バグダッド・カフェ('87)  パーシー・アドロン <「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂>

 1  疲弊し切った二人の女の邂逅の象徴的構図



 本作の作り手が、構図に拘る事実を印象付ける象徴的なシーンがあった。

 ブレンダとジャスミンの、初対面のシーンである。

 まるで商売っ気がなく、鈍重な夫を追い出し、ハンカチで涙を拭うブレンダと、反りが合わないのか、喧嘩ばかりの夫を見限って、一人夜の砂漠を歩き果てた疲労感で、ハンカチで汗を拭くジャスミン

 疲弊し切った二人の女が、画面一杯にシンメトリーに向き合って、奇妙な均衡を保持する構図こそ、そこから開かれる「砂漠の奇跡」の物語のシグナルになっていくのだ。

 そこは、色彩と光と風の自然の造形美を映像構築して見せた、乾いた砂漠の中枢に位置する唯一のオアシス。

 その名は「バグダッド・カフェ」。

 しかし、唯一のオアシスであるはずの「バグダッド・カフェ」は、砂漠に生きる者の厳しさを内化し、そこで充分な「潤い」を自給する場所としての機能を果たしていなかった。

 働く意欲のない店員、遊び盛りの女の子、生まれたばかりの子供の面倒を母に押し付け、自分はバッハの肖像の前で、一日中ピアノを弾く息子、そして、そこにやって来る疎らな客もどこか風変わりな御仁たち。

 全く役立たずの夫を持つミストレスのブレンダだけが、「バグダッド・カフェ」を切り盛りしているが、一日中、不平不満のシャワーを浴びせて、彼女のストレス瓶は今や飽和状態と化し、突沸(とっぷつ)寸前だった。

 ワースレスな夫を追い出した女と、夫から逃れた女の初対面の象徴的構図は、彼女らにとって殆ど最悪の状況下での邂逅だったのである。



(人生論的映画評論/ バグダッド・カフェ('87)  パーシー・アドロン <「日常性」の変りにくさに馴染んできた者たちによる、「第二次オアシス革命」への過渡期の熱狂> )より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/10/87.html