人生論的映画評論・続あの夏、いちばん静かな海。('91) 北野武 <「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>より


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<「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」について>
 
 
1  「台詞なき世界」について
 
 
この映画のキーワードは3つある。
 
「台詞なき世界」、「生命線としての音楽」、「死の普遍性」である。
 
まず、「台詞なき世界」について。
 
「障害者は庇護されるべき特別な存在である」
 
この命題に異論を唱える勇気ある御仁は少ないだろう。
 
それ故、この命題から様々なテーマを汲み取って、ヒューマンドラマにする商業戦略の流れが途絶えることはない。
 
即ち、「障害者をサポートする献身的な介護者」とか、「自力で障害の難題を乗り越えて能動的に生きる障害者」などのテーマで製作されるヒューマンドラマである。
 
障害者はドラマになりやすいのだ。
 
厄介なことだが、この国で障害者の問題をテーマにするとき、ヒューマンドラマの「感動譚」に収斂されるような作品が作られやすいという空気がある。
 
 実話をベースにした「名もなく貧しく美しく」(1967年製作)などは、その典型である。 

ところが、本作の場合は、些(いささ)か風景が違う。
 
障害者差別の問題とは無縁な物語構成になっているのだ。
 
確かに、主人公の聾唖者(ろうあしゃ)は清掃業の助手を務め、年上の従業員に職務怠慢で叱責を受けたり、或いは、彼の友人から揶揄(やゆ)されたり、投石を受ける描写が挿入されていたが、それらは障害者差別の問題に帰趨(きすう)させる種類とは全く異なっている。 

それらはどこまでも、抱えるハンディと共存しながら普通に働き、普通に恋愛をし、そして普通に趣味を見つけ、その趣味を自分の生き甲斐(いきがい)にまでしていくという、普通の物語のカテゴリーを逸脱することがないのだ。
 
因みに、WHO(世界保健機関)が発表した国際障害分類による、障害の3つのレベルとは、「機能・形態障害」、「能力低下」、「社会的不利」(ハンディキャップ)。
 
本作の主人公が、物語の中で(こうむ)った障害のレベルは、サーフィン大会の際、聾唖のためアナウンス音が聞きとれず、あえなく失格となってしまったエピソードに象徴されるように、「社会的不利」のレベルの範疇に収斂される何かであって、それ以外ではなかった。
 
本作の主人公の名は、茂。
 
その茂が確保した趣味とは、ゴミ集積所で見つけたサーフボードを少し手直しして、「素人サーファー」を立ち上げていくことだった。
 
その茂を支える恋人の名は、貴子。
 
映像では、一度も名前を呼ばれたことはない。
 
二人とも聾唖者であるが故に、ここでは、「台詞なき世界」が紺碧(こんぺき)の海の風景の只中で開かれていくのだ。
 
茂と貴子の関係が、濃密な恋人同士の関係であるということは、観る者に容易に想像できる。 長尺のサーフボードのため、バスに乗車できなかった茂が、乗車できた貴子との物理的距離を縮めるために、次のバス停で降りた彼女と、その彼女を追い駆ける茂との全き接触のためのランニングシーン。
 
些か物語的な臭さが気になるが、印象深いシーンだった。
 
夜の路上で、ようやく物理的距離を縮めた二人は、じっと見つめ合った後、肩を組んで仲良く帰路に就く。
 
このシーンに象徴されるように、二人の間には、「性愛」の関係にまで踏み入っていることが容易に想像できるが、一貫して北野武監督は、性愛描写を削り落していた。
 
「そんなことは想像すれば分るだろう」
 
そう言うに違いない、作り手の作家精神が伝わってくるようだ。
 
普通に生き、普通に恋愛し、普通に趣味に興じる二人の聾唖者の物語に、差別の問題が媒介する余地がないとは到底思えないが、それもまた、「想像すれば分るだろう」という一言で片づけられそうだ。
 
北野武監督は、確信的に、それらの意味のない描写を切り捨てて、物語として成立するギリギリの辺りで、二人の聾唖者の世界の中枢に肉薄していったのである。
 
まさに、「台詞なき世界」の映像の立ち上げこそが、その本来的目的であったかのように。
 


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