普通の庶民の象徴でもあった。

 冬の路傍でカーチャが産気づく冒頭のシーンは、そこから開かれた物語の陰鬱な流れ方を暗示するものだろう。

 父を知らずに産まれた男児であるサーニャが、6歳になっても、母性に依拠して生きる児童期初期の幼い自我の懐に、軍服姿の「泥棒」が唐突に侵入して来た。

 トーリャである。

 「その場しのぎの無秩序さ」を抱える母のカーチャは、この男に全人格的に縋り付くしか生きる術を持たなかった。

 そんな女の弱みに付け込んで、精悍な体躯を誇示する「泥棒」もまた、列車を乗り次いで、「泥棒家族の旅」を繋いでいくのだ。

 思うに、この「虚構の家族」を乗せて移動する、特化された列車の存在は、後に世界を震撼させた「スターリン批判」が出来しても、そこだけは些かも変容しなかった警察監視国家に象徴される、スターリン時代に仮構された、「負の遺産」の崩壊への歴史の流れをイメージさせたものと言っていい。

 歴史の時間軸が、「泥棒家族の旅」を続ける、この「虚構の家族」の移動の旅と重なるのである。

 しかし、しばしば映像に現れる「幻想の父」を求めるサーニャにとって、トーリャの存在は、自らが依拠する〈母性〉を蝕んだ挙句、幼い自我の懐に入り込む余地のない、未知なる〈女〉という何者かに変える忌まわしき大人でしかなかった。

 トーリャを「おじさん」としか呼べないサーニャは、その「おじさん」から、その度に叱咤されるのである。

 それにも拘らず、トーリャが身を以て教える「男としての生き方」は、児童期初期の幼い自我の懐にダイレクトに吸収されていく。

 「何度漏らしても、最後には勝て」

 トーリャの威圧感の前で失禁した初期児童に、トーリャが放った言葉である。

 サーニャにとって、トーリャが振舞う暴力的な父性的展開は、それ以外に吸収し得ない制約性の中で、まさに「幻想の父」のイメージを希釈化させる格好のモデルとなっていく。

 まさにトーリャは、「仮構された『父性』=スターリン」だったのだ。

 ―― この辺りの描写は、近年話題を呼んだ、アンドレイ・スビャギンツェフ監督の「父、帰る」(2003年製作)の物語の構造性に酷似する。

 しかし、一貫して「絶対的な神」として振舞うことによって、神話的なシンボリズムを強調した「父、帰る」よりも、本作は遥かに生身の人間の俗性が際立っていた。

 圧倒的なリアリズムが張り付く映像的効果を、本作は見事に表現していたのだ。

 思うに、資本制社会への急速な発展の中では、父性と母性の安定的な均衡を維持するのはとてつもなく困難なのである。

 しかし、その困難さが常に新しい文化を生み出していく。

 鮮烈な映像文化の尖りから、しばしば最も衝撃的な一作が分娩されるのだ。

 よく言われることだが、ロシアの女性は非常に強い母性を持っていて、しばしば夫より我が子を選ぶ意識の傾向が、離婚後も職業的な自立を果たしつつ、家事と育児を難なくこなす強さを発揮するのである。

 まるでそれは、我が子を過剰に囲い込む傾向が顕著な、我が国の母子関係と類似するのかのようだ。

 父性社会のように見られがちなロシアが、意外にも、我が国に近い母性社会の側面があることを認知することは重要である。

 もっとも、あの広大なるロシアという国家が、その歴史の中でエカテリーナ2世に代表される「女帝の時代」を現出させたからといって、決して母権制の社会であるという訳ではない。

 ともああれ、不在化された「父性」の問題をテーマとする本作は、「盗まれた家族愛」と「奪われた少年時代」という、「父性の欠落と、その暴力的立ち上げ」という由々しき問題意識を視野に入れて、「前線の強行突破」を描き出した、ラストシーンの決定力のうちに雪崩れ込んでいったのである。


(人生論的映画評論/パパってなに?('97) パーヴェル・チュフライ <「仮構された『父性』=スターリン」に対峙する「暴力的立ち上げ」>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/11/97.html