大鹿村騒動記(‘11)  阪本順治 <寒々しいコメディラインの情景への大いなる違和感>

イメージ 11  寒々しいコメディラインの情景への大いなる違和感



 「前回の『KT』と違うのは、暗いトーンで終わる話ではなかったこと。基本は喜劇ですから」(阪本順治×荒井晴彦 対談:前編 - ソフトバンク ビジネス+IT

 これは、阪本順治監督の言葉。

「基本は喜劇」と言いながら、最後まで、全く笑いを誘われることがなかった。

 面白くないのだ。

 取って付けたようなエピソードの挿入の連射が、コメディラインの物語の鋭利な切れを削り取ってしまっていて、うんざりする程のパッチワークの雑多な惨状に眼を覆うばかりだった

 著名な俳優をコラボさせれば面白くなるというチープな発想が介在していたが故なのか、性同一性障害』を抱えた青年」、「『開発促進』のプロジェクトで危機感を覚える専業農業者」、「シベリア抑留のグリーフワークを抱える老人」等々、実は、それぞれに深刻な背景を持つ登場人物たちを、「選択無形民俗文化財」(注)の指定を受け、300年以上の伝統有する「農村歌舞伎」の大団円に収斂させるべく配置させているが、内面深く侵入していくシーンが最初から捨てられる一種の群像劇であると了解し得ても、物語構成のメインとなる特化された3人の、相応の交叉以外に濃密な絡みが希薄だから、そこに集合した炸裂するエネルギーが大団円に向かって小気味よく収束されるイメージとは程遠く、ただ単に雑多にパッチワークされているだけだった。

雑多にパッチワークされた人物造形が、芸達者な俳優を使い捨てていくだけの、殆ど表層擦過のフラットな描写の域を全く越えられず、そこで拾われたのは、「ハレ」に雪崩れ込むときの微妙な「」の隙間を、ヒューマニズム気取りの本作が強引に抱え込む、深刻さを仮構した「非日常」の時間で埋めてしまう「ドタバタ性」以外の何ものでもなかった。
 
そればかりでない。
 
最後まで全く笑いを誘うことのない本作の最大の瑕疵は、海馬(大脳辺縁系の一部)の神経細胞の障害による脳萎縮であるアルツハイマー認知症とは切れて、破廉恥行為に象徴される、常軌を逸した「攻撃的な情動反応」を症状化する「ピック病」の「BPSD」(認知症の周辺症状)を患う初老の女性・貴子が、「非日常」=「ハレ」の日の炸裂を控えて、特化された登場人物の落ち着かない「日常」=「」の時間を支配することで、「少女のように無邪気な貴子」という公式サイトの言辞に露呈されているように、「ハレ」にシフトするときの「」の隙間を、「非日常」の時間で埋め尽くしてしまう物語が内包する不見識な設定が、ラストカットに至るまで、観る者に大いなる違和感を与え続けた描写の総体性にあると言っていい。

それは、重篤な脳障害である「ピック病」の「BPSD」を、彼女の存在なしに成立しない「ご都合主義」のインサートのうちに決定的に利用する物語展開のあざとさのダダ漏れでもあった。

 例えば、記憶を取り戻した貴子の失踪を描いた雨中のシーン。
 
必死の形相で、貴子を探しにいく治の後姿を見て、「一度目は悲劇。二度目は喜劇」と下品な笑いを捨てる旅館主人の言葉に、正直、驚嘆した。

コメディラインの乗りで、こんなカットを挿入する作り手の知性と見識を疑うばかりなのだ。

この言辞には、とうてい笑って済ませない毒素が振り撒かれていた。

無論、そこには悪意がないだろう。

悪意がないからこそ、余計に気になるのだ。

要するに、重篤な脳障害である「ピック病」の「BPSD」をコメディの出しにしても、「コメディラインなら何でもあり」という暗黙の了解に甘え切っているからである。

 「あの人を裏切って、治さんとのこのこ帰って来たりして、また、あの人を裏切った。あたしもう、人間じゃなくなってしまう。生きていてもしょうがない」

 大雨に打たれて、ふらつく貴子を保護した雷音(「性同一性障害」を抱えた青年)にそう叫んで、嗚咽する貴子。

それは、命の危うさを感受して、失踪した貴子を探すシーンに、寸分のユーモアにも届かない「悲劇・喜劇」、即ち、認知症と化した駆け落ちのパートナーを随伴しての帰村による「悲劇」の挙句、今度は、そのパートナーに支配される〈状況〉に翻弄される、「ドタバタ性」の「喜劇」などという愚劣な台詞をインサートする、知性の非武装性の爛れようであり、極めつけの見識の剥落であったという訳である。

 何とも寒々しい、コメディラインの情景への大いなる違和感だった。
 
 
 
(人生論的映画評論・続/大鹿村騒動記(‘11)  阪本順治 <寒々しいコメディラインの情景への大いなる違和感>)より抜粋http://zilgz.blogspot.jp/2013/02/11.html