俺たちに明日はない('67)  アーサー・ペン <「初頭効果」によるインパクトを提示した映像の挑発的突破力>

  後に、「クレイマー、クレイマー」(1979年製作)を監督したことで世界的に知られるに至った、テキサス州出身のロバート・ベントンが、ニューヨーク生まれの脚本家であるデヴィッド・ニューマンと組んで、共同執筆した一本のシナリオ。

 それが、テキサス生まれの実在の銀行強盗犯でありながら、世界恐慌下の「悪のヒーロー」としての人気を得ていた、「ボニーとクライド」の実話をベースしたシナリオであった。

 当時、無名の30代の青年が共同執筆したモチーフの起点は、1950年代後半に、フランス映画界に出現したヌーベルバーグの澎湃(ほうはい)たる波浪の気運の内に求められるだろう。

 ジャン=リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959年製作)に代表される、「物語」の呪縛を解いた映像革命を目の当たりにした二人は、警官殺しの主人公を描き出した件の作品に衝撃を受け、ハリウッドムービーのタブーに挑戦するかの如く、「悪のヒーロー」=「反秩序・反道徳・反体制のヒーロー」像の映画化を目途に疾駆したのである。

 「ヘイズ・コード」―― それこそ、ハリウッドムービーのタブーの元凶だった。

 検閲権を映画産業の下に置いたMPPDA(アメリカ映画製作配給業者協会)による、セックス、バイオレンスの直接的、且つ、過激な描写の規制によって、アメリカ社会と、そこに住む家族に対する健全なイメージを頑固に守り抜いていたという自負が、この国の映画界には存在していたのである。

 その検閲システムこそ、ハリウッドムービーのタブーを定めた「ヘイズ・コード」だった。

 この「ヘイズ・コード」の存在によって、脚本を執筆したものの、ハリウッドに相手にされない二人は、彼らのスピリットに共通するヌーベルバーグの一方の旗手、フランソワ・トリュフォーに脚本を送りつけたのである。

 一方、そのフランソワ・トリュフォーと関係を作ろうとしていた、一人の有名なアメリカの俳優がいた。

 彼の名は、ウォーレン・ベイティ

 彼は「草原の輝き」(1961年製作)によって、少なからぬ注目を集めていた新人だったが、それ以降、会心のヒット作に恵まれず、ハリウッドでの復活を虎視眈々と窺っていた。

 フランソワ・トリュフォーとの関係は、ウエルメードな作品への依頼によって開かれたが、折悪しく、他の仕事(「華氏451」)を受けていたトリュフォーが推薦したのが、ロバート・ベントンらから送られていた「ボニーとクライド」だった。

 シャーリー・マクレーン実弟であるというコネもあって、ハリウッドと深い関係を持つウォーレン・ベイティが、この脚本に強い関心を示し、その映画化を考えたことで、一気に無名のライターたちの毒気含みの脚本が世に出ることになったのである。

 その脚本の監督を、「奇跡の人」(1962年製作)のアーサー・ペンが引き受け、プロデューサーを兼ねていたウォーレン・ベイティが主演することで、この国の映画史を塗り替えるエポックメイキングな革命的事態が惹起されたのだ。

 フランソワ・トリュフォー経由で呱々の声をあげたその作品(原題:Bonnie and Clyde)を、日本では「俺たちに明日はない」(1967年製作)という邦題による著名な映像として紹介され、ここに、その後、十年ほど続く「アメリカン・ニューシネマ」の先駆になったのは周知の事実。

 伝説とは得てして、このような偶然の産物から生まれるように見えるが、しかしこの作品が世に出る「動乱の60年代」という歴史的背景こそが、実質的な推進力になったと言えるのだろう。

(人生論的映画評論/俺たちに明日はない('67)  アーサー・ペン  <「初頭効果」によるインパクトを提示した映像の挑発的突破力>)より抜粋http://zilge.blogspot.com/2010/04/67.html