飢餓海峡('65)  内田吐夢 <「極貧者利得」の欺瞞性を衝かれた男の脆弱性、或いは、「聖なる娼妓」の「無垢」という名の非武装性>

 1  「無償の愛」の底力の前で屈服する男の崩れ方に集約される物語の決定力



 「八重はソーニャのように、男主人公にとっては無償の愛をかわしあう相手でなければならぬ。(略)とにかく、二人の主人公が出来上がると、その二人の性格や、こし方や、生きているけしきの実在化に汗をながす楽しみが加わった。あり得ない犯罪ながら、あり得たように書いて、しかも作者は、この種の小説の本道を裏切って、のっけに犯人を登場させたのだから、興味は謎解きにはなかった。この主人公たちが如何に生きて行くかにあった」(『飢餓海峡』あとがきより 「水上勉全集 6」中央公論社

 これは、原作者本人の言葉。

 ここで原作者によって語られているように、原作との若干の差異が認められながらも、二人の男女の主人公の人物造形の構築度が本作の生命線になっていると言っていい。

 従ってこの映画は、その時代に住む庶民の大半がそうであったように、赤貧洗うが如しの生活を余儀なくされた、二人の男女の人物造形の構築度と、その人物を演じる俳優の表現力の達成度に決定的なウェイトが置かれることになる。

 そして、多分に類型的な人物造形のうちに、深い陰翳と、それを束の間抱擁する生命の躍動を身体表現し切るという、その高いハードルをクリアし得たにかに見える俳優の表現力と、決定的な局面での突破力の凄み。

 それが、一貫して妥協を許さず、力技で押し切った感のある映像構成の根柢を支え切っていた。
 
 これは何より、「ソーニャ」の「無償の愛」を貫徹した、極めて文学的なシークエンスを内包しつつ、その「無償の愛」の底力の前で屈服する男の崩れ方に集約されるように、決定的な局面での突破力の凄みを見せた、俳優の表現力の達成度の高さを検証した一篇だった。
 
 
(人生論的映画評論/飢餓海峡('65)  内田吐夢 <「極貧者利得」の欺瞞性を衝かれた男の脆弱性、或いは、「聖なる娼妓」の「無垢」という名の非武装性>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2011/09/65.html