必死剣 鳥刺し(‘10) 平山秀幸<「葛藤・内省描写」の不足によって失った生身の質感を有する人格像の厚み>

イメージ 11  「葛藤・内省描写」の不足によって失った生身の質感を有する人格像の厚み



映像総体には特段に破綻がなく、客観的には佳作と評価できるかも知れないが、私としては不満の残る作品となった。

何かが足りないのである。

その何かの不足のために、物語の訴求力が低下したことで、観終わった後の「言外の情趣」も拾えず、単に、「よくまとまった作品」以上の好印象を持ち得なかったのである。

何が足りなかったのか。

それを一言で言えば、主人公・兼見三左エ門(以下、兼見)の内側深くに迫っていくような「葛藤・内省描写」である。

「葛藤・内省描写」の不足によって、兼見の人格像に「厚み」が感じられず、「寡黙の美学」を印象誘導しただけの表層的な人物像しか持ち得なかったのである。

葛藤とは、内側に相反する感情が同時に出来し、それが、他の因子をも包含して、複雑に絡み合う心理状態のことである。

複数の異なる感情が、一人の人間の内面で衝突することで、往々にして、自我の内部で苛烈な火花を散らすのだ。

「葛藤・内省描写」の成就が、生身の質感を有する人格像に結ばれていくことで、多くの秀逸で、緊張感のあるドラマが構築されるのである。

葛藤なくして、人間は前に進めない。
 
前に進めない心理的背景に、〈生〉に対する執着心の不足が関与するとも考えられる。

確かに、この性格傾向は、本作の主人公・兼見の人格像の肝に当ると思えるほど、その人物造形が際立っていたことは否定しない。

しかし、反転して考えれば、〈生〉に対する執着心の不足を強く印象付けるような、的確なシーンのインサートによる「葛藤・内省描写」が必要となるだろう。

本作では、それを拾うことも難しかった。

〈生〉に対する執着心の不足を強く印象付ける兼見の心象風景が、愛する前妻・睦江の逝去によって形成された感情であることが、幾つかの回想シーンで提示されていたが、その提示もまた、あまりに表層的だったからである。
 
この辺りの「葛藤・内省描写」を不足させて、フラットに延長された物語は、「正義」と「正義」との直接対決(兼見vs帯屋)を経て、「悪の元凶」を「必死剣」で屠って自壊していくまでの、言わば、「静」から「動」に決定的に変容する、ラスト20分の「爆轟(ばくごう)と炸裂」のシークエンスのうちに収斂されていくが、私としては、「中途半端なミステリー」を優先させたことで失った代償を考えるとき、やはり本作は、巧みに演じ続けた俳優たちの生身の質感を活かし切れない、シナリオの瑕疵に起因する構成力の問題を無視できないのである。

ここで言う、「中途半端なミステリー」とは、死を覚悟したテロの遂行による処分があまりに寛大であり過ぎたことや(一年の蟄居閉門と禄高の半減化⇒地位と碌の回復)、近習頭取(主君の傍らにあって、秘書的な仕事に携わる者)の地位に復職させながら、兼見の顔を見ることを嫌悪する暗君のシーンを重ね合わせると、陰謀の仕掛け人が津田民部であるということが容易に想像できるにも拘らず、一貫して、この主人公・兼見は、処分の「理不尽なまでの軽さ」に疑念を抱きつつも、津田民部の意のままに動き、「テロリスト」としての「役割」を担ってしまうのである。

以下、津田民部から、「テロリスト」としての「役割」を求められる決定的シーンを想起したい。

「思うに、その剣を使うときには、半ば死んでおりましょう」
 
件の津田民部から、誰も見たことがない「鳥刺し」が、なぜ「必死剣」と呼ばれるかと問われた際の、兼見の答えである。

誰も見たことがない「鳥刺し」の情報を、津田民部がどのように手に入れたかについて疑問に持つところだが、ここは若気の至りで、友人の「誰か」に語ったということでスルーしよう。

「それでも、必勝の技に違いないのだな?」

念を押す津田民部。

首肯する兼見。

兼見が、直心流の達人、帯屋隼人正の殺害を命じられたのは、この直後だった。

かくて、津田民部の差配によって、近習頭取の地位に復職した兼見は、民部の意のままに動き、使役されていく。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/ 必死剣 鳥刺し(‘10) 平山秀幸<「葛藤・内省描写」の不足によって失った生身の質感を有する人格像の厚み>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/06/10.html