JSA('00) パク・チャヌク <澎湃する想念、或いは、「乾いた森のリアリズム」>

 1  澎湃する想念 ―― 立ち上げられた反米のスーパーマン



 「ヒットの理由は、タブーに対する挑戦だったからだと思います。北朝鮮の人々をどう考えるかについては、強要された思考方式と、植え付けられたイメージがあった。そこから抜け出して、彼らも私たちと同じ人間なんだと一度考えて見ると、あまりに当然であったために、一度ひっくり返してみると、当たり前の真実が一目で分ったときに感じる解放感があったのです」」(「NHK『ETV特集・韓流シネマ 抵抗の系譜』2009年6月14日放送)

 以上のインタビュー記事は、「JSA」について語ったパク・チャヌク監督(画像)自身の言葉。
 
  更に、本人が所属する「386世代」(注1)についての、「特別な感情と特徴」の感想を聞かれたときの本人の言葉。

 「あの日常化していた暴力、国家権力による暴力を経験したことで私たちは成長しました。その苦痛や恐怖を知っており、一方では、それを克服したという自負心があります。この二つが共存しているという点が、私たちの世代が共有する記憶であり、又、私たちの世代の特徴だと思います」

 この作り手の言葉の中に、極めてアンタッチャブルなテーマに切っ先鋭く迫っていった本作のライトモチーフが、平易に且つ、驚くほど直接的に語られていた。

 しかしこの挑発的なドラマのカテゴリーは、「人間ドラマ」としての奥行きの深さで勝負する作品としてではなく、そこはいかにも386世代の個性的な表現者らしく、娯楽性の要素をも存分に包含した「サスペンスドラマ」の作品として、単に、「娯楽ムービー」を堪能するレベルの鑑賞者を排除する意図すら感じさせるほどに、時代の空気感に睦むかのような鮮烈なメッセージ性をも内包させつつ、随所にハリウッド的な手法を駆使した映像表現の中で、「乾いた森」の中枢を暴れ回っていたという印象が強かった。

 忌憚(きたん)なく書けば、「反米」と「親北」というモチーフの暴れ方が、観る者の想像を超えるほど、直接的に映像化された作品であったということだ。ある意味で、「太陽政策」という、今ではその破綻が検証されているとも言われる国家の基幹の外交政策の、その緩やかな文化風土の時代限定の映像作品であったということである。

 「北朝鮮の人々をどう考えるかについては、強要された思考方式と、植え付けられたイメージがあった。そこから抜け出して、彼らも私たちと同じ人間なんだと一度考えて見る」という、当たり前過ぎる表現を使用せざるを得ないほど、この作り手にとって、本作の北朝鮮軍人の人格的提示には、「タブーに対する挑戦だった」という把握があるのだろう。

 そのタブーを破って、そこで提示された北朝鮮軍人の人格性は、「彼らも私たちと同じ人間なんだ」という把握をも堂々と越えて、驚くほどに冷静で、自己犠牲的なヒューマニズム精神の体現者という観点から見れば、殆ど完璧過ぎる男であった。
 
 
(人生論的映画評論/JSA('00) パク・チャヌク <澎湃する想念、或いは、「乾いた森のリアリズム」> )より抜粋http://zilge.blogspot.jp/2009/08/00.html