放浪記('62)  成瀬巳喜男   <天晴れな映画の、天晴れな表現宇宙が自己完結したとき>

 1  成瀬映画の集大成としての「放浪記」



 「放浪記」は成瀬映画の真骨頂を発揮した作品である。

 その意味で、成瀬映画の集大成でもあると言える。

 作品の内に、成瀬映画を特徴づける人生観、人間観のエッセンスが収斂されていると思えるからだ。

 私見によれば、成瀬映画とは、「人生は思うようにならない」という人生観を根柢に据えていて、そこに、成瀬映画を特徴づける幾つかの要素や内実が束ねられているような表現宇宙である。

 それらを列記すれば、以下の要素に集約されるだろうか。

 即ち、「描写のリアリズム」、「善悪二元論の希釈化、或いは、無化」、「自立する女と、依存する男」、「別離の悲哀」、「ユーモア、諧謔」といったところだろうか。

 「放浪記」には、ここで列記した全ての要素が詰まっているのである。

 成瀬映画の「描写のリアリズム」について言えば、「美男美女という相貌制約」、「偶然性への依拠」、「物語の起伏、反転や起承転結性」、「通俗性・情感性」、等々のカテゴリーの限定性によって、「展開のリアリズム」を壊さざるを得ない「典型的メロドラマ」を例外にすれば、一貫して保持されていると断じていい。

 「放浪記」では、醜女(しこめ)とは言わないまでも、高峰秀子の眉と目尻に細工したメーキャップに依拠した、「美女性の解体」よるヒロイン像の立ち上げが保証した「描写のリアリズム」は、映像総体を支配するほどの表現力を構築し得たと思われるのだ。

 「善悪二元論の希釈化、或いは、無化」について言えば、本作の場合、見事なまでに貫徹されていた。

 何より、ヒロインのふみ子(林芙美子のこと)自身が、「善悪」の振り子の振幅が定まらず、赤貧洗うが如しの身過ぎ世過ぎを繋ぎながらも、後輩のカフェの女給に金銭援助をする親切を示す反面、かつての恋敵であった同人誌の仲間から依頼された原稿を、故意に遅れて届けたことで、当人から引っ叩かれる始末なのだ。

 これは、自立志向の強いふみ子の視座から言えば、「自分の原稿は自分で届けろ」という、淫売になっても食っていかざるを得ない骨太の人生観を露呈したもので、良くも悪くも、そこに殆ど罪悪感情の媒介がないともと言える。

 その意味では、ふみ子の「善悪」の振り子の振幅が定まらないと見るよりも、彼女が自己基準の「倫理観」で行動していると把握すべきだろう。

 また、ふみ子が、駄菓子屋の二階での間借り暮らし以来からの知り合いである、印刷工の安岡の真面目で温厚な人柄は「善人」そのものだったが、言うまでもなく、それは安岡の恋愛感情によるふみ子への特定的な親切心の表れ以外ではなかった。

 当然過ぎることだが、文学者を自称する男が駄菓子屋に訪ねて来たとき、ふみ子を階下から深々と覗き見する態度を見れば判然とするように、真面目で温厚な人柄の印象を与える安岡の「善人性」は、一貫して「男の下心」の範疇で表現されていたのである。

 「自立する女と、依存する男」と「別離の悲哀」について言えば、ハンサムボーイに身も心も投げ入れていく献身性を無前提に表現する、ヒロインであるふみ子の人生の軌跡そのものだった。

 
(人生論的映画評論/放浪記('62)  成瀬巳喜男    <天晴れな映画の、天晴れな表現宇宙が自己完結したとき>)より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2010/06/62.html