1 陽光眩しい田舎の日曜日
1912年、樹木がその色彩を鮮やかに染めつつある、初秋のパリ郊外。
およそ第一次大戦前夜の、暗雲垂れ込めつつあるヨーロッパの風景とは思えないような、長閑(のどか)なる田舎の日曜日。
その日、既に老境に入った画家のラドミラルの邸に、パリから息子の家族が訪ねて来る予定になっていた。
息子ゴンザーグの訪問を心待ちにしているラドミラルは、永年、自分の面倒を見てくれる家政婦のメルセデスと共に、訪問の準備に余念がない。駅まで歩いて10分の距離にあるという老画家の豪邸は、その日、ひと際季節の輝きに包まれているように見えた。
ラドミラルは恐らくいつもそうであるように、メルセデスとの軽妙な会話をクロスさせている。そんな日常がさり気なく映し出されて、いかにも心地良さそうな描写にナレーションが追っていく。
「ラドミラル氏にとって、妻亡き後、メルセデスはかけがえのない存在だった。彼女の機嫌を損ねて、出て行かれたらお終いだ。しかし、メルセデスも年老いた主人を慕っていた。いつか捨てられるかもなどと想像して、昔のように女性との駆け引きを楽しんでいるのだ」
ラドミラルは、息子の家族を迎えに行くために自邸を出た。
白い服が眩い二人の少女が、邸の前で縄跳びをしている。元気な子供の姿を一瞥して、スーツで身を固めた老画家は、いかにも紳士然として、長閑な未舗装の道を歩いていく。それは、陽光眩しい田舎の日曜日に最も相応しい光景のようであった。
矍鑠(かくしゃく)とした足取りで駅に向かう途中の道で、息子の家族と遭遇した。恐らく、それがいつものパターンなのであろう。
「どうやら、また早く汽車が着いたようだな」とラドミラル。
「時間通りでしたわ」とマリー・テレーズ。息子の夫人である。
「11分前に出たのに、時計の故障だ」とラドミラル。
この反応も、いつものパターンなのであろう。それは矍鑠としていながらも、年々足の衰えを隠せない老画家の、精一杯の見栄でもあった。
息子夫婦は三人の孫を連れて、父のラドミラルと共に、邸までの長閑な道を歩いていく。孫たちは余程楽しいのだろう。子供らしく無邪気にじゃれ合っている。
「喧嘩しないで、田舎の空気を吸いなさい」
二人の男の子の孫たちを、祖父は、これもいつものように深々と受容している。僅か数分間の道のりの中での大人たちの会話は弾んでいる。映像が伝えるイメージは、どこまでも情愛を込めた団欒の空気感に充ちていた。
そんな中での、父子の会話。
「お前たちに会うのも2週間ぶりだな。忙しいんだろう?」と父。
「先週は・・・」
そう言いかけた息子に、父はすぐフォローする。
「言い訳はしなくていい。わしは待つだけだ」
「そうだね」と息子。
「わしの場合、いつでも出かけられると思うと、却って決められない。でも、お前たちは日曜が休みと決まっているから簡単だ。それに旅慣れている。人数が多い方が何かとまとまりやすい」
「まあね」
「絵も同じだ」
父と息子の会話には毒気がない。
それでも毎週、家政婦と二人暮しの父を訪ねる息子夫婦には、少しずつ精神的リスクが累積されてきているようにも思える。孫たちも成長するに連れ、自分の世界を広げていくだろうし、田舎の日曜日にその身を無垢な心で預ける時間にも臨界点が出てくるだろう。
この日も、既に遊びつかれた孫の男の子二人は、真っ先に邸に着くや、ソファに寝そべって、そのエネルギーを繋げられない思いを捨てていた。それを見た父は、彼らを戸外に出して、自由に遊ばせた。
1912年、樹木がその色彩を鮮やかに染めつつある、初秋のパリ郊外。
およそ第一次大戦前夜の、暗雲垂れ込めつつあるヨーロッパの風景とは思えないような、長閑(のどか)なる田舎の日曜日。
その日、既に老境に入った画家のラドミラルの邸に、パリから息子の家族が訪ねて来る予定になっていた。
息子ゴンザーグの訪問を心待ちにしているラドミラルは、永年、自分の面倒を見てくれる家政婦のメルセデスと共に、訪問の準備に余念がない。駅まで歩いて10分の距離にあるという老画家の豪邸は、その日、ひと際季節の輝きに包まれているように見えた。
ラドミラルは恐らくいつもそうであるように、メルセデスとの軽妙な会話をクロスさせている。そんな日常がさり気なく映し出されて、いかにも心地良さそうな描写にナレーションが追っていく。
「ラドミラル氏にとって、妻亡き後、メルセデスはかけがえのない存在だった。彼女の機嫌を損ねて、出て行かれたらお終いだ。しかし、メルセデスも年老いた主人を慕っていた。いつか捨てられるかもなどと想像して、昔のように女性との駆け引きを楽しんでいるのだ」
ラドミラルは、息子の家族を迎えに行くために自邸を出た。
白い服が眩い二人の少女が、邸の前で縄跳びをしている。元気な子供の姿を一瞥して、スーツで身を固めた老画家は、いかにも紳士然として、長閑な未舗装の道を歩いていく。それは、陽光眩しい田舎の日曜日に最も相応しい光景のようであった。
矍鑠(かくしゃく)とした足取りで駅に向かう途中の道で、息子の家族と遭遇した。恐らく、それがいつものパターンなのであろう。
「どうやら、また早く汽車が着いたようだな」とラドミラル。
「時間通りでしたわ」とマリー・テレーズ。息子の夫人である。
「11分前に出たのに、時計の故障だ」とラドミラル。
この反応も、いつものパターンなのであろう。それは矍鑠としていながらも、年々足の衰えを隠せない老画家の、精一杯の見栄でもあった。
息子夫婦は三人の孫を連れて、父のラドミラルと共に、邸までの長閑な道を歩いていく。孫たちは余程楽しいのだろう。子供らしく無邪気にじゃれ合っている。
「喧嘩しないで、田舎の空気を吸いなさい」
二人の男の子の孫たちを、祖父は、これもいつものように深々と受容している。僅か数分間の道のりの中での大人たちの会話は弾んでいる。映像が伝えるイメージは、どこまでも情愛を込めた団欒の空気感に充ちていた。
そんな中での、父子の会話。
「お前たちに会うのも2週間ぶりだな。忙しいんだろう?」と父。
「先週は・・・」
そう言いかけた息子に、父はすぐフォローする。
「言い訳はしなくていい。わしは待つだけだ」
「そうだね」と息子。
「わしの場合、いつでも出かけられると思うと、却って決められない。でも、お前たちは日曜が休みと決まっているから簡単だ。それに旅慣れている。人数が多い方が何かとまとまりやすい」
「まあね」
「絵も同じだ」
父と息子の会話には毒気がない。
それでも毎週、家政婦と二人暮しの父を訪ねる息子夫婦には、少しずつ精神的リスクが累積されてきているようにも思える。孫たちも成長するに連れ、自分の世界を広げていくだろうし、田舎の日曜日にその身を無垢な心で預ける時間にも臨界点が出てくるだろう。
この日も、既に遊びつかれた孫の男の子二人は、真っ先に邸に着くや、ソファに寝そべって、そのエネルギーを繋げられない思いを捨てていた。それを見た父は、彼らを戸外に出して、自由に遊ばせた。
(人生論的映画評論/田舎の日曜日('84) ベルトラン・タヴェルニエ <老境の光と影――慈父が戦士に化ける瞬間(とき)>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2008/11/blog-post_08.html