「幸福の最近接領域」―― 自我をスモール化した若者たちの戦略の行方、或いは、覚悟なき「絶対依存」の冷厳な現実を直視して

 1 未知のゾーンを広げてしまった厄介さ

 「幸福の最近接領域」とは私の勝手なネーミングで、これは発達心理学で著名な、旧ソ連ヴィゴツキー(写真)の「発達の最近接領域」という概念から借用したものだ。

 ヴィゴツキーは主著「思考と言語」(上/明治図書)の中で、「大人の指導のもとで、可能な問題解決の水準と自主的活動において可能な問題解決の水準との間の食い違いが、子供の発達の最近接領域を決定する」と述べている。

 つまり大人の援助によって、子供が自主的に発達を遂げていくことが可能な発達レベルを、彼は「発達の最近接領域」と呼んだのである。私はこの定義を転用して、「本人がそれを志向し、自主的行動によって到達し得る社会的に認知された幸福水準」を、「幸福の最近接領域」と呼ぶことにしている。

 人々は、当然の如く、この「幸福の最近接領域」に留まるための方法論として安定企業を求めるのである。この国の人々に根強い平等志向は、社会的に認知された幸福水準に自らもインボルブさせたいという心理であり、そこにインボルブできなければ不安を掻き立ててしまうような感情ラインであると言っていい。このモチベーションによって、人々の欲望前線がうねりを上げて澎湃した高度成長期の際立った暴れ方を特徴づけたのである。

 その尖った時代は、この国に呼吸を繋ぐ人々を必要以上に動かし、吸収し、そして変化していった。

 その変容のプロセスにおいて、人々の幸福水準は、豊かさに比例して高度化していくのだ。共同体社会の同質性を身体記憶する自我にとって、この社会で呼吸を繋ぐ時間は、眼に見えない疲労の累積以外の何ものでもないと言えるかも知れない。これは、高度産業社会の宿命でもあるだろう。

 我が国の歴史の中で決定的に重要な分岐点となった高度成長期の時代下で、人々は、制度化されざる基幹的な心理的文脈である「幸福の最近接領域」を仮構し、そこにインボルブするための方法論として選別された、より条件の良い安定企業に列を成していく。そんな人々が加速的に増加するに至り、隣家との微小な差異までも気になってならない心理を随伴した、眼に見えない「幸福競争」の到来を必然化していったのである。それは、「横一線の原理」で駆動していく国民性に見合った騒ぎ方でもあった。

 過剰な社会現象は、当然の如く、その現象に馴染めないメンタリティを抱懐する人々を生み出していく。確信的な逸脱者を含む一群の人々は、大いなる異議申立者となって自らを立ち上げていくケースも稀ではなかったが、当該社会それ自身の規範の体系が強いる、眼に見えない包囲網からドロップアウトする若者たちも現出するに至ったのである。

 ともあれ、社会的に認知された幸福水準に固執する人々の間に教育熱が加速的に広がり、少しでも良いポジションを得るために、人々の「幸福競争」は、かくして、「受験戦争」と称される脱落しないためのサバイバル・レース(注1)と、階層的に差異化するためのトーナメント・ゲームを分娩したのである。


(注1)これが「お受験」の最大のモチベーションである。たまたま良いポジションを獲得し得る子供を持つ親は、人間の快感神経に導かれて、「もっと良いポジションを!」という心理の内に「上方修正」を果たしていくという文脈を、一貫して「エリート教育」の構成要件(優秀な教師、特別なカリキュラム、競争による淘汰)を理解することなく、殆ど生理的にそれを厭悪するこの国の人々は、しばしば「エリート主義」と呼んだりするだけであるだろう。


 良かれ悪しかれ、労働力確保のために終身雇用性を背景にした「解雇権濫用法理」(注2)によって、労働者の権利が守られていた高度成長の時代は、紛れもなく、我が国の大いなる欲望前線を過剰なまでに駆り立てていった、一つの画期的な生活文化革命であった。


(注2)「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当として是認することができない労働者の解雇は、解雇権の濫用として無効であるという労働法学上の考え方。2003(平成15)年の労働基準法改正により、立法化された」(法テラスHP「法律関連用語集」より)


 多くの日本人が本来的に持ち得ると信じて止まない「抜きん出た勤勉精神」(?)は、この時期においてこそ全面的に展開されたと言っていい。眼の前に広がっている豊潤な蜜の味が、自分の持ち得る能力によって手に入るかも知れないと確信できたとき、そこに何か特別な事情でもない限り、恐らく、人間の達成動機は全開して、その獲得を目指して必死に頑張るだろう。

 我が国で、「努力」という言葉が真の意味で説得力を持った時代こそ、この生活文化革命の只中ではなかったのか。そう思われるのだ。  

 では、我が国の画期となった時代を引っ張っていった大いなる欲望前線の氾濫は、21世紀をとうに超えた現在、果たしてどのような様態を見せているのだろうか。

 以下、「幸福の最近接領域」の、その変容の様態についての言及がテーマとなるが、現代の若者たちの意識の有りように焦点を当てて簡単にスケッチしてみたい。


 ―― 然るに、本稿を加筆するにあたって、正直言って、私は今、多いに困惑している。私たちが呼吸を繋ぐこの社会の、その未来の視界が益々不透明になってきていると思われるからだ。

 私たちの社会は、恐らく今、それまでの歴史がそうであった不透明な展開より濃度の深いと思われるほどの、何か一寸先も読み切れないような未知のゾーンに踏み込んでいる。それも、相当に困難なゾ―ンであるだろう。

 2001年9月11日に惹起した震撼すべき事件の闇は、数多ある「陰謀説」の類を度外視することを前提に考えたとき、今なお不透明な薄気味悪さを顕在化させてきているように見えるのだ。それは単に「文明の衝突」という認知の枠組みさえも超えて、これまでの政治的主張を明瞭にした目的的テロリズムではなく、「地表爆発」(テロリストが、核兵器を都市の只中で自爆させること)などというクライシスが指摘される事態の脅威に象徴化されているように、文明社会それ自身の致命的破壊を意図したような、所謂、「ポストモダン・テロ」の様相を呈してきているのである。

 それについて今、最も気になる事態を言えば、かつてインドに対抗するためにカーン博士がその開発に大きく関与した、60発あると言われるパキスタンの核の問題だ。ザルダリ大統領は不安を払拭するのに懸命だが、その保管場所を絶えず移動している核兵器を移動する際に、アルカイダ等のテロリストに狙われる危険性が、かつてなく高まっているという現実の恐怖に震撼するばかりである。

 
(「時代の風景/「幸福の最近接領域」―― 自我をスモール化した若者たちの戦略の行方、或いは、覚悟なき「絶対依存」の冷厳な現実を直視して  」より)http://zilgg.blogspot.com/2009/03/blog-post_10.html