人生は、時々晴れ('02) マイク・リー   <空洞化された共同体が復元するとき>

 序  空洞化された共同体 ―― その復元の可能性



 これは、空洞化された共同体のその復元の可能性についての映画である。

 人の心が最も安らぐミニ共同体、今やそれは、私たちが「家族」と呼ぶものが占有するはずの強力な価値空間だった。しかしそこに亀裂が生じ、いつの日か、その復元の困難さを晒すほどに空洞化されてしまったとき、そこに拠って立っていたはずの安寧を、人々は一体、どこで手に入れたらいいのであろうか。

 本作は、そのような空洞化された家族の時間の復元の可能性について、その復元のコアとなるべきものの大切さを描くことで検証した一篇であった。

 「人生は、時々晴れ」
 
 これが、本作の邦題名だった。



 1  寒々とした家族の風景



 ―― その詳細なストーリーから追っていこう。


 老人ホームの薄暗い廊下で、一人の娘が黙々とモップで床を磨いている。まもなく、廊下の奥から杖を持った老人が現われて、滑りやすくなっている廊下を這うようにして歩いて来る。娘は老人に、「滑らないでね」と声をかけて、その通行の足場にスペースを空けた。その穏やかな口調から、娘の人柄の良さが想像される。娘の名は、レイチェル。

 その表情に感情をのせない印象のタクシードライバーが、一人の若者の客を乗せて街中を走っている。若者はバイクを盗まれたらしく、「ちくしょう!クソッタレ!」などと口汚く吐いて、車内で荒れている。その態度に動揺を見せるドライバーの名は、フィル。

 スーパーのレジであくせく働く中年女性。

 多忙すぎて、同僚の声かけにも生半可な返事しかできない。ようやく仕事が終わって、彼女は自転車で帰路についた。その頭にはヘルメットが被されている。その姿は、通りの激しい道を縫って通勤する日常的な風景を想像させるものである。彼女の名は、ベニー。

 そのベニーが集合住宅の一角に自転車を止めたとき、一人の若者が「クソ野郎、邪魔するな!」などと叫んで、少年を相手に暴力を振るっていた。

 その場に駆けつけたベニーは若者の暴行を止めて、アパートの自宅に急いで戻った。傍らには、その若者がいた。かなり肥満気味のその若者の名は、ローリー。

 激しくアパートの扉を叩くローリー。

 やがて扉が開けられて、一人の娘が迎えに出た。彼女もまた、極めて肥満気味である。その娘はレイチェルだった。ローリーはレイチェルの弟であり、ベニーはその母である。

 そのローリーは、今日も学校に行っていない様子だった。昼過ぎまで自室で寝ていて、そのストレスのはけ口を先の少年にぶつけていたらしい。姉のレイチェルは自宅でも物静かであり、読書で時間を潰していた。既にこの描写を待つまでもなく、姉弟の性格の違いは瞭然としていた。

 一方、タクシードライバーのフィルは、同僚が起した車の事故に同情し、相談に乗っている。彼の名はロン。フィルと同じ集合住宅に住んでいる。
 
 「事故がなけりゃ、次の角で子供を轢いたかも知れん。一寸先は闇だ。どうなるか分らん。運命が分れば、怖くてベッドから出られない。それが人生だ。時は流れて地球は回り、潮が満ちたり引いたり、人間は生まれて死ぬ」

 こんなことを、フィルは相棒に話している。その相棒はフィルの話を聞いている素振りも見せず、問いかけた。

 「女房はスーパーで何してる?」とロン。
 「知らん」とフィル。
 「何係だ?」
 「さあな。何とか飢えは凌いでる。俺の稼ぎで」
 
 この何の変哲もないような短い会話の中に、フィルの家族の寒々とした風景が読み取れる。

 以上の描写の導入で、この映画が集合住宅に住む労働者の家族の有りようを描く作品であることが想像される。勿論、作品の中枢を成すストーリーが、フィルを父とし、ベニーを母とし、そして、レイチェルとローリーの4人を家族とする物語であることは自明である。



(人生論的映画評論/人生は、時々晴れ('02) マイク・リー   <空洞化された共同体が復元するとき>」)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_24.html